第2話 邂逅
扉を叩く音がした。
二度、間を置いて、もう一度。
迷いを含んだリズム。常連の年寄りでもなく、旅人のような強い気配でもない。
私は少しだけ息をついて、戸口に向かう。
――扉を開けると、そこには若い村の男が立っていた。
土埃のついた外套に、乱れた息。
普段はあまり見ない顔。たぶん、東側の農村の人間だ。
「……あの、薬師さま。少し……診ていただきたい者がいまして」
「病か怪我か?」
「ええ、というか……その……その、ちょっと変なんです。どこか悪いというわけでもないけど、普通じゃない。村の外れで……その……子どもを拾いまして」
私はわずかに目を細める。
「子ども……というと?」
男は背負い袋の布をほどき、中のものをゆっくりと見せた。
その中にいたのは、小さな少女だった。
長い髪が顔にかかり、呼吸はかすか。
体は軽く痙攣しており、肌は微かに青ざめている。
ただ、それだけではなかった。
この子の“存在そのもの”に、妙な揺らぎがあった。
空気の層が、わずかに重なるように震えている。
――普通の子どもでは、ない。
「名前は?」
「……それが、訊いても答えなくて。いや……正確には、喋らないんです。怯えてるわけでもない。でも、まるで言葉を知らないみたいで……」
「記憶喪失、か……」
私は小さく呟いた。
この大陸では珍しいことではない。
戦、魔災、神の呪、何が原因であれ、“記憶を失って落ちてくる者”は存在する。
けれど、この子は……それ以上の“なにか”を纏っていた。
「とにかく、ここに寝かせて」
私は小さな寝台を指差し、男に指示する。
彼は慎重に少女を横たえ、その場に立ち尽くした。
私は薬包と小瓶を取り出し、少女の呼吸と体温を測る。
目は閉じたまま、だが微かに夢を見ているような動き。
まぶたの下で、瞳が細かく揺れている。
――そして、私の手が彼女の額に触れたとき。
音がした。
「……鏡の……音?」
それは、私にしか聞こえない音だった。
ずっと沈黙していた“内なる鏡”が、わずかに震えた。
鋭く、割れかけたガラスのように、軋んだ。
彼女は、偶然ではここに来ていない。
「……この子の名前、まだないんだよね?」
「え? あ、はい。本人も何も言わないですし、勝手に呼ぶのも悪いかと……」
「じゃあ――私が名をつけよう」
私は彼女の頬に手を添え、静かに言葉を紡いだ。
「“リィナ”――そう呼ぶことにする。
眠りの底にいても届くように。
まだ何者でもないこの子が、“この世界に名を持つ”という最初のしるしとして」
男は目を見開いていたが、何も言わなかった。
彼には、何が起きているのか理解できていない。
それでいい。
これはただの診察じゃない。
これは、“契約”だ。
名前とは、呪であり、祝福であり――世界への“鍵”だ。
リィナ。
その名が、彼女の未来に何を呼ぶのか。
私には、まだわからない。
けれど。
どんな運命であれ、この子は今、私の手の中にある。
それだけで、もう十分だった。
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