美咲ちゃんのお母さん

水月梟

離婚届と婚姻届

 ―――ダイニングルーム


 壁には、子供が描いた家族の絵が掛かっている。


 棚の上には、女の子の成長を記録した写真と、家族で撮った写真が並んでいる。


 テーブルの上には、白紙の離婚届。

 天井から吊るされたペンダントライトが、それを優しく照らしていた。


 向かいには、妻――佐藤茜が冷めた目で座っている。


 来るべき時が、ついに来たってことか……。


 結婚してやがて十二年。

 干支がひと回りする時間が過ぎようとしていた。


 子供はひとり。今年で十歳の女の子、美咲。

 俺たち夫婦は、もうずっと前から冷え切っていた。


「書いて」


 茜がそう言って、『ハッピーロード創業記念』と印字されたボールペンを離婚届の上に置いた。


「……わかった」


 俺はそれだけ答えて、ボールペンを手に取る。


 深緑の枠で囲まれた『夫』の欄に、


 佐藤 寛

 昭和四十九年三月三日


 と書き出し、空欄を次々に埋めていく。


 届出人の欄に名前を書き終え、ボールペンを置いた。


 茜は離婚届を自分の前に引き寄せ、記入した欄に点を打つようにチェックしていく。


 すべてを確認し終えると、無言のまま『妻』の欄を書き始めた。


 佐藤 茜

 昭和四十八年四月二十日


 その手元を、俺はただ黙って見つめていた。


 ―――平成十六年、秋


 茜・三十一歳。


 私はホテルの調理場で調理師として働いている。


 調理師専門学校を卒業して、そのままホテルに就職した。

 とにかく仕事が忙しくて、夢中で時間を仕事に注ぎ込んだ。


 学生の頃に付き合っていた彼とは、就職して一年も経たないうちに別れた。

 それ以降は、ずっと仕事一筋。


 そんな私にも、四年前に恋人ができた。


 地元の情報誌を発行している出版社で働く彼。

 ホテルの料理特集で取材に来たときに意気投合して、それから自然と一緒にいるようになった。


 何より、私の仕事を理解してくれる、数少ない“味方”だった。


 お互い忙しい中でも、隙を見つけては旅行に出かけたり、ささやかな時間を共有した。


 三十を超えた頃から、ふと結婚や出産を意識するようになった。

 でも私は、そんな気持ちを彼に見せたことはなかった。


 そして先週――

 そんな彼からプロポーズされた。


 いつもなら選ばないような、少し背伸びしたフレンチレストラン。

 席についた瞬間から、何となく“今日は特別な日かもしれない”という予感はあった。


 案の定、彼は不器用ながらも、精一杯のサプライズで指輪を差し出した。


 私は、うなずいた。心から、嬉しかった。


 式は翌年六月にする予定だが、婚姻届は十一月二十二日――“いい夫婦の日”に先立って提出することにした。


 そして今日。

 寛が役所で婚姻届をもらって、私の部屋に来る。


 ―――茜のマンション


 夕飯の支度をしていると、彼が合鍵で部屋に入ってきた。


「ただいま」


「……あんたの家じゃないよ」


 笑いながら振り返ると、彼は妙に得意げな顔をしていた。


「じゃん!」


 昔ながらの効果音を口にしながら、婚姻届を広げて見せてくる。

 テンションが上がってるのはわかるけど、それはまるで“勝訴”と書かれた紙を法廷で掲げる人にしか見えなかった。


「へぇ、初めて見た!」


 そう言うと、彼がすかさず返す。


「初めてじゃないと困るよ?」


 ……初婚じゃなかったらダメなんかい。

 心の中で小さく呟いた。


 夕食を食べたあと、婚姻届に記入することになった。


 ダイニングテーブルの上に置かれた婚姻届。

 私は棚のペン立てからボールペンを一本取り、そっとその上に置いた。


 ボールペンには『喫茶 茜空』と印字されている。


「他に、ちゃんとしたペンなかったの?」


「これが一番書きやすいのよ」


「……実家の店だよね?」


「そうよ」


「何かの記念?」


 彼がボールペンをくるくると回しながら尋ねる。


「そういうの扱ってる業者さんが、“サンプルに”って店の名前を入れて持ってきたんだって」


「……記念の品ってわけでもないんだ」


「書きやすいから!」


 ちょっと語気が強くなってしまい、彼は肩をすくめながら笑った。

 そして、静かに婚姻届に向き直る。


 彼は赤い枠で囲まれた『夫になる人』の欄に、


 佐藤 寛

 昭和四十九年三月三日


 と書き出し、次々に空白を埋めていった。


 届出人の欄まで書き終えると、そっとボールペンを置く。


 私は婚姻届を自分の前に引き寄せ、彼の記入した欄を一つずつ確認しながら、点を打つようにチェックしていった。


 すべてを見終えると、今度は私が『妻になる人』の欄に書き始める。


 鬼神 茜

 昭和四十八年四月二十日


 この書類を提出したら、この“陰陽師みたいな名前”ともお別れか……。


「佐藤 茜」


 新しく呼ばれる名前を、ひとりごとのように呟いた。


 ずいぶん平凡な名前になったな。

 そんなことを思いながら、最下段の届出人の欄に、ゆっくりと名前を記入した。


 ―――


 佐藤 茜


 届出人の欄に、茜が名前を書き終えた。


 俺はそれをただじっと見ていた。


 テーブルの上に置かれた離婚届を挟んで、沈黙が流れる。


 茜はそれを手に取ると、


「お互いの気持ちは、もうわかったでしょ」


 そう言って、婚姻届を三つ折りにし、封筒に入れてテーブルの上に置いた。


「それで、どうする?」


「どうするって?」


「これからのこと」


「……親権とか、監護権とか?」


「それにこの家のこと、財産のこと、美咲に会うときの取り決めも」


「……やること満載ってわけか」


 しばらく沈黙があって、茜は封筒の上に手をポン、と置いた。


「こういうのはどう?」


「美咲が大きくなるまで……そうね、進路が決まって落ち着く頃。高校卒業するまで」


「それまで、一緒に暮らすっていうのは?」


「ん?」


 聞き返すと、茜ははっきりとした口調で言った。


「お互い干渉はしない。好きにしていいわ」


「でも、一緒に住んで、美咲の“父親”としての役割は果たしてほしいの」


「……うん」


 頷きながら考える。


「それって……美咲を育てる“ユニット”を組むみたいな?」


 茜は少しだけ目を伏せ、苦笑いを浮かべた。


「まぁ……そんなもんね」


 この地獄みたいな生活も、もうすぐ終わる。

 それに、美咲とも一緒に暮らせる。

 そう思うと、ふっと肩の力が抜けた。


「……わかった。高校卒業するまで、だな」


「そう」


「それで行こう」


 茜は再び封筒を手に取り、それをしばらく見つめていた。


 俺は席を立ち、茜に手を差し出した。


「それじゃあ――美咲ちゃんのお母さん

 これからの八年間、よろしくお願いします」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る