セックスレスと水面の名刺
―――平成二十三年、夏。
ベッドの中央で、美咲が寝ている。
やっと寝ついたところだ。
静かな部屋に、寝息が微かに響く。
私はスマホを片手に、前の職場で仲が良かった梨花とLINEをやりとりしていた。
彼女の旦那が、昨夜も深酒して帰ってきたらしい。
そして今朝、財布を見たら女の子の名刺が大量に入っていたと、ご立腹中。
《いや数が半端ないの!》
《自分の名刺より多いから!》
《いや、盛ってるでしょ》
《盛ってないって!》
《ババ抜きできるくらいあるから!》
彼女は昔から、大げさに物を言う。
《いや、できないでしょ》
《ババの名刺って何よ》
《「スナック藤 ママ 藤田キヨ」ってのがある!》
《……まぁ、婆みたいだけど》
《ていうか、ヒロさんって女の子の飲みとか行かなそう》
梨花は、付き合っていた頃から寛のことを“ヒロさん”と呼んでいた。
《そうね。好きなタイプじゃないかも》
そのとき。
「何してんの?」
寛が寝室に入ってきた。
「梨花とLINEしてた」
「……あー、梨花ちゃんね」
そう言いながら、寛はベッドに入り込んできた。
「ちょっと狭いって。美咲の隣に行ってよ」
「……茜、久しぶりに、どう?」
寛の腕が、私の体に巻きついてくる。
「ちょっと!」
反射的に突き放すと、寛はベッドから落ちて、ドン!という大きな音が鳴った。
「ねぇ! 美咲が起きるでしょ!」
……ったく。
スマホを見る。
《ちょっとくらい外で息抜きしてもらった方がいいみたい》
―――中條出版、編集室。
「佐藤、今夜空いてるか?」
原稿のチェックをしていると、部長――大西剛志が声をかけてきた。
「今夜ですか?」
スマホを開いてスケジュールを確認する。特に予定は入っていない。
「何も入ってませんよ」
「じゃあ、行くか」
そう言って部長は、手でグラスの形を作って口に運ぶジェスチャーをした。
……ジェスチャーが古い。
「いいですねー!しっかり喉を乾かしときます!」
口ではそう言ったけど――
……だるい。
「詳しくはあとでメール送るよ」
そう言い残して、部長は廊下に消えていった。
するとすぐに、坂口がシューッと椅子を滑らせて寄ってくる。
「何すかね、今の?」
「さぁ……長くなりそうだな」
そう答えると、茜にLINEを送った。
《今日は部長と飲みに行くから、帰りは遅くなるよ》
すぐに返信が来た。
《わかりました》
……文字を見ただけでわかる。
イラついてるな。
俺は、原稿のチェックに視線を戻した。
―――居酒屋。
「乾杯!」
ジョッキを高く掲げ、そのまま一気に口へ運ぶ。
ビールが喉を流れる感覚が、じんわりと心に染みる。
「おー!相変わらずいい飲みっぷりだな!」
部長が豪快に笑った。
「うまいですね!家では発泡酒なんで、ビールなんて久しぶりですよ」
「よーし!今日は飲め!」
ご機嫌な部長。
……毎回この流れ。部長と飲むときの、いわば“掴み”。
実際は家でもビールを飲む。
最近の仕事の話を一通り終えると、話は決まって“自慢話”に移る。
まず、入社当時の話。
「俺が入社した頃は、まだ社員5人でさ。ほとんどの業務、俺が一人で……」
次に、タウン情報誌の創刊話。
「創刊号なんて、まともなライターもカメラマンもいなくてさ。一人で全部こなして、一週間泊まり込みで……」
そして、恒例の“社長の愛人乗り込み事件”。
「急にサングラスした女が会社に乗り込んできて、『中條出して!いるでしょ!』って。
履いてたハイヒールを投げたら、それが専務の頭に当たってさー」
……たぶん、もう俺の方がこの話うまく語れる。
「よし!もう一軒行くか!」
そのまま連れられて、別の店へと移動する。
目の前に現れたのは、
『CLUB MIYABI』という煌びやかな看板。
入り口の脇にはスタンド花がずらりと並んでいる。
どうやら、“姫華”という子の誕生日らしい。
店に入ると、すぐに女の子が部長に駆け寄ってきた。
「大西部長ぉ〜!お待ちしてました〜!」
「姫華ちゃん、誕生日おめでとう!」
……なるほど。今日はこれが“本命”か。
店内に並ぶ華やかな花たちの中で、ひときわ目立つ胡蝶蘭が一つあった。
『姫華 誕生日おめでとう
大西剛志 より』
……見なかったことにしよう。
席に着くと、部長はすっかりご満悦。
指名の子と楽しそうに盛り上がっている。
俺の横にも、可愛らしい女の子が座った。
「結衣菜です」
夜の街以外では着られなさそうな、胸元が大きく開いたドレス。
脇から太ももまで、レース越しに肌が透けている。
……昨日、茜に拒まれたばかりだ。
と言うか美咲が出来てからはしてない…。
谷間がやけに眩しく見える。
「お名刺、お渡ししていいですか?」
そう言って、名刺を差し出してくる。
キラキラした厚手の紙に、
『CLUB MIYABI 結衣菜』の印字。
……もらったところで、こんな高そうな店には、個人では一生来ないだろうな。
楽しそうな部長に、ときどき相槌を打ちながら、隣に座った彼女と――
どうせ二度と会うこともないこの子と、意味のない会話を、ただ淡々とこなす。
これ以上飲んだら、明日まで残りそう……。
早く帰りたい。
◆
「美咲ー! 歯磨きするよ!」
「待ってってば!!」
「早く寝ないと、明日幼稚園行けなくなるよ!」
「いま、パズルしてるの!」
美咲、五歳。
ちゃんと喋れるようになったのはいいけれど、最近は全然言うことを聞いてくれない。
……イライラが、少しずつ積もっていく。
「美咲!!」
力任せに、怒鳴ってしまった。
「うわあぁあぁん!」
……やってしまった。
「ごめん、ごめん」
「ママが悪かったね……」
慌てて抱き上げて、必死にあやす。
小さな体を横揺れしながら、部屋の中を歩く。
しばらくして、耳元で寝息が聞こえた。
――あ。歯、磨いてない。
―――深夜。
物音で目が覚める。
寛が帰ってきて、風呂に入っているようだった。眠い目を擦りながら浴室へ向かった。
脱ぎっぱなしのワイシャツが、洗濯カゴの横に落ちている。
ため息をついて拾い上げ、洗濯カゴに入れようとしたとき、ポケットから紙が一枚ひらりと落ちた。
拾い上げたのは、名刺だった。
『CLUB MIYABI 結衣菜』
……イライラが、さらに積もる。
風呂場のドアを勢いよく開ける。
ドンッ!
「うわっ!」
寛が、アホみたいな顔でこちらを見ている。
「これ、何?」
「え……多分、名刺かな」
「私は一日中、家事しながら美咲と格闘してるっていうのに、
あんたは夜中まで女の子と飲んで楽しそうですね?」
「それは部長が……」
「うるさい!」
怒鳴り返しながら、名刺を寛に投げつけた。
名刺はふわりと宙を舞い、
静かに浴槽へ落ちた。
そして、水面を揺らしながら――静かに沈んでいった。
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