第10話 通い路

“通”という字は、「辶(しんにょう)」と「甬(とおる)」――

それは、歩いて、思いを通わせるということ。


【1】

一瀬 詩織(いちのせ・しおり)は、郵便局の仕分け係として働いている。


単調な日々だった。

機械に通す、確認する、分ける、束ねる。

誰かに宛てられた封筒やはがきに、心を通す余裕はなかった。


ある日、一通の不思議な便りが仕分け台に滑り込んできた。


差出人も宛名も、こう記されていた。


差出人:一瀬 士郎

宛名:しおりちゃん(こころのなか)


それは、五年前に亡くなった父の名前だった。


【2】

半信半疑のまま、封を開けると、中には一枚の紙。


「しおりへ


 通じない言葉ばかり残してごめんな。

 これが“最後の漢字便”になる。


 今のお前に必要な一字を、送ります。


 “通”


 すべてを話せなくてもいい。

 でも、通じる場所はきっとある。


 心と心のあいだに、道はできる。


 元気でな。


――父より」


詩織は、その瞬間、忘れていた記憶が蘇った。


父との間には、「漢字便(かんじびん)」と呼ばれる交換ノートがあった。

日々の気持ちを一文字の漢字で伝え合う――それが、父娘だけの“通信”だった。


【3】

たとえば。


「忙」……仕事で余裕がない日の父


「凪」……穏やかな朝の詩織


「迷」……進路に悩んだ高校時代


会話が苦手だった父は、漢字でなら素直に気持ちを表せた。

詩織もまた、言葉よりも筆を取る方がずっと楽だった。


だが母を失って以降、父は仕事に没頭し、

詩織は心を閉ざした。


やがて交換は途切れ、父は病に倒れ、そのまま逝ってしまった。


“通じなかった”、という悔いだけが残った。


【4】

数日後、詩織は押し入れから古いノートを取り出した。

そこには、最後に交わされた“未返事”のページが残っていた。


彼女が書いたのは「沈」。

あのとき、沈黙するしかなかった自分の気持ち。


父の返事は書かれていない。

空白だった。


だがいま、父の「通」の字が、その空白を埋めるように思えた。


沈黙でも、通じることがある。

空白にも、返事は宿る。


【5】

詩織は仕事帰り、ポストに一通の手紙を投函した。


宛名はなかった。

でも、そこには確かに「想い」があった。


「お父さんへ


 いま、わたしも“通”という字を選びます。

 言えなかった言葉も、伝えられなかった気持ちも、

 時間を越えて、きっとどこかに届くって信じてる。


 だから、もう止まりません。

 これからは、私の“道”を歩きます。」


風が吹いた。

見上げた空に、うっすらと雲の道がのびていた。


それは、父から届いた“通い路”のようだった。


✴️ 登場漢字:通

● 字義:とおる・かよう。道を通す、心が通じる、情報や感情の流通。

● 成り立ち:「辶(しんにょう)」=進む道/「甬(とおる)」=通路・声・響き

● 象徴性:通信、共鳴、未完の交流、道のり/遠く離れてもつながるもの

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