第118話 北の尾根の異変、大地に仕掛けられた静かなる罠

​夜明け前の、冷たく澄んだ空気の中。私たちは、村のはずれに、静かに集っていた。私とシロ、剣を携えたレオン、そして、森の全てを知るギンジさん。里守のトルヴィンから報告があった、穢れの新たな兆候。その正体を確かめるための、二度目の遠征が、今、始まろうとしていた。


見送りに来てくれた村長さんは、多くを語らず、ただ、私たちの肩を、力強く叩いてくれた。その無言の激励に、私たちは、深く頷き返す。


​目的地は、村の北側に連なる尾根。秋の澄んだ空気の中、私たちは、ギンジさんの導きで、獣道にもならないような、険しい山道を登っていった。レオンは、常に周囲を警戒し、私は、シロの感覚に、自分の意識を同調させながら、穢れの気配を探る。

​数時間後、私たちは、トルヴィンが報告した、古い岩崩れの跡地へとたどり着いた。


「…ここだ」

ギンジさんが、低い声で言った。


目の前に広がる光景は、一見、どこにでもある、秋の森の風景だった。しかし、注意深く見れば、その異様さは、明らかだった。

周囲の木々は、赤や黄色に美しく色づいているのに、その一角だけが、まるで、時が早く進んだかのように、全ての葉を落とし、寒々しい枝を晒している。地面には、キノコ一つ、虫一匹の姿も見当たらない。そして、何よりも、空気が、重く、淀んでいた。


​「お守りを…」

レオンに促され、私は、懐から、穢れ探知のお守りを取り出した。白い粘土の円盤は、その場所に足を踏み入れると、たちまち、その表面に、淡い灰色の染みを、じわりと広げ始めた。

間違いない。ここは、穢れに汚染されている。


​「だが、おかしい…」

ギンジさんが、地面を注意深く調べながら、首を傾げた。「前回のような、黒き石は見当たらん。川や泉のような、源流もない。一体、どこから、この穢れは、湧いてきているんだ…?」


レオンも、剣を片手に、慎重に周囲を探るが、敵の姿も、罠の痕跡も見つけられないようだった。

​私は、目を閉じ、心を「空」にした。そして、シロの感覚と、自分の感覚を重ね合わせ、この土地の、より深い声に、耳を澄ます。


(…痛い…苦しい…)


聞こえてきたのは、大地そのものの、か細い悲鳴だった。

そして、私は、「視た」。この土地の地下を流れる、大地のエネルギーの川、「龍脈」が、その一点だけ、流れが滞り、まるで、病巣のように、黒く、淀んでしまっているのを。

黒き石を置いて、水を毒すような、直接的な攻撃ではない。もっと、巧妙で、そして、陰湿な、龍脈そのものへの、直接的な攻撃。おそらく、敵は、遠隔から、何らかの呪術を用いて、この土地の気の流れを、内側から、腐らせようとしているのだ。


​「…見つけました。敵は、石ではありません。この土地の、力そのものが、病んでいます」

私のその言葉に、レオンとギンジさんは、息をのんだ。


これでは、取り除くべき「元凶」が存在しない。癒やしは、より困難を極めるだろう。

​私は、懐から、聖なる泉の水を満たした小瓶と、冬の間に砕いた「星屑の土」を、少量、取り出した。銀の雫を使うまでもない。しかし、放置すれば、この病巣は、いずれ、谷全体へと広がっていく。


「…治療を、試みます」

私は、二人に後方で警戒してくれるよう頼むと、穢れの中心点へと、歩み寄った。そして、マーサさんの銀の道具を使い、地面に、古の守り手たちが遺した、あの「螺旋」の印を、丁寧に、そして、深く、刻みつけていく。

そして、その螺旋の中心に、私は、星屑の土を、そっと、撒いた。


「大地の力よ、星々の導きを。古の守り手たちの祈りよ、今一度、この地を、照らしたまえ」

祝詞を唱えながら、その上から、泉の水を、静かに、注ぎかける。

​すると、地面に描かれた螺旋の印が、一瞬だけ、淡い、金色の光を放った。そして、重く淀んでいた周囲の空気が、ふっと、軽くなるのを感じる。

穢れが、完全に消え去ったわけではない。けれど、螺旋の印と、星屑の土が、まるで、フィルターのように、龍脈の淀みを、少しずつ、浄化し始めたのだ。それは、傷口に、薬草の湿布を当てたような、応急処置。だが、これ以上、病巣が広がるのを、食い止めることはできるはずだ。

手の中のお守りの灰色が、僅かに、薄くなっているのが、その証拠だった。


​帰り道、私たちの心は、安堵よりも、むしろ、新たな脅威への、緊張感で満たされていた。

敵は、私たちの想像以上に、狡猾で、そして、強力な術を使う。龍脈に直接干渉できるほどの、知識と力を持っているのだ。

私たちの村の守護の環も、いつ、内側から、こうして、蝕まれるとも限らない。


​家に戻った私は、すぐに、自分の「癒やし手の台帳」に、今日の出来事と、新たな脅威についての考察を、詳しく書き記した。


そして、私は、決意を固めた。

「月の種」を、来たるべき春に、必ず、芽吹かせる。そして、月影草を、この谷に、もっと、もっと、増やすのだ。

穢れの毒が、大地を蝕むというのなら、私は、この谷全体を、清浄な力を持つ、薬草園に変えてみせる。

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