【マイルーム】異世界を旅する隠れ家とおひとりさま便利屋、ただしヤバい秘密があるらしい
月影 朔
第1部 第1章:始まりの『マイルーム』
気づいた時には、俺は文字通り「無」の中にいた。
直前まで何をしていたか、思い出そうとするほど頭が霧の中を漂う。ただ覚えているのは、ひどい疲労感と、もう何もかも嫌になって「どこか遠く、誰もいない場所へ行きたい。一人になりたい」と心底願っていたこと。そして、目の前の人間関係から、仕事から、期待や重圧から、全てから逃げ出したかったという強烈な衝動だけだ。
現代日本での俺の日常は、息苦しさそのものだった。システムエンジニアとして、それなりの知識と技術を持っていた自負はあった。高度なプログラミング技術、システム設計能力、ネットワークに関する深い知識…それらは、プロジェクトを成功に導く上で確かに力になった。しかし、それがかえって俺を追い詰める結果となったのだ。上司からの過大な期待は、常に俺に達成不可能な目標を課し、残業は当たり前、休日出勤も厭わない献身を求めた。チーム内の人間関係は、成果を巡る足の引っ張り合いや、責任の押し付け合いで荒んでいた。俺の技術を頼りながらも、成功すれば自分の手柄にし、失敗すれば俺に責任を転嫁しようとする者もいた。技術的な議論は、いつしか感情論や派閥争いにすり替わり、純粋にものづくりに向き合える時間は失われていった。休憩時間ですら、誰かが話しかけてくるんじゃないかと気を張る日々。ランチはいつも一人で、デスクで味気ないコンビニ弁当をかきこむか、時間をずらして人目を避けるかだった。
人と関わるのが苦手だったわけではない。かつては、誰かと共に何かを成し遂げることに喜びを感じた時期もあった。しかし、そこに必ず生まれる責任、期待、裏切り、そして言葉にならない軋轢といった負の感情に、俺の心は徐々に摩耗していったのだ。自分の知識や技術を活かして、誰かの役に立ちたいという思いは、泥沼のような人間関係の中で錆びついていった。
だから、「一人になりたい」と願った。文字通り、物理的に誰もいない場所へ行きたいと。誰の顔色も窺わず、誰かに何かを期待されることもなく、ただ自分のペースで静かに生きたいと。休日には、お気に入りのカフェで静かに本を読んだり、自宅で趣味のプログラミングや模型作りに没頭したりするのが、唯一の安息だった。淹れたてのコーヒーの香りに包まれながら、物語の世界に没頭する時間は、何物にも代えがたい、自分だけの聖域だった。その「一人になりたい」という、魂の叫びにも似た強い願いが、この「無」に繋がったのだろうか?
視覚も聴覚も、何もない空間。光も音も、肌に触れる空気もない。ただ「何もない」という感覚だけがある。しかし、確かに俺はここに存在している。自分の手足の感覚はある。心臓の鼓動も聞こえる。全身の感覚を研ぎ澄まそうとするが、何も捉えられない。完全な静寂。恐怖よりも、その静寂への圧倒的な安堵が先に立った。あの息苦しい現実から完全に解放されたのだという実感。心の奥底から、張り詰めていた糸がゆっくりと解けていくのを感じた。凍てついていた感情が、ゆっくりと溶け出すような温かさ。それは、心が深呼吸をするかのように、ゆっくりと安らいでいく感覚だった。五感を奪われた空間にもかかわらず、そこにあるのは絶対的な安全と、そして孤独。しかし、その孤独は、かつて自分が切望したものだった。
その時、頭の中に直接響くような、奇妙な声が聞こえた。それは、耳で聞く音とは異なり、脳に直接情報が入力される感覚だ。まるで、思考そのものが声になったかのようだ。それは、感情を持たない、極めて機械的な声だった。
『個体:ハヤテ・リョウの強い願望「孤独」と「自由」を感知。異世界への転移条件を満たしました。以下、特典スキルの付与を行います。プロセス開始。』
戸惑う間もなく、体に力が満ちていくような感覚と共に、新たな情報が頭に流れ込んでくる。それは、現代のコンピューター言語よりも遥かに洗練され、理解不能な情報構造だが、なぜかその意味だけは直接脳に伝わる。まるで、未知のソフトウェアがインストールされているかのようだ。体内で何かが再構築されているかのような、微かな熱と震えを感じた。
『スキル【空間収納】を獲得しました。確認コード:α-7S。』
『スキル【拠点創造&移動】を獲得しました。確認コード:β-3M。』
『スキル【現代知識の適用】を獲得しました。確認コード:γ-9K。』
『プロセス完了。異世界への転移を開始します。』
…スキル? 異世界転移? まるでフィクションのような言葉に、混乱しつつも、どこか冷静な自分がいた。これも極度の疲弊のせいか。それとも、得体の知れない力によるものか。流れ込んできたスキル情報は、あまりにも俺の願望に寄り添った、都合の良い能力ばかりだった。
【空間収納】。情報によると、文字通りあらゆる物を異次元空間に収納・取り出しできる能力らしい。容量は無限で、時間も止まる。収納したアイテムは劣化せず、必要な時にすぐに取り出せる。食料の保存、道具の管理、収集したアイテムの保管…一人で異世界を旅して生きていく上で、これほど便利な能力はないだろう。まるで、ポケットに無限の倉庫ができたかのようだ。
【拠点創造&移動】。これまたすごい。任意の場所に、外界から完全に隔絶された自分だけの空間、つまり『マイルーム』を作り出せる。その『マイルーム』は、一度作れば内部環境(温度、湿度、空気の質など)を自由に設定・維持でき、外界の天候や危険から完全に身を守れる。さらに、マイルーム自体を任意の場所に瞬間移動させることも可能だという。自分が望めば、いつでもその場所に安全に帰還できる。これこそ、俺が求めた「誰もいない場所」。究極の隠れ家だ。誰にも見つからず、誰にも邪魔されない、自分だけの聖域。そして、この場所をどうするか…考えるまでもない。俺にとって最も安らげる場所、それは静かで、好きな時に本を読んだり、温かい飲み物を淹れて一息ついたりできる空間…そうだ、「私設図書館兼カフェ」だ。異世界に、自分だけの理想の空間を作り出せる。快適な読書空間と、温かい飲み物がいつでも楽しめる場所。それは、現代での俺の唯一の逃げ場所だったのだ。
そして【現代知識の適用】。これは少し曖昧だ。俺が現代日本で得た知識や技術を、この異世界の法則や素材に合わせて応用可能にするらしい。システム構築、プログラミング、物理、化学、電子工学、機械工学、情報処理、あるいは簡単なDIYや料理の知識まで…これらの知識が、この世界の魔法や技術体系とどう結びつき、どのように役立つのかは未知数だ。だが、少なくとも不便な異世界で生活を営む上で、何か問題に直面した際に、現代的な視点から解決策を見つけ出すヒントになる可能性はある。まるで、異世界版チートコードのような能力だ。
これらのスキル情報と共に、この世界についての基礎的な情報も流れ込んできた。どうやらここは、剣と魔法が存在する、いわゆるファンタジー世界らしい。多様な種族(人間、エルフ、ドワーフ、ホビット、獣人など)が暮らしており、それぞれが独自の文化や技術、社会構造を持っている。魔法は存在するが、現代の科学技術のように体系化されているわけではなく、より精霊的、あるいは根源的な力として描写されているようだ。言語も自動的に理解できるようになっているようだ。まるで、脳に異世界言語パックがインストールされたかのようだ。
異世界、スキル、魔法…まさに望外の展開だが、俺の心は高揚するよりも、深い安堵に包まれていた。これで、あの息苦しい現実から完全に解放された。誰にも邪魔されずに、一人で自由に生きられる。人間関係の煩わしさから解放されて、自分のペースで穏やかに暮らせるのだ。読みたい時に本を読み、美味しいコーヒーを淹れて、気ままに旅をする。想像するだけで、重かった心が軽くなるのを感じた。
しかし、一つだけ、拭えない違和感があった。転移直前の記憶だ。どうやってあの「無」にたどり着いたのか、その瞬間がどうしても思い出せない。まるで、重要な部分だけがぽっかりと抜け落ちているかのようだ。そして、このスキル…あまりにも出来すぎている。まるで、俺の願望を誰かが聞き届け、意図的に与えたかのような、不自然なほどの完璧さだ。自分の意志で得たものではない、誰かから押し付けられたような感覚。体の内側に、自分のものではない、冷たく滑らかな何かが宿っているかのような、微かな感触がずっと続いている。この違和感は、一体何なのだろう? 確認コード…α-7S、β-3M、γ-9K。まるで製品コードのような響きだ。
だが今は、その謎よりも、目の前の自由の方が重要だ。過去は振り返らない。詮索しすぎるのは、いつだってろくな結果にならない。それは、現代日本で学んだ教訓だ。これからは、俺の人生だ。誰にも指図されず、誰かに気を遣うこともなく、ただ自分のために生きる。異世界でおひとりさまを満喫するのだ。自分だけの『私設図書館兼カフェ』と共に。
まずは安全な場所を確保しなければ。情報によると、この「無」の空間から外界に出ることもできるようだが、どこに出るか分からないのは危険すぎる。やはり『マイルーム』だ。外界から隔絶された安全な空間。
意識を集中し、スキルを発動させるイメージを脳裏に描く。『拠点創造&移動』。
強く願う。「外界から隔絶された、絶対的に安全な隠れ家を。…そして、そこは俺にとって最も安らげる、静かで本と温かい飲み物がある空間であれ。」理想の『私設図書館兼カフェ』を、細部まで具体的にイメージする。書棚の材質、ソファの手触り、カウンターの高さ、照明の明るさ、窓から見える景色(今回は外界ではないが、癒される景色)、そして空気の香りまで。
すると、「無」だった空間に、輪郭が現れ始めた。壁、床、天井。最初はぼんやりしていたそれが、みるみるうちに形を成していく。空間が拡大し、イメージ通りの内装が現れてくる。
完成したマイルームは、想像以上だった。広さは、三十畳ほど。壁は温かみのある木目調。床は柔らかいクリーム色の絨毯。天井からは、ロウソクの炎のような温かい光が空間全体を照らしている。空間の一角には、壁一面に続く巨大な書棚。今は空っぽだが、将来異世界の書物で満たされることを考えると胸が高鳴る。もう一角には、深緑色の快適な一人掛けソファと、木製のローテーブル。その隣には、シンプルなカフェカウンターと、作業スペースにもなりそうな大きめのテーブルがある。窓は、外界の景色が見えるが、外界からは内部が見えない特殊な素材でできているようだ。空気は清浄で、微かにコーヒー豆のような香りが漂っている。
まさに、俺にとっての理想郷だ。外界から完全に隔絶された、自分だけの聖域。ここにいる限り、誰も俺を見つけることはできない。誰かに話しかけられることも、誰かの顔色を窺うこともない。ただ静かに、自分のペースで過ごせる。驚きよりも、ただひたすらに便利だと感じた。そして、ようやく手に入れた安息への深い感謝が胸に込み上げた。これなら、異世界でも快適に過ごせる。
マイルーム内での最初の数日は、スキルの実験と内装の調整、そして今後の計画立てに費やした。スキルは、思った以上に直感的で扱いやすい。空間の拡大縮小、内装の変更、水の精製、温度調整…まるで、ユーザーフレンドリーなインターフェースを備えた高性能なシステムを使っているかのようだ。収納空間も試してみる。ポケットに入れていたスマホや財布、着替えなどの現代の荷物を思い浮かべ、「収納」と念じる。すると、手に持っていた物がフッと消えた。収納空間にアクセスするイメージを持つと、無数の区画に分けられた収納空間に、それらが整然と収まっているのが見える。取り出したいものをイメージすれば、手に現れる。容量は無限らしい。これで、旅に必要な全ての物を持ち運べる。衣食住、そして…いつか手に入れるであろう異世界の貴重な書物も。
本…そうだ。現代日本で集めた本や、電子書籍リーダーに入っていたデータは、どうなったんだろう? 空間収納には、転移時に身につけていたものしか入っていないようだ。残念だが仕方ない。だが、それは新たな楽しみができたということだ。異世界で新たな本を探す楽しみが。空っぽの書棚を見上げながら、その日を心待ちにする。
カフェスペースも、必要な道具がまだない。現代知識を応用すれば、異世界の素材から現代の道具を再現できるかもしれない。簡単なコーヒーミルやドリッパー、ポットなど。必要なのは、金属や木材、ガラスなどの素材、そしてそれらを加工する技術だ。マイルームの作業スペースで、簡単な道具の設計図を考え始める。
収納空間から、現代から持ってきたインスタントコーヒーとマグカップを取り出す。熱湯を注ぎ、インスタントコーヒーを飲む。異世界に来て最初のコーヒーは、格別だった。苦味の中に、自由への渇望と、新たな世界への期待が混じり合った味がした。温かい飲み物が、凍えていた心をゆっくりと溶かしていくようだ。
完全に外界から隔絶されたマイルームは、想像以上に心地よかった。誰にも邪魔されない。誰かに話しかけられることもない。ただ自分一人で、好きなように過ごせる。書棚を眺めながら、今後の旅でどんな本に出会えるか想像する。温かい飲み物を淹れて、静かに過ごす。これが、俺が求めていたものだ。過去の人間関係のストレスから解放され、心身ともに休まるのを感じる。
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