都心のタワマンから、いきなり異世界スローライフ!? ~仕事人間だった私(42)、反抗期の娘(13)との関係修復します~

風葉

第1話 すれ違う日々

降りしきる雨が、高層ビルの窓を叩いていた。時刻は午後10時をとうに回っている。オフィスフロアには、明かりがついている島がまだいくつか残っていたが、その中でもひときわ書類の山が高いデスクで、橘 明日香たちばな あすかはキーボードを叩いていた。42歳、大手広告代理店の最年少女性部長。世間では「バリキャリ」ともてはやされる存在だが、その称号は、娘との時間を犠牲にして積み上げてきたものだった。


(…ひかり、もう寝てるかな)


ふと、スマートフォンの待ち受け画面に映る娘の顔に目をやる。中学1年生になったばかりの橘 たちばな ひかり。最後にゆっくり話したのはいつだっただろうか。思春期特有のぶっきらぼうな態度と、明日香への反発。その奥にある寂しさに気づかないふりをしながら、仕事に没頭する日々。シングルマザーとして、娘に不自由な思いはさせたくない。その一心で働いてきたが、気づけば一番大切なものを見失っている気がした。


「部長、まだ残ってたんですか?お疲れ様です」


「あら、田中君。お疲れ様。もう上がり?」


「はい。部長もあまり無理なさらないでくださいね」


部下の気遣いに曖昧に笑みを返し、明日香は再びモニターに向き直る。あと少し、この案件に目処をつけたら帰ろう。そう自分に言い聞かせ、さらに集中力を高めた。



結局、明日香がタクシーで自宅マンションの前に着いたのは、午前1時を過ぎてからだった。雨は小降りになっている。エントランスのオートロックを解除し、エレベーターで自宅のある15階へ。静まり返った廊下を進み、玄関のドアを開けた。


リビングの明かりが点いていた。ソファには、制服のまま眠ってしまっている光の姿があった。テーブルの上には、ラップのかかった一人分の食事が置かれている。おそらく、明日香の帰りを待っていたのだろう。その健気さが、胸を締め付ける。


「ひかり、こんなところで寝てると風邪ひくわよ。ベッドに行きなさい」


声をかけると、光はゆっくりと身を起こした。寝ぼけたような目で明日香を見つめる。


「…おかえり」


「ただいま。ご飯、作ってくれたの?ありがとう。でも、もう遅いから明日にするわ」


「…別に、ママのためじゃないし。自分が食べたかっただけ」


そっぽを向いて呟く光の言葉には、棘がある。いつからだろう、こんな風にしか会話ができなくなったのは。


「そう…。とにかく、早く部屋に戻って寝なさい。明日も学校でしょ」


「…わかってる」


光は立ち上がり、ふらつく足取りで自分の部屋へと向かう。その後ろ姿に、明日香は何も言えなかった。テーブルの上に残された冷めた食事と、娘の閉じられた部屋のドア。その間に、見えないけれど分厚い壁が存在しているように感じた。


(どうして、こうなっちゃったんだろう…)


シャワーを浴び、簡単に部屋着に着替えてリビングに戻る。光が作ってくれたであろう食事を冷蔵庫に入れながら、深い溜息をついた。もっと、光と向き合わなければ。そう思うのに、明日香にはその方法がわからなかった。仕事のように、明確な目標設定や達成プロセスがあるわけではない。子育てという未知のプロジェクトに、明日香はずっと戸惑い続けていた。


ソファに深く腰掛け、目を閉じる。疲労と罪悪感がどっと押し寄せてくる。このままではいけない。何かを変えなければ。そう強く思った瞬間だった。


―――ゴゴゴゴゴ……ッ!

突然、激しい揺れがマンション全体を襲った。地震?いや、違う。もっと、空間そのものが歪むような、奇妙な感覚。立っていられず、床に手をつく。リビングの照明が激しく点滅し、バチン、と音を立てて消えた。


「きゃあっ!」


「ひかり!」


光の部屋から悲鳴が聞こえ、明日香は咄嗟に立ち上がろうとする。しかし、足元がおぼつかない。それどころか、体がふわりと浮き上がるような感覚に襲われる。窓の外が、ありえないほどの白い光で満たされていく。


「ママ!」


光が部屋から飛び出してきた。その顔は恐怖に歪んでいる。明日香は必死に手を伸ばす。


「ひかり、こっちへ!」


光も明日香に向かって手を伸ばす。指先が触れ合おうとした、その瞬間。


世界が、真っ白な光に飲み込まれた。意識が急速に遠のいていく中で、明日香はただ、娘の名前を呼び続けていた。


(ひかり…! ひかり…!)


これが、仕事一筋だったシングルマザー橘明日香と、反抗期の娘・光の、予期せぬ異世界での新たな生活の始まりだった。二人の間に横たわる溝は、見知らぬ世界で埋まっていくのだろうか。今はまだ、誰にもわからない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る