短編集〜月〜

晴 風月

夜と三日月


ああ、今夜も三日月が綺麗だな。


まるで薄く切った金の紙を、夜空にそっと貼りつけたみたい。満月のような圧倒的な存在感はないけど、どこか儚げで、静かに胸に沁みる。そういうのが、俺は好きだ。


……三日月を見ると、思い出す夜がある。


あれは、ちょうどこんな晩だった。空気が冷たく澄んでて、吐いた息が白く浮かんで。俺は仕事帰りの足で、ふらふらと公園に立ち寄った。理由なんてなかった。ただ、帰りたくなかっただけ。


誰もいないベンチに腰を下ろして、空を見上げた。三日月が、ぽつんとひとつ、浮かんでた。


そのときだった。背中越しに、ふっと風が吹いて……誰かの気配がした。


「あなたも、逃げてきたの?」


女の声だった。やわらかくて、でもどこか透き通った感じのする、不思議な声。


振り返ると、ひとりの女性が立ってた。白いワンピースに、くすんだ青のカーディガン。暗がりの中でも、彼女の瞳だけが月の光を宿してるみたいに、きらきらしてた。


「逃げた、ってわけじゃないけど……まあ、似たようなもんかな」


俺はそう答えて、隣を指さした。彼女は少し笑って、静かに腰を下ろした。


会話は、他愛もないことばかりだった。仕事がきついとか、人付き合いが面倒だとか、誰かに聞かせるような話じゃない。けど、不思議と彼女には話せた。


「夜って、ぜんぶ隠してくれるから好き」


ふいに彼女がそう言った。


「自分がどんな顔してても、見えないし。悲しくても、悔しくても、黙ってるだけでいい。朝になれば、知らないふりしてまた歩ける」


俺は黙って聞いてた。彼女の言葉が、自分の中の何かをそっと撫でていく感じがしたから。


「でもね、三日月は、ちょっとだけ違うの」


「違う?」


「全部は見せないけど、ぜんぶ隠しきれない。その不器用さが、好き」


俺はそのとき、三日月を見上げて、初めて“心に似てる”って思った。


気づけば、もう随分と時間が経ってて。気温もぐっと下がってきたから、俺は立ち上がって言った。


「また、会えるかな」


彼女は笑って、こんなことを言ったんだ。


「夜に迷ったときは、またここに来て。私、三日月が好きだから」


それから何度か、同じ場所に通った。でも、彼女に会えたのは、あの夜だけだった。


まるで夢みたいな時間だった。けど、あれは確かに現実だった。俺の中に、ちゃんと残ってる。


それから俺は、夜が少しだけ好きになった。三日月を見るたびに、自分の気持ちをひとつ、そっと見つめ直せるようになったから。


あの人が、今どこにいるのかはわからない。でも、きっとどこかで、今日の月を見てる。


……そう思える夜は、ちょっとだけ、優しい。

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