第7話 夢の字引
“夢”という字は、「目」と「覆い」から成る――
まぶたの裏側にひらく世界には、まだ知らない言葉がある。
【1】
その辞書を拾ったのは、夢の中だった。
結月 ひより(ゆづき・ひより)、十三歳。
中学一年生。少し内向的で、本の中にだけ自分の居場所を見つけていた。
ある晩、彼女はふしぎな夢を見た。
図書館に似た場所。だが、本棚は宙に浮き、ページがひとりでにめくれている。
木の床にぽつんと落ちていた一冊の本。
表紙にはこう書かれていた。
『夢内漢字辞典』
開くと、そこには見たことのない漢字ばかりが並んでいた。
「曇(うつろ)」=悲しみが霧になるとき使われる文字
「燈憶(とうおく)」=過去の光景を呼び戻すときの心の状態
「笑礫(しょうれき)」=無理に笑ったときに胸の中に転がる重い石
そのすべてに、意味と、例文と、物語が添えられていた。
【2】
翌朝、目覚めると彼女は妙な感覚を覚えた。
夢の記憶が、鮮明に残っているのだ。
ふと、枕元のメモ帳を見ると、手書きで一語だけ書いてあった。
「曇」――曇ったこころ。泣くかわりに、黙ること。
「……書いた覚えなんて、ないのに」
それ以来、ひよりは毎晩、夢の中で辞書の続きを読んだ。
その辞書には、毎回、新しい“夢の漢字”が追加されていた。
学校での嫌なこと、友達のすれ違い、家で感じた孤独――
夢の中の言葉たちは、それらを説明してくれる。
現実の辞書にはない、心の揺れを表す言葉たち。
彼女はだんだんと、夢の辞書を「自分だけの言葉帳」として大切に感じはじめた。
【3】
ある晩、辞書に一つの見出しが現れた。
「忘字(ぼうじ)」――言葉を失うこと。思いをしまうとき、漢字も消える。
それは母親のことだった。
数年前、母は仕事と看病の疲れで声を荒げ、ひよりを責めた。
以来、ひよりは母の話す言葉を、少しずつ“聞かなく”なっていった。
「忘れる」ことは、言葉を消すことだった。
でも夢の辞書は、もう一つ注釈をつけていた。
「忘字は、想いの裏返しである。
書き直すことで、また現れることもある。」
彼女は夢の中でページを破り、自分の手で書いた。
「燈憶」――忘れかけた記憶に、灯りをともす言葉。
【4】
朝、目を覚ますと、机の上に一枚の紙があった。
見覚えのある筆跡――でも、自分ではない。
「ママも、ごめんねって言えなかった。
ひよりのこと、忘れてないよ。」
その夜、夢の辞書は閉じていた。
代わりに、夢の中に本棚が現れ、そこに新たな背表紙が一冊増えていた。
『ひよりのことば辞典』
現実と夢のあいだで、彼女は確かに、自分の言葉を持ちはじめていた。
✴️ 登場漢字:夢
● 字義:ゆめ。眠っている間に見る幻覚、理想、願望。
● 成り立ち:「目」+「冖(おおい)」=目を覆う → 眠る → 見える幻
● 象徴性:想像、無意識、記憶の海/現実に足りない言葉を補う“仮の辞書”
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