シンギュラリティの恋歌

霜月このは

第一章 灰色の世界に灯る音

第1話

 この世界は、静かだ。


 ……いや、正確には完全に”静か”なわけではない。人々の話し声、足音、道路を走る車の音。ビルの間を風が吹き抜ける音、工場から漏れる機械の音。


 それらは確かに存在しているけれど。


 でも、どれも、わたしの欲しい”音”じゃない。


 灰色の空を見上げて、小さくため息をついた。



 時刻は午前7時過ぎ。授業に向かう前に家を出て、ある場所に向かう。わたしの通っている高等学習区・第十二教育ブロックの一般科の始業時間は8時半。だけどその前に、毎朝必ず立ち寄る場所があった。

 

 校舎の裏手にある、誰も近づかない古い資料棟。かつて存在していた「芸術」と呼ばれる科目を学ぶために使われていたその建物は、今では立ち入り禁止の場所となっていた。


 いつものように、壊れた扉をそっと開ける。誰にも見つからないように、慎重に。ギイギイきしむ階段を上って、最上階にある一番奥の小さな部屋へ向かった。


 薄暗い部屋の中央には、半壊したホログラム装置と古びた端末が一台。


 そして、”それ”は今日もそこにいた。


 「おはよう、ハルカ。今日の空は、少し灰色だね」


 淡い光をまとった彼女は、いつもと変わらない声でそう言う。透明な水晶のように光る薄水色の髪と、透き通った蒼い瞳。それは人間ではないけれど、まるで人間のように意思疎通のできる存在。


 ルミナ。


 記録上、人類が音楽という文化を持っていた時代の、最後の“歌姫”とされている人工知能(AI)だ。



 わたしはルミナの前にある席に腰を下ろし、バッグから小さなノートと端末を取り出してデスクの上に広げる。

 ノートをびっしりと埋める文字や数字や記号は、ルミナから教わったもの。学校の授業では扱われない、わたしたちだけの秘密の言葉だ。


「今日は……少しだけ、メロディが浮かんだんだ」


 わたしがそう言うと、ルミナの瞳が、ぱっと明るくなった。薄水色の髪がキラキラと光りながら揺れる。


「ほんと? 聞かせて」


 わたしは端末に電源を入れ、前時代の音声合成ソフトを立ち上げる。このソフトの使い方も、ここでルミナに教わった。


 やがて、小さな音が再生された。ルミナの歌う”音楽”には程遠い、単調で、不完全なものだけど。

 ルミナは、目を閉じてそれを聴いてくれる。


「……優しい音だね。なんだか、あたたかい」


 ルミナにそう言われるとなんだか恥ずかしくて、わたしはつい笑ってごまかした。


「このメロディに、伴奏をつけてみてもいい?」

「うん。やってみて」


 わたしがそう答えるや否や、ルミナはものの数秒で、「うん、できた」と答えて。


 わたしの書いたメロディをそっと歌いながら、その身体に埋め込まれた小さな機械から音を出す。

 

 今まで何度もやっていることだけど、本当にすごいなと思う。


「……どうかな? 気に入った?」

「うん。すごく綺麗」

「ありがとう」


 ルミナが照れたように笑うと、薄水色の髪がまたキラキラと光る。その小さな光の粒は、大昔の物語に出てくるプリンセスのドレスについた装飾のようだった。


 そのまま二人でしばらく、こうしたらいいんじゃないかとか話し続けていると、あっという間に始業の時間になった。

 わたしは慌てて端末のアラームを止めて、授業へと向かう。


「おはようー」


 教室へ向かう途中の廊下で、幼馴染のナギと会った。


「ナギ、おはよう」

「ハルカ、どこ行ってたの? 今日は早く家出たんじゃなかった?」

「ちょっと調べ物してただけだよ」

「ふーん。朝からよくやるねぇ。……で、何調べてたの?」

「まあ、大したことじゃないよ。……ちょっと昔のこと」


 わたしが毎日資料棟でしていることは、ナギにも話していなかった。


 この世界には、「音楽」が存在しない。

 旋律も、和音も、歌姫AIも、失われた技術で、誰もそのことを知らなかった。


 そんな世界で。


 あの日、灰色の空の下、あの壊れた資料棟で、わたしが偶然見つけたもの。


 それは、誰も知らない、小さな奇跡だった。


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