第2話 灰の中の光

執行の朝は、決まって曇っている気がする。

 陽の光は射さず、空は鈍色の灰を塗り重ねたように重たい。


 私はまた、ひとりの命を送るために、この扉の前に立っていた。


 中にいたのは、佐々木翔という名の男だった。

 強盗致死の罪で死刑判決を受けている。ある夜、金に困って一人暮らしの老人の家に押し入り、暴行の末に命を奪った。現金三万円あまりを盗んだという。


 淡々とした罪状の背後に、何があるのか。

 私はそれを、また“見なければならない”のだ。


 「……佐々木翔。話をする時間が、あります」


 彼は、椅子に座ったまま、私を見た。

 鋭い目をしていた。けれどその瞳には、敵意も、恐怖も、怒りもなかった。ただ、空洞のように深く、どこまでも冷めていた。


 「……そうだな。話ぐらいは、してやってもいい」


 目が合った瞬間、また“それ”が来た。

 視界が揺れ、足元が崩れる感覚。息を呑む間もなく、記憶の奔流が私の中に流れ込んでくる。


 ──幼い佐々木は、火の粉の中にいた。

 木造アパートの一室。荒れた部屋。ガスコンロが倒れ、カーテンが燃えていた。母親は酔って眠っていた。男はもういなかった。名前すら知らない。母はいつも違う男を連れ込み、そのたびに彼の存在は家具よりも下のものとして扱われていた。


 「ママ、起きて……火事だよ……!」


 泣きながら揺さぶる少年。けれど、母は起きなかった。

 近所の人が通報してくれたことで、佐々木はなんとか助かった。母は、焼死した。


 ──その後、施設を転々とした。

 「引き取り手がない子」と呼ばれ、冷たい目で見られ、誰も本気で愛してはくれなかった。問題児とレッテルを貼られ、何をしても叱られ、何をしてもしかられなかった。


 ──初めて人を殴ったのは、中学一年の時。

 教師に「母親のことを考えたら、もっと真面目に生きるべきだろう」と言われた。頭に血が上って、気がつけば拳を振るっていた。


 そのとき、彼は初めて「強さ」という言葉の意味を知った。

 殴られた教師は、自分のことを恐れた。その顔を見た時、初めて世界が自分を見た気がした。


 ──以来、喧嘩、盗み、暴力。

 彼は自分の手で居場所を作ろうとした。でも、どこにも本当の居場所はなかった。少年院、刑務所、路上。社会は彼に「もう戻ってくるな」と言わんばかりの目を向けた。


 ──事件の夜、寒さで凍える手でコンビニに入った。だが、金がなかった。腹が減っても、誰も助けてくれなかった。


 偶然見かけた一軒家。灯りが漏れていた。

 彼はただ、少しだけ金が欲しかった。数日しのげるだけでよかった。


 ──けれど、老人は叫んだ。

 驚いた彼は、押さえつけようとした。必死だった。もみ合いの中で、老人の頭がテーブルにぶつかった。血が流れた。息が止まった。


 「……俺は、やってしまった。わかってる。でもな……」

 現実に戻った私は、佐々木の低い声に耳を傾けた。


 「俺は、生まれてから一度も、『生きてていい』って言われたことがねぇんだよ」


 それは、呪いのような言葉だった。


 「母親は死んだ。父親の顔は知らねぇ。施設でも、ただの迷惑者扱いだ。学校の教師は俺を怪物みたいに見て、社会は俺に居場所をくれなかった。……そうして育った人間が、何を信じて生きればいい?」


 「……あなたは、それでも、生きようとした」


 私はそう返した。

 「あなたは自分の力で、生きようとした。間違った手段だったかもしれない。だけど、それを選ぶしかなかった。その苦しさは、私にも、少しはわかる」


 佐々木は目を細めた。


 「……あんた、死刑執行人なんだろ。なんでそんなこと言える?」


 「私もかつて、誰かを見捨てたことがある。苦しむ人間の声を、聞かずに通り過ぎた。……それをずっと後悔してる」

 「だから私は、あなたの声を、聞きたいんだ」


 数秒の沈黙。


 「……こんなとこで、初めて人間らしいこと言われるとはな」


 その言葉の中に、わずかに震えるものがあった。

 感情のかけらのような、忘れられた人間性の残骸のような、微かな温度。


 「……もし、人生をやり直せるなら、何をしたい?」


 私の問いに、佐々木は黙っていた。

 だが、やがて小さく、答えた。


 「……焚き火をしたい」


 「焚き火?」


 「ああ。子どもの頃、施設の遠足で一度だけやったんだ。枯れ枝を拾って、火を囲んで……その時だけは、なんか温かかった。誰かと笑って、ただ火を見てるだけで……それだけで、幸せだった」


 「……あなたの中には、ちゃんと光があったんですね」


 彼はうつむいて、ぽつりと呟いた。


 「……もう、灰になっちまったけどな」


 時間が来た。


 佐々木は、ゆっくり立ち上がった。

 誰の手も借りずに。まるで、自分の足で人生を締めくくることに、意味があるかのように。


 「……あんた、執行人って顔してねぇよ」


 「それでも、私はやらなきゃいけない」


 「わかってる。あんたが最後に聞いてくれて、よかったよ」


 彼は、静かに笑った。その笑顔は、私がこの仕事を始めて以来、初めて見る「人間らしい」ものだった。


 その夜、私は焚き火の夢を見た。

 佐々木と、数人の子どもたちが火を囲み、笑っていた。何の罪も、何の苦しみもない、ただの「夜の火」。


 火は、ただ温かく、誰も傷つけなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る