第13話 “内側”への扉


 第六階層は、それまでのどの階層とも違っていた。


 扉をくぐった瞬間、世界の色彩がごっそりと失われたような錯覚に陥る。


 視界は灰色の霧に覆われ、遠くも近くも、すべてが曖昧に溶けていた。


 構成文は表示されない。

 音も、匂いも、空気の流れすら感じない。


「……クラリス?」


 呼びかけるが、声が霧の中で吸い込まれていく。


 返事はない。


 ユウトは孤独だった。


 これまで、どんな階層にも“共にいる存在”があった。

 しかし、今だけは本当に“自分しかいない”。


 ──と、思った。


「……よぉ、目が覚めたか」


 低い声。


 振り返ると、そこには“もう一人の自分”が立っていた。


 服装も、髪型も、剣の持ち方も同じ。

 違うのは、目の奥に潜む“冷たい光”だけだった。


「誰だ?」


「お前だよ。“選ばなかった方”のな」


 そう名乗った存在は、構成視界にも映らない。


「ここはお前の内側だ、ユウト。外じゃない。

 この階層だけは、“構成”も“調律”も働かない。

 あるのは、お前の“可能性”だけだ」


 内側──インナーゾーン。

 世界の構造すら届かない、自我の奥底。


「……で、何を試すって?」


 影のユウトは肩をすくめた。


「別に。俺はただ、“お前がどっちに進むか”を見に来ただけだ」


「進むって……」


「“誰かの正しさ”に従うのか、“自分の理想”を信じるのか」


 ユウトは言葉を詰まらせた。


 これまで彼は、常に“選ばされてきた”。

 けれど、今問われているのは“自分で選ぶ意味”そのもの。


 霧がゆっくりと晴れ、いくつもの“扉”が現れる。


 ひとつは、誰かのために剣を取る未来。

 ひとつは、自分だけのために歩む未来。

 ひとつは、すべてを拒絶し閉ざす未来。


 どれが正しいとも、どれが偽りとも言えない。


「……クラリスの未来を見たい」


 それは、意識の底から湧いた願いだった。


 影のユウトは少し目を細めて、笑った。


「なら、そっちを選べ。……だが忘れるな。

 その“願い”が、お前の首を絞めることもある」


 霧がすべて晴れた瞬間、扉が開かれた。


 ユウトの“内側”に起こったことを、誰も知らない。


 だがその目には、何かが刻まれていた。



 ユウトが進んだ扉の先は、かつての風景だった。


 村の外れにある丘、澄んだ風の流れる草原。

 そこに座っていたのは、十歳ほどの頃の自分だった。


「……懐かしいな」


 幼いユウトは、空を見上げて呟いた。


「どうして、あの時……声をかけてくれなかったんだ?」


 その言葉に、現在のユウトは返す言葉を失った。

 あの頃──彼は家族から、周囲から、ただ距離を置かれていた。


 理解されなかった“気配の読めなさ”。

 過剰に発達した“分析癖”。


 ただ一人、クラリスだけが気にしてくれた。


「俺は……弱かったんだ」


 幼いユウトはふっと笑った。


「それを乗り越えたのに、まだ迷ってるんだね」


 霧が再び立ち込め、今度は両親の姿が現れる。


 ぼやけた顔。曖昧な輪郭。

 それは、記憶の中の“理解されなかった存在”だった。


「誰かに否定されるのが、怖いんだろ?」


「……ああ」


「だから“自分の正しさ”を、自分ですら信じきれない」


 その通りだった。


 だが、それでもユウトは歩く。

 震えながらでも、信じたい未来に手を伸ばす。


「俺は、もう誰にも強制されない。

 “俺の選択”で、この世界を歩くんだ」


 その瞬間、霧が砕け、空が現れた。


 構成視界が再起動する。


【内面層突破確認/構成回復率:92%】


 ユウトはゆっくりと目を開けた。


 目の前にはクラリスがいた。


「……おかえり」


「ただいま」


 そのやり取りは、ただの会話に見えて。

 でも二人にとっては、確かな“再出発”の印だった。

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