浮気とショートケーキ

 ―――平成二十八年、仲春。


「副編集長、行きますよ!」


 坂口が声をかける。


 今日は、ゴールデンウィーク特集の取材で、地元の複合型商業施設――『ココルプラザ』に向かう予定だった。


「はいはい」


 坂口が急かすので、加熱式タバコからスティックを引き抜き、灰皿に押し込む。

 名残惜しかったが喫煙所を離れた。


「形変えても、結局吸ってるじゃないですか」


 坂口が、呆れたように笑う。


「やめようとは思ってるんだけどね……なかなかやめられなくて」


「こないだ、禁煙するって言ってませんでした?」


「したよ」


「何日もちました?」


「んー……六時間くらい?」


「……それ、ただ吸う時間なかっただけですよ」


 坂口が呆れながら、肩をすくめた。


 ココルプラザに着くと、平日にもかかわらず、そこそこの人出だった。


 春休み直前。

 館内では、新生活フェアや春のイベント準備が進められている。


「春休み前って、意外と賑わうんですね」


 坂口がカメラバッグを肩にかけながら言った。


「新生活の買い物とか、イベント狙いもあるからな。うまく集客かけてるよ、ここは」


 エントランス横の広場では、スタッフたちがテントを設営していた。


 俺はポケットから今日の取材メモを取り出し、目を走らせる。


 まずは、施設の広報担当との打ち合わせだ。

 事務所は、館内奥の管理エリアにあるらしい。


「じゃ、広報に行こうか」


 メモをしまい、坂口に声をかけると、俺たちは並んで事務所へ向かった。


 事務所に着くと、中には総務カウンターがあり、すぐそばに女性スタッフが座っていた。


「すみません、中條出版の佐藤と申します。広報の永野さんと打ち合わせで伺いました」


「永野ですね。少々お待ちください」


 女性は電話を取り、内線ボタンを押した。


「永野さん、中條出版の方がお見えです」


 短いやり取りの後、電話を切る。


「こちらへどうぞ」


 案内されたのは、『小会議室』とプレートが貼られた部屋だった。


 中で待っていると、すぐに一人の女性がやってきた。


「お世話になります」


 そう言いながら、名刺を差し出してくる。


 ―――


 株式会社 ココルマネジメント

 広報 永野 美優


 ―――


「すみません、チーフも同席する予定だったんですが、少し遅れるそうです」


 美優は、にこやかに説明した。


 俺も名刺を渡し、続いて坂口も名刺を差し出す。


 美優は二人の名刺を受け取り、しばらくじっと眺めていた。


「佐藤さん、ですよね」


「はい、佐藤と申します。よろしくお願いします」


「……甘くない方の佐藤さん、ですね」


「……え?」


 思わず聞き返すと、美優がいたずらっぽく笑った。


「前に一度、お会いしてますよ。覚えてませんか?」


「……えーと……」


 考えるが、どうにも思い出せない。


「昔、クラブで働いてた時に、お会いしました。確か、大西部長のお連れで」


「あー!」


 一気に思い出した。


 結衣菜――。

 名刺が浴槽に沈んだ、あの夜のことだ。


「あの、スケスケドレスの!」


「……そういう覚え方なんですね」


 美優が小さく吹き出した。


「副編集長、知り合いだったんですね」


 坂口が面白そうに口を挟んできた。


「んー……まあ、前にちょっとね」


 特に語るようなエピソードもないが、少しだけ匂わせるような言い方をしておいた。


「それでは、先に私の方からご説明させていただきます」


 美優はそう言うと、持参していたノートパソコンと会議室のモニターを接続し、パワーポイントを立ち上げた。


「弊社がゴールデンウィークに企画しております、“カフェ・グルメフェス in ココルプラザ”についてご説明いたします」


 画面に資料が映し出され、美優は次々とスライドをめくりながら説明を始める。


 まだ、頭の片隅ではあの”スケスケドレス”の印象が色濃く残っていたけど――

 こうして仕事モードの彼女を見ると、思っていた以上にしっかりしているな、と感心した。


 ふと、あのときの胸元を思い出してしまう。


「佐藤さん?」


「ん?」


「大丈夫ですか? 急にボーッとしてましたけど」


「あ、すみません。大丈夫です」


「……スケスケドレスでも思い出してました?」


 美優は、軽く笑いながら小首をかしげた。


「そ、そんなわけないでしょ。続けてください」


 慌てて言い繕ったが、見事に図星だ。

 心でも読まれたかな。


 そのタイミングで、会議室のドアが開いた。


 俺と同じくらいの年齢の男性が、息を整えながら入ってくる。


「すみません、遅れました。チーフの太田です」


 そう言うと、太田は名刺を差し出してきた。


 説明が終わり、打ち合わせも無事に終了した。


「これからの連絡は、どちらにすればいいですか?」


 俺が尋ねると、太田が答えた。


「彼女が担当なので、今後のやり取りは永野でお願いします」


「名刺に携帯番号とメールアドレスが載ってますので、何かありましたらそちらに連絡してください」


 美優もにこやかに付け加えた。


 俺はうなずき、軽く頭を下げる。

 坂口も続いてペコリと頭を下げた。


 ―――帰社途中の車内。


「永野さん、綺麗でしたね」


 坂口が、助手席でカメラバッグを抱えながら話しかけてくる。


「んー……そうか?」


「そうかって、打ち合わせ中にいやらしいこと考えてたくせによく言いますね」


 坂口がからかうように笑った。


「考えてねぇし!」


 思わず声を張り上げる。


 ……いや考えてた。

 もしかして、俺の心の声って漏れてるのか?


 それから数週間。

 美優とは、電話やメールでやり取りを重ねた。


 取材内容の最終確認、写真データのやり取り、広告ページの校正。


 バタバタしながらも、四月の頭には無事に最終原稿が仕上がり――

 無事に校了を迎えた。


 春の下旬、編集部に届いた刷り上がりを確認すると、

 『カフェ・グルメフェス in ココルプラザ』の特集ページは、表紙に負けないくらい華やかに仕上がっていた。


 ページの片隅に記載された広報担当の名前――「永野美優」の文字。

 あのスケスケドレスの面影は、どこにもなかった。


 ―――平成二十八年、梅雨。


 止まない雨。


 仕事が終わり、会社近くのコンビニ前で立ち止まる。

 電子タバコを取り出し、起動ボタンを押す。


 吸えるようになるまで、少し時間がかかる。

 ……まだ、この間が慣れない。


 加熱が完了し、煙を吸い込んでゆっくり吐き出す。


 これでようやく、仕事が終わった実感が湧く。


 珍しく、定時に近い時間で仕事を上がることができた。


 ――帰るには、少し早い。

 どこかで時間でも潰そうか、なんてぼんやり考えていた時。


「甘くない方の佐藤さんっ」


 後ろから声がした。


 振り返ると、美優が傘をさして立っていた。


「あー、お疲れさまです。今日は上がりですか?」


「今日は上がりです。佐藤さんは?」


「僕もですよ。ゴールデンウィークはどうでした?」


「おかげさまで、大盛況でした!」


 美優はにっこりと笑った。

 その笑顔が、雨空の下でも妙に明るく見えた。


「もう帰られるんですか?」


 美優が傘をたたみ、コンビニの屋根の下に入ってくる。


「いや、帰るっていうより……何しようかな、って考えてたとこ」


 苦笑いしながら答える。


「何ですかそれ」


 美優も笑った。

 そして、いたずらっぽく目を輝かせて言った。


「じゃあ、今から打ち上げしましょう!」


「打ち上げ?」


 少し驚きながら、つられて笑う。


「いいですね。軽くご飯でも行きますか」


「はい」


 美優が、嬉しそうに微笑んだ。


 ―――居酒屋。


「乾杯!」


 ビールとレモンサワーの入ったジョッキが軽い音を立ててぶつかる。


 美優が嬉しそうに笑いながら、レモンサワーをひと口あおった。


「いやー、ゴールデンウィークって、やっぱり一番疲れますね」


「そっちが疲れるなら、こっちは記事の締め切り地獄だよ」


 俺もグラスを傾ける。

 炭酸が喉を刺す感覚が、ようやく“仕事が終わった”実感をくれる。


「でも……副編集長さん、取材中すごく楽しそうでしたよ?」


「楽しそうに見えた? ……だったら、プロの顔ができてたってことだな」


「え、けっこう素で楽しんでたように見えましたけど」


 美優がからかうように笑う。


 俺は苦笑した。


「まぁ、取材っていうか……新しいもの見るのは、昔から嫌いじゃないからな」


「いいですね、そういうの。

 私なんて最近、“またイベントか……”って気が重くなりますもん」


「続けてると、誰でもそうなるよ。最初のワクワクなんて、だんだん薄れる」


「佐藤さんは、もう薄くなってないんですか?」


 美優の声色が、ふいに柔らかくなる。


 俺はグラスを見つめたまま、少しだけ息を吐いた。


「……たぶん、薄くなったら、辞めると思う」


「――かっこいいですね」


 美優が、くすっと笑った。


 グラスを重ねるうちに、美優の目が少しトロンとしてきた。


「酔ってる?」


「んー……ちょっと酔ってるかも」


 美優が無邪気に笑う。


「飲み屋で働いてたから、強いのかと思ってた」


「お店では、ほとんどソフトドリンクですよ」


「そうなの?」


「お客さんのペースで飲んでたら、潰れちゃいますもん」


 美優は、グラスの縁を指先でくるくるとなぞる。


「そろそろ、上がろうか」


 俺が声をかけると、美優がふくれっ面で言った。


「えー……まだ帰りたくないなぁ」


 艶のある声。


「んじゃ、どこかで飲み直す? ……って言ってもな」


 言いかけたところで、美優がすっと席を立った。

 そして、俺の隣に座り、ぎゅっと腕を組んだ。


 至近距離。


 赤くなった頬がすぐそばにあって、

 顔にはラメがキラキラと光っている。

 まばたきをするたびに、照明を反射して、さらにきらめいた。


「――んじゃ、どこか行きましょう」


 思わずドキッとする。


 いかん……いかん……寛、いかんぞ。


 自分に言い聞かせる。


 ふと、頭に美咲の顔が浮かんだ。


 ―――ラブホテル。


 隣で、美優が裸のまま眠っている。


 ……やってしまった。


 テンションに任せて、理性を止められなかった。


 数年ぶりだったのに――

 体は、ちゃんと覚えているもんなんだな。


 ◆


 《取引先の人とご飯食べてくるから、晩御飯は要りません》


 寛からLINEが入ってきた。


 ……もっと早く言えっての。


 ここ数年、寛の帰りは遅い。

 副編集長になったから仕事が増えた――そう本人は言っているけど、

 何となく、家を避けているようにも見えた。


 美咲のことはすごく可愛がってくれてる。

 でも、夫婦の間はもう、すっかり冷え切っていた。


「もうすぐ十時だよ! 美咲、寝る準備しなさい!」


 ――美咲、九歳。小学四年生。


 ソファで韓国ドラマを見ていた美咲が、しぶしぶスマホを置く。


「はーい」


 洗面所へ向かう背中を見送ったところで、玄関のドアが開く音がした。


「あ!パパだ!」


 美咲はぱたぱたと駆け出していく。


「ただいま」


「おかえり!それなに?」


 寛の手元にぶら下がった箱を指さして、美咲が尋ねた。


「ケーキだよ」


「ママー!ケーキ食べてから寝てもいい?」


 そう叫びながら、美咲はテーブルの上に箱を置き、がさがさと開け始めた。


「……ちゃんと歯磨きしてからね」


「はーい!」


 美咲は嬉しそうに箱を開けると、待ちきれないようにショートケーキを手づかみで頬張った。


「ケーキなんて、珍しいね」

 何気なく尋ねる。


「取引先の人がお土産にくれたんだ」


 寛はそう言って美咲の横に移動した。


「美味しい?」


 寛が美咲に声をかける。


「美味しい!……あれ?パパ、今日は顔がキラキラしてるね」


 美咲はクリームのついた指をぺろりと舐める。


「雨に濡れたからかな」


 寛は苦笑して、そのままお風呂場へ消えた。


「食べたらちゃんと歯磨きするんだよ!」


 美咲に声をかけながら、私はふと、脱衣所を覗いた。


 寛が脱ぎ捨てたシャツとズボンが転がっている。


 ……カゴに入れろって、何度言わせるの。


 ため息をつきながら拾い上げると、

 ズボンのポケットがもこっと膨らんでいた。


 ……ポケットの中身も、ちゃんと出してって言ってるのに。


 渋々中身を出すと、小銭とレシートが出てきた。


 レシートは、繁華街で有名な洋菓子屋のもの。

 ショートケーキ四つに、モンブラン二つ。

 合計二千三百三十三円。


 そして、小銭が六百六十七円。


 詰めが甘いっていうか。

 ……嘘が、下手。


 無理して取り繕うくらいなら、最初から正直に言えばいいのに。


 ぼちぼち、終わりかな――


 別に、離婚すること自体はいいけど。

 だけど、美咲のことを考えると、簡単に答えが出ない。


 ……とりあえず、明日、離婚届を取りに行こう。


「ママー、雨すごいね。

 明日も降るのかな?……わっ、光った!」


 遠く方で、静かに雷鳴が鳴った。




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