第11話 記録の欠片


月曜日の夜、グレンミスト村は霧に包まれた墓場のように静まり返っていた。


トーマス・フィンチの葬儀が終わってから24時間が経過していた。村人たちは自宅に鍵をかけ、カーテンを引いて身を潜めていた。三人目の犠牲者の知らせは、村全体を恐怖に陥れていた。


鷺沼鏡二は書斎で紅茶を飲みながら、机の上に広げた資料に目を通していた。犠牲者の記録、神父の行動パターン、口笛の楽譜。しかし、全ての謎を繋ぐ鍵はまだ見つかっていなかった。


夜九時、玄関をノックする音が響いた。シエラ・スレイドだった。彼女は黒いフードつきコートを着ており、緊張した表情だった。


「私、考えたんです」彼女は小声で言った。「答えは過去にある。教会には古い記録がある。時々、神父がそこで何かを確認しているのを見かけたことがあります」


鏡二は帽子を手に取った。「行きましょう」


二人は月のない夜の闇を進んだ。教会までの道のりは僅か十分だったが、霧のせいで三十分かかった。教会の塔は闇の中でかすかな影として浮かび上がっていた。


裏口の扉は、予想通り古い鍵で守られていた。しかし、鏡二は以前医療現場で緊急時に使用していた経験を生かし、簡単な道具で解錠した。


中は月明かりさえ届かない真っ暗だった。二人は懐中電灯を使い、慎重に進んだ。


「記録保管庫は祭壇の裏です」シエラは囁いた。「前に神父についていったことがあります」


祭壇の後ろには、重厚な木製の扉があった。鏡二が触れると、意外にもそれは簡単に開いた。


「まるで我々を待っていたように」彼は不吉な予感を感じながら言った。


階段は狭く、石造りだった。地下へと降りていくごとに、空気はより湿って重くなった。底につくと、小さな部屋があった。壁には天井まで本棚が並び、アーチ型の天井からは埃が降り積もっていた。


中央には古い木製のテーブルと椅子があった。埃の厚い積もり具合から、最近ここで作業をした人物がいたことがわかった。


「ここから始めましょう」鏡二は本棚を指差した。「年代順に並んでいるはずです」


二人は懐中電灯で本棚を照らしながら、戦時中の記録を探し始めた。1940年、1941年。本は全て革装丁で、表紙には年代と「グレンミスト村記録」と書かれていた。


1942年に到達した時、シエラが声を上げそうになった。


「先生、見てください」


本棚には空白があった。1942年、1943年、1944年、1945年の四冊分の空間。全て抜き取られていた。


「意図的です」鏡二は呟いた。「誰かが戦時中の記録を隠したかった」


「でも、どこに?」


「この保管庫のどこかにあるはずです」


二人は部屋の隅々まで調査した。本棚の裏、床の下、天井。何も見つからなかった。


諦めかけた時、シエラが床の石の一枚を指差した。


「この石、他と違う」


確かに、一枚だけ色が微かに異なっていた。鏡二がナイフの刃先で隙間に差し込むと、石は簡単に動いた。


下には小さな空間があり、そこに古びた木箱が隠されていた。


「これだ」鏡二は注意深く箱を取り出した。


箱の中には、失われた四年分の記録と、複数の写真、そして一冊の小さな名簿が入っていた。


最初の写真を見て、二人は息を呑んだ。


それは大きな部屋で撮影された集合写真だった。20人ほどの村人たちが椅子に座り、中央には一人の男性が立っていた。説明には「聖歌特別練習会 1944年7月」とあった。


男性は鋭い眼光を持ち、厳格な表情をしていた。その隣には、若かりし日のマーガレット・ウィロビー、エドワード・クラーク、そしてトーマス・フィンチが見えた。


シエラは名簿を開いた。そこには参加者の名前が列挙されていた。最後のページに、重要な記述があった。


「指導者:アーサー・グッドマン」


もう一つの文書には、「聖歌特別練習会」の目的や活動内容が記されていた。それは表向きは戦時下での士気向上のための音楽活動だったが、鏡二の専門家としての目には、明らかに心理学的な実験の記録に見えた。


「音響による記憶操作の実験」


「特定周波数による暗示効果の研究」


「集団催眠の可能性」


鏡二は黒い手袋をした手で、次の書類をめくった。そこには驚くべき発見があった。


「参加者:ゲイブリエル・モリソン、年齢15歳、役職:助手」


シエラが即座に反応した。「モリソン...G・M!」


「ギルバート神父の本名です」鏡二は確認するように言った。「ゲイブリエル・モリソン。絵の署名と一致します」


さらに書類を調べると、この少年が特に優秀で、グッドマンの直弟子として活動していたことがわかった。


「1944年8月15日、特別な実験を実施予定」と最後のページには書かれていた。しかし、その後のページは破り取られていた。


「ここで何かが起きた」鏡二は明確な結論に達していた。「そして、それを隠すために記録が消された」


突然、遠くから足音が聞こえてきた。二人は即座に懐中電灯を消した。足音は階段を降りてくる。


暗闇の中、二人は壁に背を押し付けた。足音は保管庫に入ってきた。


「誰かいるのかい?」老婆の声だった。村の記録保管人、マデリン・ブリッジスだった。彼女は懐中電灯で室内を照らし回した。


シエラは素早く考えた。彼女は鏡二に小声で囁き、部屋の反対側の本棚に石を投げた。


老婆はその音に反応し、そちらへ向かった。その隙に、二人は別の方向へ静かに移動した。


「ネズミか?」老婆は呟いた。彼女は石の音がした場所を調べ、何も見つからないと、ため息をついた。「歳のせいで幻聴かね」


彼女は保管庫を出て行った。二人は息を殺して待った。足音が遠ざかったのを確認すると、ようやく安堵した。


「素晴らしい機転でした」鏡二は感心して言った。


シエラは誇らしげに微笑んだ。しかし、すぐに表情を引き締めた。「写真と書類を持って行きましょう」


しかし、鏡二は首を振った。「いいえ。証拠として必要ですが、今は現物を持ち出すべきではありません。記憶に刻み込み、後日適切な方法で確保します」


二人は写真と書類の内容を慎重に記憶し、全てを元に戻した。部屋を出る前に、鏡二は最後にもう一度周囲を確認した。


「先生、これで神父が犯人だってわかりましたね」シエラは外に出ながら言った。


「まだです」鏡二は慎重に答えた。「彼は15歳の少年でした。主導者はアーサー・グッドマンでした。そして、1944年の8月15日に何が起きたのか、私たちにはまだわかっていません」


村の夜道を歩きながら、二人は得られた情報を整理した。


「あなたは本当に観察眼があります」鏡二は不意に言った。「先ほどの機転もそうですが、私が気づかなかった細部まで見抜いている」


「ありがとうございます」シエラは照れくさそうに答えた。「でも、まだまだ先生にはかないません」


「能力は比較するものではありません」鏡二は静かに言った。「重要なのは、それをいかに使うかです。あなたは既に、多くの命を救う可能性を持っています」


シエラは彼の言葉に励まされた。しかし、彼女の心には不安も残っていた。


「先生、神父は次の日曜日、また誰かを...」


「そうさせません」鏡二は断言した。「私たちは今、核心に近づいています。アーサー・グッドマンという人物、聖歌特別練習会、そして1944年の秘密。これらの点が繋がれば、必ず真実が見えてきます」


霧は相変わらず濃かったが、二人の足取りは確かだった。彼らは情報という武器を手に入れた。今やるべきことは、村の過去に隠された恐ろしい真実を完全に暴くことだった。


教会の鐘が遠くで鳴った。時刻は夜十一時。まだ深夜まで時間がある。鏡二は心に決めていた。今夜中に、アーサー・グッドマンについてあらゆる記録を調べ尽くす必要があった。


村の秘密は、今夜、ついに明らかになろうとしていた。

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