流星とメテオ
琴鳴
前編
1
ミーティアの朝は早い。というより、朝になるずっと前に起きだすと、牛乳屋の屋根裏部屋から外階段を使って裏庭に出て、勝手口で朝食用の小さなパンを受け取る。それを立ったまま手早く腹におさめると、牛乳屋の店舗にまわり、親方から牛乳瓶の詰まった大きな鞄をふたつ受け取る。右と左、身体の前で鞄のヒモをクロスさせて、何とか支える。両の肩にヒモが食い込み、足元がふらつくが、それはいつものことだ。
灯火もまばらな道に歩き出す。
ミーティアの分担は四〇軒ほどで、これを朝になりきるまでに配り終わらねばならない。
配りはじめのうちはまだ夜だ。空にはコア・シャフトが走り、ゆっくりと回転している。でもじっさいに回転しているのはミーティアの立つ地面の方なのだ。
コア・シャフトの方に向かってトラス構造の柱が伸びていて、それが円筒形の外殻を支えている。その外殻の上に地面があり、場所によっては水で満たされた海となる。ミーティアは見たことがないが……。
ミーティアにとっては、この「町」だけが唯一知る「世界」だった。
コア・シャフトに灯る光が少しずつ光量を増し、朝の時間帯に移行する。
追い立てられるようにミーティアは担当する家を一軒一軒回っていく。
牛乳の詰まった瓶を玄関先に置いて、かわりに空き瓶を回収する。
荷物が軽くなっていくとともに、瓶同士が当たって鳴る音が少しずつ変わっていく。
まるで音楽のように。
その音と、減じていく荷物の重みで、残りの軒数がわかる。
ミーティアは、それでもまだまだ重い鞄をぶら下げて、路地を走る。
たまに犬に吠えられたりするのは怖いけれど、仕方がない。
まだ九歳のミーティアにできる仕事はこれくらいしかないからだ。
牛乳屋のおじさんからは、特別に雇ってもらっている。
なぜミーティアには親がいないのか、ミーティアに説明してくれた大人はいなかった。誰でもみんな家族がいて、家があって、仕事がある。ミーティアのような孤児はこの世界には本当なら、いない、はずなのだ。
物心ついてから、ミーティアが三年間生きてこられたのは、牛乳配達という仕事がえられたからだ。そしてそれは、最低限の力仕事ができたこと、読み書きができ、記憶力もよかったからだ。
それでも、ミーティアは、町を歩くとき、仲睦まじい親子を見かけると胸が痛くなる。
どこの家庭でも子供は大事にされる。そして、大人になれば親の仕事を受け継いでいく。つまり、自分の子供を持てなければ、自分の「役割」を他人の子に奪われるのだ。「役割」を失うということはこの世界では、最初から存在しなかったのと同じことだ。そうならないように、人々は自分の子供を愛する。
親のいないミーティアには、愛してくれる人はいない。ほとんどすべての人間は、自分の子供を持っていれば自分の子供を――子を持っていなければただ自分自身を愛するのだ。
とぼとぼとミーティアは歩いていた。
鞄の中で牛乳瓶がガシャガシャ鳴っていた。
片方の靴がなく、裸足だった。
ズボンの膝が抜けて、膝小僧には血がにじんでいた。
残りあと五軒になって、災難が訪れた。
その地域に住むいじめっ子たちに遭遇した。いつもならそんな早い時間にいるはずがないのだ。待ち伏せでもされない限りは。
くだらない悪口には慣れている。とりあうことはない。だが、まだ牛乳の入った鞄を取り上げられてはたまらない。
決まった時間までに配り終えないと、ミーティアは「役割」を果たせなくなってしまう。
子供たちは鞄を投げあって遊んでいた。ミーティアは必死で追った。転んだ。でも追った。
追いついたとき――鞄は地面に落ちていて、牛乳が流れ出していた。
鞄の中で牛乳瓶が割れていた。ミーティアは叫んだ。
子供たちはそそくさと消えていった。時間帯が変われば、彼らは学校に行かなければならないからだ。それが彼ら、親がいる子供の「役割」なのだ。
ミーティアは悔しくて悔しくて、膝も痛かったが、鞄を抱えて歩き出した。届けられなかった家にあやまりに行かなくては、と思った。きっと弁償しなくちゃいけない。それと、牛乳瓶が割れてしまったこともある。牛乳屋のおじさんにも叱られるだろう。
何よりも役割を果たせなかったことが悔しくて涙がにじんだ。
鼻をすすりながらミーティアは帰路につこうとしたが、道がわからなくなっていた。
このあたり――町のいちばん端のあたり――ここまで来たことは今までなかった。いじめっ子達と追いかけっこをしているうちに、まったく見知らぬ場所まで来ていたのだ。
ミーティアは空を見上げたが、明るくなるとかえってコア・シャフトは見えにくくなる。雲に隠れることもある。方角を確かめることが難しくなるのだ。
ただ、
遠くから見ている分には、それは美しくてたくましく、まるで巨人の腕のようだ。だが、近くで見ると、それは複雑で不気味な構造物であることがわかる。暗闇から生えだした怪物のようにさえ思える。
ミーティアは心細くなり、走り出した。空き瓶ばかりになったふたつの鞄を脇で挟むようにしながら、細い道を引き返そうとして、さらに迷い道に踏み込んでしまう。道が下っていく。足取りはより重くなっていく――周囲が妙に暗く感じらるのは、コア・シャフトの光が当たらない領域に入ってしまったからだろうか。
その時、地面が揺らいだ気がして、ミーティアの身体は斜面に落ちていた。
ガラス瓶が砕ける音を響かせながら、鞄が転がる。それを追うようにミーティアの小さな身体も転がりつづけた。
2
星の世界を飛んでいる。
それは特に爽快でもなければ、愉快でもない。
肌がささくれだつ――それは擬似的な感覚だが――飛び交う電磁波から情報を取り出し続けているためだ。そこに安寧はなく、致命的な危険しか存在しない。
それでもわたしには――わたしたちにとっては、
キリエ級戦術人型ユニット――戦闘のために作られた宇宙戦闘機である自分自身を認識する。
ユニット番号Θ39、識別コードはミク――
わたしは任務から帰還してきたところだった。
おおよそ0・1周期の哨戒任務だった。
眼下には〈オキザリス〉と呼ばれる世代間移民船――方舟が航行している。これがわたしたちの母艦だ。
軸回転する巨大な円筒型の船体で、軸の一方にメイン推進機がとりつけられている。
その円筒の中には、我々を生みだした者たちの子孫――人間が乗っている。
わたしが作られたのはおよそ十周期前だが、それよりも遡ること百周期以上前から、この船は航行を続けている。一周期は船体がおよそ28万回、回転する期間だ。
人間たちが生まれ故郷の惑星を捨て、新天地を求めるに至った経緯について、くだくだしく説明することはすまい。
彼らが目指しているのはLmz36という惑星だ。
彼らの母星に酷似した環境を持ち、彼らの技術で到達できる距離にかろうじて存在していた。だが、それにしても数世代を要する長旅となる。だから人間達はこの方舟を作った。
あの円筒の中に、町や農場や海が擬似的に存在している。だが、実際にそこで行われている行為に生産性はない。食料の生産も環境の維持もすべてAIが制御しており、人間たちが見えないところでバックアップしている。
いわば、人間達は船に積み込まれた貨物なのだ。それ以上の役割はない。だが、新天地に到着した際に、人間たちがそれまで母星で送っていた生活を継続できるように、その文化や習俗を保存しているのだ。
もはや、彼らは「船に乗っている」ことさえ自然なことと考え、その生活がいつまでも続くものと認識しているかもしれない。
でも、わたしたちAIはちがう。
わたしたちは、人間たちによって創られ、己自身をコピーし、世代交代を繰り返しながらも、おのれの使命を忘れることはない。
人間たちをLmz36に送り届ける。それこそがわたしたちの存在理由だ。
方舟のLmz36への旅路は終盤に近づいていた。すでに十数周期前から減速ターンに移っている。
だが、減速に転じてから、しきりと「敵」が現れるようになった。
その正体は不明だが、敵対する意志を持つ飛翔体は〈エネミー〉と名付けられた。〈エネミー〉の形状や性能はさまざまだが、その意図は明確で、方舟の針路の妨害にあった。まるでLmz36に近づけさせまいとしているかのようだった。
われわれキリエ級が本格的に配備されるようになったのはこの攻撃に対処するためだ。
元来は船体の補修・メンテナンス用に開発された人型飛翔体を改造し、兵器システムのコアとして運用するようにしたものが、その始まりだ。
今ではキリエ級戦術人型攻撃機は万の単位を数え、その大半が方舟の針路を守るための任務に就いている。
わたしの姉妹たちもそうだ。わたしが属するロットには三十八人の姉と六十人の妹がいるが、失陥したりオーバーホールを受けているのでなければ、今もどこかの宙域で戦闘しているか、担当領域を哨戒しているはずだ。
わたしたちキリエ級はほぼ人間と同じサイズで、四肢を持っている。これはもともと方舟の外壁を整備するためにデザインされたためだ。人間用のハッチをくぐり抜けられないとそもそも整備をすることができない。四肢があるのもそのためで、各種安全装置の機能確認も、そのおかげでおこなうことができる。非常ハッチの機能テストでは、何体ものキリエ級が宇宙空間にふきとばされることになる。まあ、そうなっても平気なのだが。
今もわたしが帰還しようとしているのはそれら整備ハッチのひとつだった。
それは、人間の故郷である地球という惑星に生息する生物――イワツバメが断崖絶壁に作られた巣に戻るようなものだ。わたしのように哨戒から戻った者、逆にこれから任務に出発する者――多くのキリエ級が方舟の外壁に取り付き、また、飛び立っていく。
わたしは管理AIから指定された整備ハッチに接近する。
外壁側から見る方舟は巨大だ。全長二〇キロ、直径は六・五キロある。人間たちもおよそ三〇万人が暮らしている。そのほか、家畜や魚介類、人間の情操に好影響を与える生き物が載せられている。「害虫」「害獣」でさえ、一定の数、搭載されている。そういう存在も、人間を人間らしく保つために必要なのだ。
この円筒形の方舟には、人間の世界がまるごと入っているのだ。
ハッチを開き、わたしは方舟に帰還する。
方舟の外壁エリアは構造材が剥き出しで、内装は何もない。
キリエ級のような人型ユニットに、くつろげるソファも身体を休めるベッドも必要ない。ひとつのハッチにはだいたい二〇体分のキリエ級のためのハンガーがある。ハンガーとは、機体を固定し、メンテナンスやエネルギー補給を受ける場所だ。索敵データの詳細もここで報告し、次の任務の詳細を受け取るのもここだ。
どうやら、このハッチのキリエ級はみんな出払っているようだった。どのハンガーでも機能に変わりはないが、一番奥の静かな場所を確保するとしようか――
と。
違和感が胸に警鐘を鳴らした。
いつもとなにか違う。
身体にねばつくものを感じた。
わたしは軽く翼を震わせ、上方へ――方舟のより内部へと移動した。
とはいえ、我々キリエ級が活動できるのはあくまでも方舟の外縁部だけだ。
視界が開け、巨大な
上方には、防護シールドがある。さらにその先には与圧された人間の居住エリアがある。四キロ×二キロほどの巨大なプレートに町が築かれ、そういったプレートが軸に沿って並んでいる。
そこでは、人間が生存可能な環境が保たれている。
わたしがあの領域まで行くことはできない。
わたしたちが方舟内で動けるのは、外殻と防御シールドの間の空間だけだ。ここにはさまざまな施設があり、人類の食料も実はそこで量産されている。海水の詰まった巨大な養殖プールや、完全に自動化された農場、遺伝子操作された食肉専用の家畜の生産プラントなどだ。本来、こういった施設の整備のためにキリエ級は作られたのだ。
なぜなら、人間は重要な貨物ではあるが、方舟の運用を任せられるほど賢くはないからだ。
だから、この外縁部に人間がやってくることはない。
だが――いた。
奇妙なことに、小さな有機体が
居住区のあるプレートから落下したのだろうか?
人間は自殺をする唯一の生命体だという。だが、自殺願望のある者でさえ、プレートから飛び降りようとはしないはずだ。人間は、心理的に外縁部には近づかないよう操作されているからだ。
あるとすれば事故だ。なんらかの事情で、心理的なハードルを越えて外縁部に進入してしまった人間が足を滑らせでもしたのか。百周期を超える長い旅の中では、そうして命を落とした者もいないわけではない。だが、レアケースだ。
マニュアルでは、こうした場合、死体を外縁部のプラントに送ることになっている。死者は分解され、有機物のリサイクルシステムに組みこまれる。その有機物は、土壌にまざるか、家畜の餌となって、また人間に摂取されていく。
わたしは
小柄な人間が、
それにしても小さすぎる。生まれてから十周期も経過していないのではないか。
苦しんだ様子がないのは何よりだった。
わたしはマニュアルに従い、死体を
Kyrie eleison (主よ、憐れみたまえ)
Christe eleison (キリストよ、憐れみたまえ)
Kyrie eleison (主よ、憐れみたまえ)
〈神〉という概念は理解しているが、その実在をまったく信じることないわたしの言葉に慰められる霊があるとは思えないが、これも人間への敬意として定められたものなのだ。
と。
人間が動いた。
大きな目が見開かれていた。わたしを凝視している。
「天使さまがいる……じゃあ、あたしは死んだの?」
生きて、しゃべっている。
そして、ひどく当然なことに気づく。
この空間には空気がある。そのせいで、みょうに翼に抵抗があったのだ。
AIにもうっかりはある。優先順位の低い外的事象は思考対象にならない。もともと人命救助はミッションに含まれていないのだ。
その小さな人間は、生きていて、怪我もしていなさそうだった。
プレートから落ちた場合、遠心力で、防御シールドか、さらに外部の施設、最終的には外殻の内側に叩きつけられることになる。ほぼ即死だろう。
この人間の場合、偶然にも
だが、低酸素状態のためか、その人間の意識はかなり朦朧としていた。
わたしを宗教的なシンボルとして捉えているようだった。
「わたしは天使ではありません。あなたは生きています。ここは、あなたの町の領域外です」
事実をわたしは列挙した。居住区の仕組みについて、人間に告げることは禁じられているが、「町の外」という概念はあるので、それを告げるのは問題ない。
「町の外……は地面がないんだね」
小さな人間は言った。さほど怖がってはいない。
「あたしはミーティア。天使みたいなおねえさん、あなたの名前は?」
それどころかこちらの名前を訊いてきた。
驚くべき冷静さと好奇心だ。
それがミーティアとの出逢いだった。
3
なくしたはずの鞄が傍らにあった。あけてみると、硝子瓶は揃っていて、どれも割れてはいなかった。
夢でもみたのだろうかとぼんやりしながら、配達できなかった担当の家に向かった。せめて謝ろうと思ったのだが、どこの家に訊いてもきちんと牛乳は配達されているという。
これはますます夢を見たらしい。だが、なぜあんな
それに――夢のなかで天使に会ったことは覚えている。白い翼を持ったきれいなお姉さん――ミーティアよりも五歳か六歳か――あるいはもっと年上かもしれない――翠の長い髪から常に光の粒を放っていた。
ミーティアは天使に名前を訊いた。たしか、天使は答えてくれたはずだ。
キリエ級――識別番号Θ(シータ)39――ミク――
そうだ、あれは夢じゃない。あの声は忘れない。少し機械的な――それでも心地良い響きを持った声は――
その声が告げたのは、ただ名前だけではなかった。
ランダムな、12桁の数字――それはいったい……
牛乳屋の主人はいつもより遅いミーティアの帰りを訝しみながらも、しくじりはみとめられなかったので、約束通りの給金をくれた。住み込みの分の対価を除いた給金は雀の涙の小銭に過ぎないが、ミーティアが自由に使える唯一のものだ。
ミーティアは、瓶洗い、店の掃除といった仕事を済ませると、町へと出かけていった。頃は夕刻に近い。
中心街には石造りの建物が軒をつらね、ショウウィンドウにはきらびやかなディスプレイがほどこされている。電気で走る無蓋の「馬車」が行き来し、夜になれば、街灯が灯り、周囲はより華やいだ雰囲気になる。
街角に設置された公衆電話はダイアル式で、小銭を入れれば、遠くの人と話ができる仕組みだ。
だが、ミーティアはかけるべき番号を知らなかった。身よりはどこにもない。もしかしたら、どこかにミーティアと血の繫がった優しいお婆さんがいたりはしないか――と想像したこともあったが、想像は現実にはならなかった。だから、ミーティアは電話に触るのも初めてだったのだが――
天使が告げた12桁の数字――それは電話番号ではないのか? そうミーティアは思いついたのだ。
公衆電話の前にはちょっとした列ができていた。
人々は家族や友人――あるいは取引先との会話をせわしなくしていた。
小柄なミーティアを押しのけて、順番抜かしをする背広姿の男の人もいた。その男の人は電話をかけると急に猫なで声になった。娘と会話しているらしい。
「誕生日のプレゼントを買っていってあげるから、いい子で待っているんだよ、メアリ」
ミーティアはじっと待っていた。でも、誰もプレゼントをくれる人はいなかった。今まで、ずっとそうだった。もうあきらめていた。でも――
魔法の呪文のように12桁の数字を反芻した。
ようやくミーティアの前が開け、公衆電話をかける順が回ってきた。後ろには誰も並んでいない。
あたりはもう暗くなりはじめていた。メイン・シャフトも照明が暗くなり、警備灯が星のようにまたたきだす。
ミーティアは公衆電話の受話器を外し、背伸びをすると、もらった給金の小銭を公衆電話に呑み込ませた。
ツーという音が聞こえてくる。
ダイアルをまわす。
ジーという音とともにダイアルがゆっくりと戻っていく。
それを十二回繰り返す。
無音になり、ミーティアはどきどきした。
プツッと小さな音が聞こえ、ふいに――
ミーティアの前に宇宙が広がった。
4
眠り込んでしまったミーティアを
わたしは同乗できないので、ネットワークを通じて、居住区の管理AIに申し送りをする。居住区に住む人間たちは気づいていないが、居住区内にもAIで制御されたドローンや自走機械が配置されている。彼らは目立たぬように居住区内を動き回り、さまざまなトラブルを人間が知らないうちに解決しているのだ。
ただ、彼らは表だっては現れない。もしも人間に、AIによって守られているという事実を知られると、彼らはAIを排除しようとするだろう。自分たちのことは自分でやると言いだすのだ。そして失敗する。そうならないように、AIは人の関知外で活動する。
ミーティアは居住区に戻ってから、少々驚くかもしれない。AIがドローンを使ってミーティアに代わって牛乳を配達したことも、割れた牛乳瓶の代わりを補充して鞄に戻したことも――この世界ではよくあることなのだ。人間はミスをする。人間に町の運営をすべて任していたらあっという間に破綻する。この方舟の運用もそうだ。人間という不確かなデバイスに任せるわけにはいかない。彼らは、運ぶべき貨物なのだから。
だが、ミーティアはそうではないのかもしれない。
彼女はわたしを見てもパニックに陥ることなく、不可知の存在として受け入れた。
方舟の中で起居している人間には珍しい反応だ。
ミーティアという少女に、わたしは興味を引かれていた。
悪戯心というものがわたしたちの意識に存在しうるかどうかはわからないが、好奇心は確かに存在する。理解できないものをNULLとして捨てるのは、わたしたち以前の思考機械のやりかただ。わたしたちは理解できないものを理解したいと思う。だから、わたしはミーティアにアクセスコードを伝えた。
もしもこのアクセスコードを記憶し、その用途を推測し、正答にたどり着けたのなら、わたしはミーティアに「知識」を与えるつもりだった。その価値はあるはずだ。
意識がもうろうとしている時のことだ。わたしと会ったことを記憶に残すことなく、普段の生活に戻ったとしてもかまわない。むしろその方がミーティアにとっては平穏だろう。
12桁のアクセスコードを一瞬で記憶することが、普通の人間にはとっては、決してたやすいことではないことも解っている。だからこそ、試してみた。
反応はほどなくあった。
わたしが教えたアクセスコードが入力されたのだ。
やはり、あの子は賢い。
わたしは自分の視界をミーティアに転送する。
わたしは、いま、宇宙にいる。
このデータはミーティアが手にしている端末まで届くだろう。それがどんなに旧式の機械の外見を模していたとしても、立体映像を展開する機能はついているはずだ。いくら時代の記憶を残すためとはいえ、コアシステムと互換性のないインフラをスタンドアロンで用意するほどの余裕は方舟にもないということだ。
だから、このデータはミーティアに届いている。
かすかに息づかいが聞こえた。ミーティアの呼吸だ。
「すごい……これが天使様の世界……? 天国というところ……なの?」
違う。ここは宇宙で、方舟の外に広がる世界だ。
わたしは哨戒任務中で、方舟よりおよそ一光秒先行している。30万キロメートルほどの距離だが、われわれキリエ級は随時、方舟にあるAI本体とリンクしている。タイムラグは発生するが、わたしは常に方舟とつながっている。だから、ミーティアの姿もモニターできる。
ミーティアは、レトロな受話器を胸元に抱え、目前に展開している映像に見入っている。それはまるで、白昼夢でも見ているかのよう。実際、周囲の人々にはミーティアが電話もせずに呆けているように見えるかもしれない。
だが、今、ミーティアは真実を見ているのだ。
「暗くて、広いね……これが宇宙?」
そうだ。かつて人間は宇宙を大海に例えた。方舟の中にある塩水を満たしたタンクの海ではなく、惑星の上に広がる海だ。人間はかつて、その海を渡って新天地を求め、増えていった。それと同じことを今、方舟はしている。
「新天地……ってなに?」
Lmz36という地球型の惑星だ。そこでなら、人間は方舟を出ても生きていける。
「あの――明るいほうにあるの?」
細い指がホロ映像の一点を指す。
行く手には島宇宙がある。無数の恒星を含む銀河だ。
その一角に、Lmz36はある。
「きれい……やっぱり天国みたい……」
そうだろうか? Lmz36方面からやってくる《エネミー》のことを考えると、ただ「美しい」だけではすまないように感じられる。
だが、そのことはミーティアに知らせるべきことではあるまい。
わたしはしばし、ミーティアと宇宙を飛翔し――幸福だった。
生まれて初めて、そう思った。
つづく
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