第4話 雨を描く人

“雨”という字は、天から落ちる雫を囲う象形――誰かの涙も、空の片隅に宿っているのかもしれない。


【1】

その画廊は、いつも静かだった。

東京郊外の古いビルの最上階。木の床が軋み、壁には無数の雨の絵が飾られている。


灰色の街に差しこむ斜陽、濡れた舗道の反射、しとしとと降る庭先の雨。

すべての絵には、一文字のサインがあった。


「雨」


まるで、絵そのものが空から滴るようだった。

だが、それはただの芸術ではなかった。


その画廊を訪れた人々は、誰もが口を揃えてこう言うのだ。


「絵を見たあと、本当に雨が降った」と。


【2】

彼の名は、日高 澪(ひだか・みお)。

“雨を描く人”と呼ばれる、無口な青年画家。


彼は、自分の絵に「天気を変える力」があることを知っていた。

それは偶然ではない。

彼が「雨」という字を描くたびに、空は応えた。


幼い頃、妹が病で寝込んでいたとき。

夏の暑さに苦しむ彼女のため、彼は雨の絵を描いた。

「降って」と願いを込めて、雨の字を添えた。


その夜、本当に雨が降った。

冷たい空気が妹の熱を下げ、彼女は微笑んだ。


それが、澪の始まりだった。


しかし、妹は翌年、静かに息を引き取った。


以来、彼は絵の中に“涙”を込めるようになった。

誰かの悲しみに寄り添うために、雨を描いた。

やがて彼の絵は、言葉より多くの慰めを人にもたらすようになった。


【3】

ある日、画廊に一人の女性が訪れた。

黒のワンピースに、曇りのない瞳。


「この絵……見てると、あの日の音が蘇る気がします」


彼女の視線の先には、一枚の絵――

赤い傘が濡れる小道の風景。その中央に、見えそうで見えない“誰か”の背中。


「私、十年前に母を亡くして。

 あのときも、雨が降ってました。

 でも、あの雨は……どうしてか、あたたかかったんです。」


澪は何も言わなかった。

ただ、彼女の声に耳を傾け、空白の画布を見つめた。


その夜、彼は新しい絵を描いた。


母を想う娘の後ろ姿。

白い花を持ち、見上げる空には小さな虹。

そして、その空に、筆で一文字だけ――「雨」と書いた。


【4】

翌日、その女性は再び画廊を訪れた。

開口一番、こう言った。


「不思議なことに、帰り道に降った雨が、ぜんぜん冷たくなかったんです。

 むしろ、なんだか……包まれているような気がして。」


澪は、初めて小さく微笑んだ。


「……その雨は、たぶん、あなたの心から来たんだと思います。」


雨は、悲しみだけじゃない。

誰かの記憶に寄り添い、癒すものにもなる。


彼の描く雨は、もう妹の涙ではなかった。

それは、誰かをやさしく濡らす、空の言葉だった。


✴️ 登場漢字:雨

● 字義:あめ。空から降る水。象徴としての自然、情緒、浄化。

● 成り立ち:上の横棒は空、下の四点は滴る雨粒を表す象形文字。

● 象徴性:涙、記憶、再生、癒し――静かに人の心に降り注ぐ感情のかたち。


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