第10話 忘れられた花の名…
春の朝は、少しだけ冷たい。
雨上がりの森はまだ湿気を含んでいて、草の上には水滴が残っている。
土はぬかるみ、靴の裏に貼りついた泥の重さが、歩みをわずかに鈍らせる。
私はその感触を無視するようにして、草地へと向かった。
リィナは、そこにいた。
昨日と同じ場所――けれど、違って見えた。
霧の中、彼女の輪郭だけが際立って浮かび上がっている。
まるで、今にもその姿ごと霧にさらわれてしまいそうなほど、儚い存在に見えた。
「おい、風邪ひくぞ」
声をかけると、リィナはゆっくりと振り返った。
その表情は穏やかで、どこか遠い夢を見ているような目をしていた。
「……この花、もう枯れかけてる」
彼女の手元には、エルカの群生。
青い花弁が湿気に濡れ、重たげに項垂れていた。
「花は、雨には弱いからな。でも、まだ生きてるよ」
私は彼女の隣にしゃがみ込んだ。
リィナは目を伏せて、指先で一輪の花に触れた。
「夢の中でね――誰かがこの花を手にしてたの。すごく、寂しそうな顔だった」
「誰か、って?」
「……わからない。でも、すごく懐かしい気がした。呼ばれた気がして……気づいたら、ここに立ってた」
夢――
もしくは、それは記憶の断片か。
彼女の中に眠る“何か”が、花を媒介にして顔を覗かせ始めているのかもしれない。
私はそっと、彼女の頭を撫でた。
「名前を思い出す前に、誰かの記憶が先に来ることもある。人は、想いの強い順に覚えてるものだから」
「想いの、強い順……」
リィナはその言葉を噛みしめていた。
そして、ぽつりとつぶやく。
「じゃあ……わたしが、一番強く想ってるのって、誰なんだろう」
その問いには、私も答えられなかった。
誰かを想うという感情は、時に本人すら知らない場所に棲みつく。
過去の深層、記憶の迷宮、あるいは魂の奥底に。
**
小屋に戻ってからも、リィナは静かだった。
火をくべながら、ぼんやりと窓の外を見ている。
その眼差しの先にあるのは、もはや花ではなく、もっと抽象的な何か――過去の欠片か、それとも名も知らぬ誰かの影か。
私は調合台に向かいながら、彼女の存在を意識していた。
今、彼女の魂がどこか遠い場所と繋がろうとしている。
その導線が“花”にあるのだとすれば――
あの花の名前は、かつて私も知らなかった。
いや、正確には“知っていた”が、“忘れさせられた”。
鏡に映した花の名。
かつて、ある少女が口にしていたその名前は、今や世界から完全に消されている。
記録も、言葉も、音の響きすらも。
それは、神によって禁じられた“言霊”だった。
「薬師さん」
リィナの声が現実に引き戻す。
「……わたしのこと、何か隠してる?」
一瞬だけ、息を飲んだ。
けれど、否定するのはもっと嘘になる気がした。
「君の魂には……この世界のものじゃない何かがある。最初から、そう思ってた」
リィナは頷いた。驚いた様子はなかった。
むしろ、どこかでそれを知っていたように。
「……それでも、ここにいていい?」
「当然だよ。君がここにいるのは、偶然じゃない。……だからこそ、守らなきゃいけないんだ」
薪がぱちりと爆ぜた音に重ねて、私はそう言った。
その言葉が、彼女の記憶の扉を開く鍵にならないことを、どこかで願いながら。
**
それは、翌日の朝だった。
空は晴れていた。けれど、その青さがどこか薄く、透けて見えるような不安を伴っていた。
私は軒先で薬草を分別していたが、手元に集中できず、何度も同じ葉を指先で撫でていた。
リィナは庭先にいた。
昨日の花の場所とは違う、もっと奥――川の近くまで行ったようだった。
あの子の足音が、土の上で軽く跳ねる音が、風とともに届く。
それだけで、どこか胸がざわついた。
**
「リィナ、そっちは危ない。川沿いは足場が悪いんだ」
声をかけると、彼女は振り返った。
その瞳には笑みが浮かんでいた。けれど――その目の奥には、何か別のものが揺れていた。
「大丈夫だよ。ちょっと、見たいものがあって……」
「見たいもの?」
「……わかんない。でも、なんとなく。呼ばれた気がしたの」
まただ、と思った。
夢と現、過去と現在、その境が少しずつ曖昧になってきている。
記憶の断片が、現実の上にゆらゆらと重なって見えるような錯覚。
それは、あの時と同じだ。
――鏡の中に囚われた、あの子の記憶が滲み出していた時と。
「少しだけ。すぐ戻るから」
リィナはそう言って、川の方へ駆けていった。
私は迷ったが、追わなかった。
不思議と、あの背中が「一人で行くべきだ」と語っているように思えた。
時間にすれば、わずか十五分ほどだった。
けれど、帰ってきたリィナは、別人のように静かだった。
顔色が悪いわけではない。傷があるわけでもない。
ただ、何かを「見た」者の目をしていた。
「リィナ、何があった?」
「……鏡を見たの」
その言葉に、心臓がひとつ跳ねた。
「水の中に、鏡みたいなものが浮かんでて。そこに……知らない景色が映ってた」
「どんな景色だ?」
リィナは黙って、目を伏せた。
言葉を探しているのではない。ただ、言いたくなさそうだった。
「怖かった?」
「ううん、怖くはなかった。でも……泣きそうになった」
私は何も言えなかった。
魂の深層に、呼応する鏡の欠片。
もしかしたら、それは偶然ではない。
彼女の中にある“何か”が、水面にそれを映したのだ。
その夜、火を囲みながら、私はひとつの決断をした。
「……ひとつ、昔話をしようか」
リィナは顔を上げた。目が、真っ直ぐこちらを見ていた。
「昔々、ある場所に、誰の記憶にも残らない花があった。
見る者の心を映す、不思議な花だ。咲くのは一夜限り。その花に名はない。いや――“名前を奪われた”んだ」
「……どうして?」
「その花を見た者が、みんな名を口にしようとして……でも言えなかった。
声に出した瞬間、その名が記憶から消えてしまう。神の呪いだ、と言われていた」
「それって……」
「花の名前を守るために、誰かが記憶を背負った。自分の記憶と引き換えに、花の名を封じたんだ」
リィナは、ゆっくりと手を胸に当てた。
「……わたし、その花……見たことがある気がする」
私は頷いた。
それ以上、言葉を交わすことはなかった。
**
翌朝、リィナはいつものように起き、朝の支度を手伝っていた。
けれど、その手つきは微かに揺れていた。
あの夜の話が、どこかで何かを動かしてしまったのだろう。
私の中にも同じように、何かが揺れていた。
あの花の名。
私が封じた、たったひとつの名前。
彼女がその名に触れてしまう日が来たら――
私は、きっとこの日々を終わらせねばならないだろう。
けれど、いまはまだ。
もう少しだけ、この手を離したくなかった。
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