第13話 形のない影
医者のパソコン画面には、切り取られた肺の落とし物なのか、自分の脳に張り付いた白いものが写っていた。
「たしか、肺癌だったよね。」
それだけの会話で、自分に残された時間は、そう長くはない事を悟った。
「他に転移はないか、全身を検査しようか。」
皮肉にも、怪我がきっかけで入院した事により、切り取られたはずのがん細胞が、俺の身体の中で活動していた事が判明した。念の為だといって撮影した自分の脳は、この小さな白く見えるものが、あと少ししたら俺の全てのコントロールする。
自分は、この世の終わりどころか、人の平均寿命の半分さえも生きられないのか。
これでいいんだ。
笑う事も、腹を立てる事も、もう何もしなくていい。
持ち合わせた感情の全てを使い果たしたら、俺がこの世に生まれてきた事の罪は、キレイに清算されるだろう。
全身の検査が終わり、積極的な治療をしないと医者に告げた俺は、慰め程度の薬をもらうために、病院のロビーで会計を待っていた。
偶然、そこを通った凪を見つけると、人でごった返す中、思わずその名前を口に出した。
同時に誰かの名前を呼ぶアナウンスがかかり、自分の発した声がかき消される。
凪は少し振り返って俺を探していたが、そのまま玄関を出ていった。
追いかけて、その肩を掴むことだってできたはずなのに、伝えようとした俺の言葉は、足元に落ちて溶けてなくなった。
凪。
幸せなんかいらないと、そんな事を軽く口にするな。
凪がどんな罪を背負っていると言うんだ。
俺と出会った事が、これから先も凪を苦しめ続けるというのなら、俺は取り返しのない過ちを、最後の最後に、犯してしまったのか。
ほんの少しだけ、凪に触れてみたかったんだ。
ほら、よく言うだろう。
男は死に際に自分の子孫を残したい衝動にかられるもんだってさ。それが動物の性だとしたら、俺にもそんな野生の名残りが残っていたのかもしれないな。
身体はとっくに自分の終末を知っていて、最後に自分を抱きしめてくれると信じたたった一人の相手を、俺はやっと探しあてたんだ。
姉から、凪が病院を辞めて実家へ帰った話しを聞いた。
もう二度と会えないとわかったら、不思議だな、俺は少し安堵した。確かに、寂しさは毎晩の様に襲ってくる。だけど、凪の事を思い出す度に、少しだけこっちを見て笑っている顔が、浮かんでくるんだ。
医者からあと半年と言った命は、そう長くは持たないだろう。
なぜだか、こみ上げてくる涙が、俺の目の前をぼやけさせるたびに、百合が笑って手招きをするようになった。
「百合、いつからそんな笑顔を作れるようになったんだよ。」
「さあね。」
「俺はもうすぐそっちへ行くのか?」
「来たかったら来たらいいじゃない。こっちではね、親達が犯した罪は、私達には関係ないんだって。だから、地獄に落ちる事なんてないのよ。」
「なぁ、神様ってどんなやつだよ。」
「普通の人よ。特別な力なんて持ってない。」
「そんなわけないだろう。神様はやっぱり神様なんだから。」
「そっちの世界が作り上げてるものは、みんな虚像だらけなの。みんなそれに気がついていない。それなのに、必死で形のないものを掴もうとしてるなんて、なんかとても滑稽ね。」
「百合、神様に会えたら、話したい事があるんだよ。」
「神様は気まぐれだからね。いつ会えるかなんてわからないよ。どうしても伝えたい事があるなら、手紙に書いて、それを誰かに渡してよ。気が向いたら、神様がそれをのぞき込んでくれるかもしれないから。」
雷が家の近くに落ちた夏の終わり。
明け方まで飛行機乗りの映画を見ていた俺は、凪への想いを手紙に綴ろうとしていた。
最後の言葉をしたためる兵士達は、逃げ出したい現実を歯を食いしばって向き合いながら、叶えられなかった想いを真っ白な便箋に乗せる。
風に舞いが上がり、永遠に届くことのない言葉。
表情を持たない文字で、自分の想いを表すなんて難しいな。
何時間も真っ白な便箋を前に、俺は言葉を探していた。
おせっかいな姉は、凪を俺の前に連れてきた。
痛みを隠すために使われているモルヒネのせいで、眠れない時間を、それでも眠る事しかできない辛さが返って俺を苦しめている。
ぼんやりとした意識の中では、もう凪の顔を見ることもできない。頭の中で思い出す凪の顔と、ここにいる凪の顔は、本当に同じなのだろうか。
ふと、俺の背中を支えたその腕が、あの日の記憶を蘇らせる。
「幸せになれよ。」
最後に伝えたかった言葉を、凪が持ってきた空気はかき消した。
こんなに近くにいるのに、もう君に触れる力は残っていない。
痛みのなくなった俺の背中が、布団の綿の中にスッと沈み込むと、凪が落とした唇の感触が、俺の身体全体を優しく包んだ。
何やってんだよ、早く遠くへ行ってくれよ。
動物の本能は、最後の自分の姿を見られないように、孤独に死に場所へと向かう。
今、俺もそこへ向かっているんだ。
凪、幸せになれよ。
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