彼女が救う場所 - みどりが丘総合病院、24時

志乃原七海

第1話:正義と、勇気



彼女が救う場所 - みどりが丘総合病院、24時


第一話:正義と、勇気、そして繋がり


(昼下がり:日常と、その奥にあるもの)


みどりが丘総合病院は、緩やかな坂を上った丘の上に建っていた。真っ白な壁は、少し煤けてはいるけれど、どこか地域の風景に溶け込んでいるようだった。春の陽射しは柔らかく、窓ガラス越しに差し込む光は、廊下を暖かく照らしている。昼下がり特有の、穏やかな時間が流れていた。ナースステーションでは、看護師たちがカルテを抱えて行き交い、時折、笑い声が漏れる。小児科病棟の窓からは、子供たちの明るい声が響いてくる。それは、この場所が、確かに人々の生活と、命と共に息づいている証だった。


救命救急センターの片隅にある仮眠室で、田中愛海は、コーヒーを一口飲んだ。二十八歳。救命医として数年のキャリアを積んでいるが、このところ続く重症患者の対応に、肉体よりも精神が擦り減っているのを感じていた。明るい栗色の髪は、きっちりと一つに束ねられている。白いスクラブは清潔だが、袖口にはうっすらと消毒液の匂いが染み付いている。その瞳は、マグカップを見つめているようでいて、実際は、壁にかかったICUのモニターを捉えて離さなかった。患者の些細な数値の変化も見逃すまいとする、職業病のようなものだった。


「田中先生、顔色悪いですよ。交代しますから、少し休んだらどうです?」ベテラン看護師の山田さんが、仮眠室のドアを開けて声をかけた。その声には、厳しさと優しさが半々に含まれている。


愛海は、小さく首を振る。「大丈夫です、山田さん。もう少しだけ。あの、ICUの山田さんのバイタル、気になって…」山田さんというのは、先ほど愛海が担当した、急性心筋梗塞で倒れた患者のことだ。


「ああ、あの頑固爺さん。さっきまでは落ち着いていましたよ。でも、無理は禁物です。先生が倒れたら、私たち全員が困りますからね。先生は、私たちの頼りなんですから」山田さんは、少し照れたように笑った。愛海は、地域医療を支えるこの病院で、若手ながらも救命救急のエースとして、多くのスタッフから信頼されていた。患者の命に真摯に向き合う彼女の姿勢は、皆が知っていた。


「ありがとうございます、山田さん。でも、もう少しだけ…」愛海が再びモニターに目を向けたその刹那、静寂を切り裂くように、けたたましいサイレンの音が鳴り響いた。遠くから近づいてくるその音は、あっという間に病院全体に響き渡る。それは、穏やかな日常が一瞬で非日常へと切り替わる、救命医にとって最も緊張する合図だった。愛海の顔から疲労の色が消え、全身に電気が走ったような緊張感が走る。コーヒーカップをデスクに置く手つきが、僅かに震えた。


(救命救急センター:命の最前線)


救命救急センターの大きな扉が、けたたましい音を立てて開け放たれる。愛海は、仮眠室から飛び出すように駆け込んだ。外の喧騒は一変し、センター内はすでに、張り詰めた、戦場のような空気に包まれていた。


「事故現場からの搬送です!多重衝突事故!重傷者多数!」救急隊員の声が響き渡る。


次々とストレッチャーに乗せられた患者たちが運び込まれてくる。血に濡れた服、苦痛に歪む表情、意識のない体…。様々な状況の患者たちを前に、愛海は瞬時に状況を把握し、頭の中で優先順位を組み立てる。その判断は素早く、迷いがないように見えた。


「バイタルチェック!この方ショック状態!酸素投与!早く!」


「そちらの方、頸椎損傷の疑い!絶対動かさないで!」


「出血多量!輸血の準備!」


愛海の指示は、冷静で的確だった。しかし、その声の奥には、患者を救いたいという、燃えるような情熱が隠されていた。彼女の言葉に、スタッフたちがテキパキと、しかし慌ただしく動き出す。


心肺停止状態の高齢者が運び込まれた。愛海は迷わずその患者のそばへ駆け寄り、心臓マッサージを開始する。「心臓マッサージ開始!アドレナリン1ミリ!」額に汗が滲み、腕はすぐに痺れ始めた。肺に空気を送り込む人工呼吸、胸骨圧迫。モニターのアラームがけたたましく鳴り響く中で、愛海はただひたすら、その命に力を送り込む。「お願い、頑張って…お願い…戻ってきてください…!」彼女の心臓が、患者の心臓と共に脈打つかのような感覚。その必死な願いが届いたのか、モニターに、かすかな心拍を示す波形が戻ってくる。「蘇生成功!急いでICUへ!」スタッフから安堵の声が漏れるが、愛海はすぐに次の患者へと視線を移す。


その時、彼女の目に飛び込んできたのは、泣きじゃくる母親に強く抱きしめられた、幼い少女だった。少女の顔色は青白く、呼吸は浅い。小さな瞳には、すでに光が失われかけている。


「先生…先生、助けてください…!娘が…!」母親は、藁にも縋る思いで愛海に訴えかける。


愛海は少女のそばに膝をつき、容態を瞬時に把握する。呼吸困難、意識レベルの低下。一刻を争う状況だ。「小児科医を呼んで!すぐに!」


小児科医の到着を待つ間、愛海は少女に酸素マスクを装着する。震える少女の小さな手に触れ、その冷たさに心が軋む。優しく、しかし力強く語りかけた。「大丈夫だよ。怖くないよ。私が、必ず助けるから。」母親の手も握り、安心させようとする。その言葉に、少女は、愛海を信じるように、かすかに力なく頷いた。


しかし、少女の容態は刻一刻と悪化していく。多重衝突事故の重傷者、心肺停止から蘇生した高齢者、そして目の前の幼い少女。限られた医療資源、限られた人員、そして限られた時間の中で、誰を優先すべきなのか。医師が最も直面したくない、残酷な選択の時が迫る。それは、命に順位をつけるような、非情な判断だ。


(全員を救いたい…助けられる命を見捨てたくない…でも、時間がない…!)


愛海の脳裏に、過去に救えなかった幼い患者の、小さな顔がよぎる。あの時、別の選択をしていれば、何か変わっていたのだろうか?後悔と自問自答の嵐が、彼女の心を抉る。「私の判断は、間違っていないか…?最善は、本当にこれなのか…?」愛海は苦悶の表情を浮かべ、唇を噛み締める。しかし、命の時間は、彼女の葛藤を待ってはくれない。


愛海は、自らの心の声に蓋をし、医師としての「正義」と「勇気」をもって、決断を下す。それは、重く、孤独な決断だった。


「小児科医と連携!この子の治療を最優先でお願いする!他の患者の治療は、私と、残りのチームで最大限に対応する!」


愛海の決断に、周囲のスタッフたちは一瞬息を呑んだ。その決断は、他の患者の命を危険に晒す可能性も孕む、重いものだったからだ。しかし、彼らは愛海の眼差しに、患者を救いたいという、迷いなき強い意志と、覚悟を感じ取った。そして、彼女を信じ、すぐにその指示に従った。救命救急センターは、再び慌ただしい医療行為の音に包まれた。


(夕暮れ:個人的な繋がりと、見えざる不安)


夕暮れ時、救命救急センターにようやく、嵐が去った後のような静けさが戻った。オレンジ色の光が、血痕の残る床や、乱雑に置かれた医療器具を照らす。愛海は、物理的な疲労と、精神的な重圧に押し潰されそうになりながら、デスクで残されたカルテを整理していた。やり遂げた充実感と同時に、救えなかった命への深い哀悼の念が胸を満たす。


「今日も、たくさんの命と向き合った…」


その時、内科の医師が愛海に声をかけた。その声には、少しの困惑が混じっていた。「田中先生、受付に、田中健太さんがいらっしゃってますけど…?先生のご家族だとおっしゃって…でも、なんだか、様子がおかしくて…」


愛海の心臓が、ドキンと大きく跳ねた。田中健太。それは、彼女の兄の名前だった。兄は、数年前にこの病院の医療事務を辞め、今は別の仕事をしているはずだ。なぜ、この時間にここに?しかも、体調が悪そうに?そして、受付にいる?様々な疑問が頭の中を駆け巡る。


慌てて内科外来へ向かうと、待合室の端の椅子に、健太がぐったりと座っていた。顔色は青白く、普段の明るい彼の面影はどこにもない。どこか落ち着きがなく、周囲を気にするような仕草を繰り返している。


「健太!どうしたの!?大丈夫なの!?」愛海は駆け寄り、健太の肩に触れる。健太は愛海の顔を見て、無理に笑顔を作った。その笑顔は、ひきつっていた。


「ああ…愛海…大丈夫だよ。ちょっと風邪気味でさ…近くまで来たから、病院に寄ってみたんだ。」


「風邪?顔色悪いし、声もかすれてるじゃない。それに、様子がおかしいわ。無理しないで。ちゃんと診せて。」愛海は健太の手を取り、診察室へと促す。


診察台に座った健太を、愛海は医師として、そして妹として問診する。「いつから?熱は?咳は出る?他に症状は?」


健太は曖昧な返事を繰り返す。「んー、昨日くらいからかな…熱はあんまりないと思うんだけど…でも、ちょっとだるくて…頭が痛いような…」彼の言葉には、何か隠し事をしているような、歯切れの悪さが滲んでいた。愛海は健太の視線が定まらないことに気づく。落ち着かず、何かを深く悩んでいる、あるいは、何かに怯えているような様子。身体的な症状よりも、精神的な疲労が強く感じられる。


「健太、何か隠してるでしょう?病気のことだけじゃないんでしょ?何があったの?私に話して?」愛海は優しく問いかけるが、健太は俯いてしまい、何も答えようとしない。ただ、小さく震えているように見えた。


愛海の心に、兄への強い心配と、見えざる不安が募っていく。健太の異変は、単なる体調不良ではない。それは、彼の心の奥底に隠された、何か大きな問題の兆候なのかもしれない。それは、病気なのか、それとも…?


(夜:病院という「場所」で生きる人々)


夜が更け、みどりが丘総合病院は、昼間とは全く違う顔を見せていた。照明が落とされた廊下は静かで、昼間の喧騒が嘘のようだ。しかし、その静けさの中にも、様々な音が響いている。患者の寝息、点滴の滴下音、人工呼吸器のリズム、そして、夜勤のスタッフたちの足音。それらの音は、この場所で命が活動している証だった。


小児科病棟では、新人看護師の高橋美桜が夜勤 duty に入っていた。初めての夜勤は緊張するが、子供たちの無邪気な寝顔を見守っていると、心が温かくなる。しかし、その中には、痛ましい傷跡や、怯えたような表情を隠せない子供たちもいた。虐待の疑いがある子供たち。美桜は、彼らの小さな身体を見るたび、胸が締め付けられる。この子たちの力になりたい、安全な場所にいたいと願う彼らの願いを叶えたい、でも自分には何ができるんだろう…無力感に苛まれながらも、美桜は看護師という仕事の重みと尊さを感じていた。ナースコールが鳴ると、美桜は駆けつける。そこには、不安げな顔で眠れない子供、あるいは、痛みを訴える子供がいた。美桜は、精一杯の笑顔で彼らに寄り添う。


その夜、病院内でいくつかの小さな問題が発生していた。薬品庫の棚の整理が悪く、危うく使用期限が切れた薬が使われそうになり、薬剤師が慌てて確認する。ICUでは、重症患者が多いうえ、夜間の人員が手薄なため、看護師たちが走り回っている。ナースコールが鳴り止まず、休憩もろくに取れない。疲労困憊した看護師が、誰も見ていないところで、思わず壁に額をつけて、小さくため息をつく。「もう無理…」


入院患者の転倒事故も発生した。夜間、一人でトイレに行こうとした高齢患者が、ふらつき、ナースコールを押す前に転んでしまったのだ。幸い大事には至らなかったが、看護師は顔色を失い、自責の念に駆られる。


これらの問題は、個々のスタッフのミスや不運として片付けられそうになる。しかし、救命センターでの夜勤を終え、兄のことが気になりながらも、院内を歩いていた愛海は、これらの小さな異変に気づき始めていた。疲弊の色を隠せないスタッフたち、どこかピリピリした空気、いつもより多いナースコール。それは、単なる多忙さだけではない、この病院の抱える「ひずみ」や「見えざるプレッシャー」に起因するもののように感じられた。医療現場の疲労なのか、システムの欠陥なのか、あるいは…?愛海の胸に、漠然とした不安が広がっていく。


(深夜:繋がる点と、救うべき場所)


深夜。静まり返った病院の一室、医局のデスクで、愛海は一人、眠れずにいた。デスクの上には、兄・健太の今日の診察記録が広げられている。そこに記された健太の言葉、バイタルデータ。そして、以前、彼がこの病院で働いていた頃の記録。愛海は、それらを注意深く見比べた。点と点を繋ぐ糸を探すように。


兄の曖昧な態度。病院内で立て続けに起きる小さな問題。疲弊している同僚たち。そして、小児科で苦しむ子供たち。それらが、バラバラの出来事ではなく、どこかで一本の線で繋がっているような気がしてならなかった。兄の異変は、本当に単なる体調不良なのか?病院で起きている問題は、偶然の積み重ねなのか?


愛海は、健太の言葉や様子から、彼が単なる病気ではなく、何か大きな心労や、あるいは外部からのプレッシャーに苦しめられている可能性を感じ取る。そして、それが、もしかしたらこの病院で起きている問題と無関係ではないのかもしれない、という直感が、確信へと変わり始める。それは、兄が何か不正に関わっているということではない。むしろ、兄自身が、この病院の抱える「ひずみ」や「課題」によって、追い詰められているのではないか?


愛海は、自分が救命医として目の前の患者の命を救うように、兄の苦しみを救いたいと強く願った。それは、家族としての深い愛情からくる、切実な願いだった。同時に、昼も夜も懸命に働く同僚たち、患者たちのために最善を尽くそうとするスタッフたち。そして、この病院で治療を受け、懸命に生きようとしている患者たちとその家族。この「みどりが丘総合病院」という場所そのものが、今、何らかの「救い」を必要としているのではないかと強く感じる。それは、単なる組織の立て直しではない。そこで働く人々の心のケア。患者とその家族が、安心して治療を受けられる場所であること。そして何より、この場所が提供する医療の「質」を守ること。愛海は、それが自身の使命であるかのように感じていた。


窓の外を見る愛海。暗闇の中に、みどりが丘総合病院のシルエットが浮かび上がっていた。それは、ただの建物ではない。多くの人々の命が、人生が、希望が、そして苦悩が交差する、かけがえのない「場所」だ。その場所が、今、病んでいるのかもしれない。


愛海は、静かに、しかし力強く立ち上がった。疲労の色は消え、その眼差しに新たな、強い決意が宿っていた。兄を救うこと。そして、この「場所」を、そこで生きる人々を、守り、救うこと。それは、医師としての正義、人間としての勇気。そして、大切な人々との「繋がり」を守りたいという、温かい、静かな思いから生まれる覚悟だった。


ナレーション:「彼女が救うべきは、目の前の命だけではなかった。愛する家族。そして、この、かけがえのない場所そのものだった。」


彼女が救う場所 - みどりが丘総合病院、24時。


物語は、今、静かに、そして力強く、幕を開ける。

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