第2話 シロップ

 いよいよ、テスト最終日となった。


 鍵谷に勉強を教えることで、自分の復習にもなっていた梔子は、解答用紙が配られたときも、その問題の難易度に微塵も動揺することはなかった。


 それよりも、テストが終わる――つまり、鍵谷に勉強を教える口実が無くなることのほうが、彼女にとっては大問題であった。


 深いため息とともに走るシャープペンシルの先端は、持ち主の憂鬱と反比例するかのように快調に、解答を綴っている。


 幸か不幸か、最期のテストも恙無く終わった。生徒たちは、その絶大な解放感から自然と声を大きくして、その束の間の自由を楽しむべく、午後の予定を立てて回っていた。


 残念なことに、鍵谷もそのうちの一人だった。


 何が残念なのかは、自分でも分からない。


 普段ならば、自分も多少なりともその輪に混じって、学生らしく時間を使うのだが、今日は両肩にのしかかった気怠さのほうが強かった。


 クラスメイトの、あるいは部活動仲間からの、ランチの誘いを断る。


 ランチなんて格好つけても、近所のファミレスで定食でも頼むか、喫茶店でたいして味も分からない珈琲に、舌鼓を打つぐらいのものだ。


 大人の真似がしたかった。


 今の私たちは、そういう時期なのだと知っていた。


 余命わずかのモラトリアム。


 いつか、嫌でも大人にならなければならないのに。


 大人になれば、あの頃は良かった、なんて、つまらない過去を振り返るくせに。


 酷く、アンバランスで…滑稽だった。


 だが、何よりも笑えるのは、たかが放課後の小一時間を奪われただけで、こんなにもセンチメンタルになる自分自身だった。


 さっさと帰る準備を済ませて、靴箱に向かう。みんなには用事があると嘘を吐いたが、そんなものはない。


 このまま真っ直ぐ家に帰って、本を読むか、アニメでも見るか…。


 しかし、梔子が頭に描いていた面白味もない予定は、すぐに白紙に戻ることとなる。


 昇降口に辿り着き、外履きに履き替えていると、背中から誰かに声をかけられた。


 大儀そうに首だけで振り向くと、そこにはバックを片手に走ってきた様子の鍵谷が立っていた。


 思わず目を見開き、硬直した梔子に彼女は言う。


「おつおつ。ね、このまま帰るの?」


「そう、だけど」


「へぇ、何か用事があるとか言ってたっけ」


 もしかして、と反射的に考えて、梔子は慌てて首を横に振った。


「ない、ないよ。予定なんて」


 すると、彼女は訝しがるように首を傾げた。


「あれ、でも確か、いつもの友だちにはそう言ってなかった?」


 ああ、しまった。聞かれていたのか。


 これで迂闊なことは言えなくなった、と梔子が唐突に黙り込んだのを、鍵谷は黙って見つめていた。


 その瞳が思案げに何度か揺れた後、彼女はパーカーのフードを被ってから外履きに履き変え始めた。


 こんな時期に、フードなんて暑くはないのかと不思議に思う。


「自惚れだったらスルーしてほしいんだけど」と前置きをして、鍵谷はくるりとこちらを振り返った。


 一瞬だけ半円状に広がったスカートの裾が、とても涼やかな印象を受ける。


「もしかして、私からのデートのお誘いなら乗ってくれる感じ?」


 照れを精一杯隠した表情に、胸がきゅっと縮こまる。


「そういう、感じ、です」


「何で敬語?」ふふ、と彼女は笑った。「鍵谷さんが、デートなんて言うから…」


 心が、ふわふわする。


 梔子の言葉に、鍵谷は心外そうにおどけてみせると、とりあえず学校から出ようか、と提案した。


 彼女いわく、このままでは逢引しているのが見られてしまうから、ということであったが、その気障な言い回しも、鍵谷にかかれば親しみ深く、気の利いた冗談に思えてくるから不思議だ。


「どこ行くの、鍵谷さん」


「んー、私は今、冷たいもの食べたいんだけど、商店街のかき氷でもどう?」


「それいいね、私も食べたかったんだ」


 そんなもの嘘だ。氷に味が付いたものなんて、正直、どうでもいい。


 鍵谷と一緒なら、別にどこへ行ったって新鮮に違いないという確信があった。


「じゃあ、行こうか」とフードを被り直した彼女は、ちょっと歩いたかと思うと、背を向けたまま言った。


「あのさ、花音で良いよ」ほんの少しだけ、鍵谷が振り返る。「仲良い人は、そっちで呼ぶから」


 その横顔がほんのり赤らんでいることに気付いて、いっそう梔子の心は踊った。予想外で、嬉しい提案だった。


 梔子は、何度か口を開けたり、閉じたりしてから、意を決した様子で、少し大きめの声でその名を呼んだ。


「じゃ、じゃあ…、花音ちゃん」


 かのん、素敵な響きだ。


 花音のいたずらっぽさを隠し、可愛らしさだけ抽出したような名前。


 鍵谷は、目を丸くして梔子を見返すと、困ったような、照れたような仕草で頬をかきながら呟く。


「花音『ちゃん』かぁー…。もぞもぞするなぁ、『ちゃん』、なんて」


「私は、花音ちゃん、良いと思うけど…」


「何じゃ、そりゃ」


 そう言って笑った彼女に、梔子は、先程から言いたかったことを思い切って提案した。


「わ、私も、名前で呼んでほしい、かも」


 尻すぼみになりながらも、言葉を口にした後、しまった、と梔子は思った。


 鍵谷が、自分の下の名前を知っているわけがない。かといって、ここで自分の名前を出すのは、どことなく催促しているようで憚られた。


 しかし、梔子の予想を裏切り、鍵谷はニヒルな笑みを浮かべると、迷いなく、静かに梔子の名を唱えた。


「絢香」


 どきり、と心臓がまた収縮する。


 さっきよりも、強く、自分の体の奥へと逃げ込もうとしているように。


「私は、『ちゃん』、なんて付けないけど、それでいい?絢香」


「も、もちろん構わないよ、花音ちゃん」


 商店街までの道のりはあっという間だった。


 おそらく、聞き慣れない響きで鼓膜を揺さぶる自分の名前や、口にするだけで顔が火照りそうな、顔がにやけてしまうような彼女の名前が、自分と鍵谷の間で飛び交ったことが原因だと思われる。


 裏手の雑木林から遠ざかったとしても、どこまでも蝉の声は二人の後をついてきていた。


 夏という目に見えない何かが、古びた商店街の軒先にぶら下げてある風鈴を鳴らした頃には、『氷』という文字が見えてくる。


 普段は、目を背けたくなるほど陰鬱なシャッター商店街も、今日はどこかレトロな感じがして好感が持てた。妙なこともあるものだと、アーチ状になった天井を見上げる。


 お店に入った二人は、注文をして、お金を払った後、店先の小さなベンチに身を寄せて腰を下ろした。


 二人で座ると、ぎゅうぎゅうになるその狭さが、酷く心地良い。


 剥き出しになった肘から伝わる熱と、いちごとメロンのシロップの香り。


 フードの影から覗く、サラサラの髪。


 丈を短くしたスカートの裾から覗く、白い太腿。


 それらを見ながら、梔子は、今までしていたテストの出題範囲に関する雑談を、唐突に打ち切り、呟いた。


「もうすぐ、夏休みだね」


 元々、長期休暇が手放しで嬉しい年頃ではなかったが、今年はいっそう面白くなかった。


「テストを頑張った、ご褒美だね」


「うん…」


 梔子の沈黙をどう受け取ったのか、鍵谷は心外そうに眉をひそめて言う。


「何?頑張ったんだって、本当。そりゃあ、絢香ほどではないけどさ」


 既に、自然な口調で自分の名前を呼べるようになっている彼女に、梔子は表情には出さないものの感心していた。


 鍵谷は、そんな梔子のセンチメンタルなど、露も知らず、適当な相槌を打ちながらメロンシロップのかかったかき氷を、プラスチックスプーンで忙しなく口元に運んでいた。


 それを見ていると、寂しいのは自分だけだと言われているようで、何だか満たされない気持ちになる。


 梔子の視線に気付いた鍵谷は、恨みがましく見つめられていたことを変に解釈したらしく、スプーンの上に乗った一すくいのかき氷と、相手とを交互に見比べた後、呆れたように肩を竦めて笑った。


「もう、しょうがないなぁ」


 彼女の白い腕、その先に伸びるしなやかで淡雪のような指先、さらにその末端へと、視線が落ちる。


「はい、どうぞ。絢香って、意外に食い意地張ってる?」


「別にそんなつもりじゃ…」


「はいはい」と適当な返事をした彼女は、何も分かってそうにない。


 どうやら、かき氷が食べたいのだと勘違いされたらしい。


 先ほども言ったが、色の付いた氷の粉末に興味などない。


 自分が興味があったのは、かき氷ではなく、平気な顔をしている鍵谷の心の中であって…。


 そこまで考えて、梔子は相手にばれない程度の大きさでため息を吐いた。


 このままでは、彼女の気遣いが、差し出された一すくいのかき氷と一緒に溶けてしまいそうだったので、言われた通りにかき氷を頂くことにした。


「まぁ、ありがとう」


 どういたしまして、の言葉を耳にしながら、梔子は唇をスプーンに寄せたのだが、今さらながらあることに気付いて、ぴたりと動きを止めた。


 ――…これは、間接キスというやつなのでは…。


 品行方正に育ってきた自分には、まるでなかった習慣の前に、梔子は頭が真っ白になっていくのが分かった。


 それを知ってか知らずか、鍵谷はスプーンを梔子の口元に近付け、食べるように催促してくる。


 しばし、逡巡する。


 周りの人たちが、平気で回し飲みや、こういう一口だけ…、ということをやっているのは知っていたし、それに対して、品がない、などと考えることもなかった。


 しかし、実際に自分がその立場になってみると、思ったよりも勇気がいることなのだと知った。


 この気恥ずかしさを乗り越えるために、みんなはどれほどの経験と訓練を積んできたのだろうか…。


 結果として梔子は、気付かなかったフリをして、自分のスプーンを鍵谷のかき氷にダイブさせることを選んだ。当然、この状況で差し出された一口に気付かないなど、不自然であると分かったうえでの行動だ。


 もう半分ほどが、鍵谷のお腹の中か、溶けて、カップの底で液体になってしまった氷山を、ずぼり、とスプーンで削る。


 それを口に運びながら、何食わぬ顔で、「美味しいね」と感想を言ってみせた梔子だったが、鍵谷のほうは出したスプーンを引っ込めないままで、じっと物言いたげな視線を梔子に向けていた。


 ちらりと彼女の顔色を窺った際に、その視線とぶつかり、慌てて目を背ける。


「ふぅん」いよいよ不服そうだ。「え、何」


「別に、何もないけど?」


 明らかに何もないことはなかった。だが、とてもではないが、鍵谷の要望に応えることは出来そうにないというのが本音だ。


 しかし、これでノリが悪い、などと思われて、嫌われたらどうしよう、誘ってもらえなくなったらどうしよう、という不安が自分の頭の中で渦巻いていて、何か言わなくてはと思い至る。


 未だにじっとりとした眼差しを向けて来る鍵谷を、一瞬だけ横目で見てから、小声で呟く。


「ご、ごめん」


「いいよ、気にしないで」


 本人が気にしている様子なのに、それは無理な話だ。


「嫌だった?」と鍵谷が少しだけ寂しそうに尋ねる。


「い、嫌、とかじゃなくて…」


 先程から横目でしか相手を見られていない梔子とは対照的に、鍵谷は眩しいほど真っすぐに相手を見ている。


 何か、言葉を求められているような気分になって、取り繕った口調で声を発する。


「恥ずかしい、から」


 自分の顔が赤くなっていることが、鏡を通さなくても分かる。


 夏の熱気に負けない胸の高鳴りが、顔を俯かせる。


 こっそりと上目遣いで覗いた鍵谷は、思案げに何度か頷くと、「そっか」と明るく答えて、もう一度気にしないでほしい、ということを梔子に伝えた。


 親しみから出ただろう鍵谷の行動に、答えられなかったことで少し気落ちした梔子は、やっぱり、今からでも、と思ったが、既にスプーンは回収されてしまっていた。


 恥ずかしい、なんて言って、鍵谷は不快じゃなかっただろうか。


 そんなことを考えていると、あっけらかんとした口調で鍵谷が言った。


「ねえ、絢香のも頂戴」


「あ、うん」


 良かった、気にしていないみたいだ。


 そう思い、彼女の前にカップを差し出す。


 すると、鍵谷は彼女にしては珍しく、穏やかな顔つきで微笑むと、ゆっくりと首を振った。


 どうしたんだろう、と穏やかな顔つきを崩さない鍵谷を見つめていると、彼女ははっきりとした丁寧な発音で唱えた。


「ねぇ、絢香。『あーん』は?」


「え…」


 思わず絶句するも、鍵谷は表情を変えない。


「いや、その、さっきも言ったと思うけど…」


「なぁに?」


「う…」


 有無を言わさぬ彼女の態度に、反論の言葉は萎びてしまう。


 駄目だ、やっぱり、さっきのを気にしてる。何なら、少し根に持ってる。


 緊張で震えそうになる指先で、いちごシロップのたっぷりかかった部分をすくい上げる。


 きっと、彼女の言うとおりにするまで、いつまでも鍵谷は私を待つつもりなのだろう。ならば、早々に諦めて、羞恥を打ち倒すほうが得策のようだ。


 目を閉じ、口を小さく開けたまま待つ鍵谷に、スプーンを近づけ、くわえさせる。


「んぅ」


 小さく声を漏らした彼女は、味わうように数回咀嚼すると、満面の笑みを浮かべた。


「はい、良く出来ました」


 そう言うと、鍵谷は自然な流れで梔子の頭に手を伸ばし、その黒髪を何度かなぞった。


 髪の間をかき分ける、その指先が耳をこすったり、首筋に触れたりする度、ぞわりとする感覚に短い息が零れそうになった。


「夏休みも、また会おうね。絢香」


 こういうときの、自分を甘やかすような花音ちゃんの声を聞くと、私は胸を締め付けられるような気持ちになった。


 彼女と一緒にはにかんでみたい気持ちや、子どもじゃないんだよと言って、相手になだれかかりたい気持ち。


 家に帰れば、しょうがないなぁ、と呟きながら、私の頭を撫でるその掌の感触と、表情を夢想した。


 ジリジリと照りつける、夏の日差しから逃げ出したくなるような、私の想い。


 今年の夏は、日が沈んだって、胸の中には沈まぬ太陽があった。

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