第29話 嗤う正義
ウォレス領、夜の静寂が屋敷を包んでいた。
葉の擦れる音さえも聞こえないほどに静まり返った屋敷の中で、ただ一人、ヨハンの胸には不吉な気配が渦巻いていた。
それは理由もなく湧き上がったものではなかった。
足音を忍ばせるように、しかし焦燥を隠しきれず早足で廊下を行くヨハン。その後ろには、丸い目をしたダンゴが懸命についてくる。
そして二人がたどり着いたのは、アウメリアの部屋だった。
迷わず中へと踏み込み、ヨハンは自身の魔力を漂わせ確認をする。
「ヨハン様、いかがですか?」
「……うん、やっぱり転移魔法の痕跡がある。しかもこれ、王族特権の……」
「王族特権……それでは……」
ダンゴの声が掠れる。
ヨハンは唇を噛み締め、眉をひそめた。
「うん。たぶん王族の誰かが、アウメリアさんを王都へ呼んだんだ」
「では、王が?」
ヨハンの目に浮かぶのは焦燥だった。
「もし呼び出したのが王ならまだいい……腹黒いところはあるが、アウメリアさんに手を出すような人ではない。……でも、もしもそれが、ジェフリー殿下だったとしたら……」
拳を強く握り締めたヨハンの指先が白くなる。
「……ダンゴくん、最速で王都へ向かう。状況によっては、君の“出番”かもしれない」
ダンゴは真剣な眼差しでうなずいた。
「お任せあれ」
◆
王都のとある屋敷。
そこは王族の別邸であり、限られた者しか立ち入ることが出来ない。
そしてその地下には、牢獄があった。
人目から隔離され、奥深く、誰も近寄らぬ陰湿な空間だった。
湿った石壁、沈殿する腐臭、天井から吊るされた鉄鎖……その先に繋がれていたのは、かつて悪役令嬢と呼ばれた女――アウメリアだった。
彼女の姿は無残だった。
深紅のドレスは裂け、肌には幾重もの鞭の跡。ミミズ腫れが幾筋も走り、頬には打撲の痕が残り、唇の端からは血が乾ききらず、なおも垂れていた。
それでも彼女は、嘆かない。泣かない。
強靭ではなく、甘受。
全てを諦めたように、声ひとつ漏らすことなく立っていた。……否、吊られていた。
しかしその眼差しは、ただ前を見据え、微動だにしなかった。
「アウメリア……いい加減、懺悔しろ」
重く怒気に満ちた声が響く。
声の主はジェフリー王弟。
かつてアウメリアと婚約していた青年である。
その男が今、狂気に似た憎悪の炎を宿した瞳で、アウメリアを睨み付けていた。
彼女の返答がないことが、更なる怒りを呼ぶ。
「何だその目は……何なんだその目はッ!!」
怒声と共に、ジェフリーは乗馬鞭を大きく振りかぶった。
鞭が風を裂き、アウメリアの裸の肩に食い込む。背に食い込む。足に、腰に。
一度、二度、三度、四度……。
肉に焼け付くような音と、布が裂ける音、そして微かな呻き声が重なる。
「お前はッ! 僕をッ! 馬鹿にしているのかッ!? あぁ!? 答えろアウメリア! 答えてみろッ!!」
アウメリアは呻きながらも、彼の目を見返した。
その目に浮かぶのは怒りでも涙でもない。
静謐さと諦観の入り混じったような何かだった
兵士たちは顔を歪め、空気は明らかにおかしくなっていた。
これはいったい、なんなのかと。
尋問と聞かされていた。咎人たるアウメリア嬢に反省の色がないとされ、その性根を是正するものだと言われていた。
だが目の前に広がる光景は、是正などとは程遠い。
手段と目的が完全に入れ替わり、ただ私怨をぶつける王弟に、その場にいる兵や臣下は、ただただ震えていた。
その時、ジェフリーが叫ぶ。
「おいお前!」
ジェフリーは兵の一人に鞭を向ける。
「わ、私ですか?」
「そうだ、お前だ! お前……この女を襲えッ!」
全員が凍りついた。
「え……?」
「何をしている! 早くしろッ!」
「で、ですが……!」
「僕の命令が聞けないのか!? これは王弟たる僕の――!」
「――なりませぬッ!!」
突然老いた男の怒声が、空気を切り裂くように響いた。
名をライオネルという。
ジェフリーが幼少の頃より仕える老臣である。
白髪の頭を振り、老いぼれた目を血走らせ、震える声で言葉を続ける。
「なりませぬぞ殿下ッ! 如何に相手が咎人だとしても、尋問でその純潔を奪うなど……決してあってはなりませぬッ!!」
「ラ、ライオネル……」
「これは王族特権による“公務”なのですぞ! その立場と権威を私怨のままに貶めるなど、もはや王家にとっての恥辱! 殿下、それをお忘れですかッ!!」
ジェフリーは動揺を隠せない。
鞭が手から落ち、彼は後ずさる。
「だ、だが……あの女は……!」
「わかっております! 憎いでしょう! 許せぬでしょう! ですが無抵抗の令嬢を痛めつけ、あまつさえ辱めようとするなど……! もはや王弟たる者の行為ではないッ! それは人を捨てるかの如き所業! 鬼畜の行為ですぞッ!!」
ライオネルは目に涙を滲ませ、ジェフリーの両肩を両手でしかと掴む。
「ジェフリー殿下! どうか目を覚ましてくだされ! この所業のどこに……今のあなたのどこに、“正義”があるのですかッ!!」
「……ッ……!」
その怒気と悲哀を含んだ言葉に、ジェフリーは何も返せなかった。
やがて彼は背を向け、吐き捨てるように言う。
「……明日、お前の処分を言い渡す。覚悟しておけ、アウメリア……」
皆の緊張が緩和される中、アウメリアは唇を一度だけ噛み締めた。
そんな彼女の目には、光も涙もなかった。
◆
その夜、王城の一角。
ライオネルは一人、静かな中庭の通路を歩いていた。
脳裏には今日のジェフリーの姿が焼き付いて離れない。あれは正気ではない。まるで何かに操られているような……。
と、そこに柔らかな足音が重なる。
「――いい夜ですな、ライオネル殿」
滑らかに、どこか愉快そうに声がかかる。
その声の主を見たライオネルは足を止め、驚愕に声を震えさせた。
「あなたは……サンジェルマン公爵……!」
ドゥエル・ベイタ・サンジェルマンは、ひたり、ひたりと、歩み寄っていた。
瞬間、ライオネルは悟る。
何の根拠も証拠もない。だが確実に、彼の直感は警鐘を鳴らす。
殿下を誑かしたのは、この男か――と。
しかしドゥエルは、あくまでも飄々とする。
「先ほどの牢でのご演説、お見事でしたな。実に誠実で、実に真っ当で……」
そして、ドゥエルはライオネルの前に立つ。
「……実に、目障りだ」
「――――ッ!!」
刹那、何かがライオネルの腹部に入り込んできた。
震えながら目をやる。
鈍い光を帯びた銀のナイフが、深紅の血を滴らせながら、ライオネルの胴体に突き刺さっていた。
「き、貴様……!」
ドゥエルの目は氷のように冷たく、それでいて笑っていた。
「殿下にはこのまま、都合のいい“道化”になってもらわねばなりませんのでな。余計な説教など、非常に困る」
「こ、この……裏切り者、が……!」
ライオネルはそのまま倒れ、血の水溜まりを足元に作る。そして指一つ、眉一つ動かなくなった。
「裏切り? ふふふ、いったい私が、誰を裏切ったなどと……」
ドゥエルが目配せをすると、兵数名が現れる。
彼らが手早くライオネルの遺体を処理する中、ドゥエルは薄ら笑いを浮かべて歩き出す。
「……元来私は、誰にも仕えてなどいないのだよ、ライオネルくん」
その声に込めたるは自損。
その目に宿るは渇望。
肥えた大狸は更なる脂を取り入れんと、王国の闇で蠢いていた。
◆
王国の西に広がる公国、その中央宮殿。
瑠璃の天蓋と、金糸を織り込んだ絨毯が敷かれた謁見の間には高貴な会議卓が置かれ、二つの重厚な椅子が並べられていた。
そのうち一つに座るのは、公国の宰相にして老獪な知将――バルタザール・ヘルトヴィッヒ。
白髪交じりの口髭を撫で、もう一方に座る人物へと笑みを向けた。
「遠路はるばる、よくおいでくださいました、ジークフリード陛下」
王国の若き王ジークフリードは、眉一つ動かさず、低い声で応じた。
「世辞はいらん。早速本題に入ろう」
バルタザールの目が細くなる。
「……帝国の件、ですね?」
「無論だ。どうやら最近、きな臭い動きをしているようだな」
「その話なら、私の耳にも届いております。どうやら帝国は、“黒いクリスタル”を用いて、“門”を開いていると」
ジークフリードは椅子にもたれかかり、重々しく頷いた。
「まだ実験段階のようだが……奴らが完全な成功を得るまで、指を咥えて見ているわけにもいかん」
「ごもっともで。もしも異界と自由に繋がる技術を手にすれば、帝国の軍事力は、もはや我々の手に負えないでしょうな」
「世界の均衡が崩れる。間違いなくな。そうなれば戦争は不可避だ。まったく、煩わしいことこの上ない」
バルタザールの口元に、薄く苦笑が浮かぶ。
「やはり王国への恨みが、彼らの根底にあるのでしょうか?」
「それしかないだろう。親父が残した因果だ。帝国と結んだ条約を反故にし、侵攻したあの判断……そのせいで、俺がその報いを引き継ぐ羽目になった」
バルタザールは軽く肩をすくめた。
「……して、対応はいかがするおつもりですか?」
ジークフリードの眼差しが鋭くなる。
「一つ、俺に案がある。それは――」
その言葉を遮るように、重々しい扉がバンッと音を立てて開いた。
ジークフリードの側近が慌ただしく入り、ジークフリードへと接近する。
「陛下、ご会談中、大変失礼をいたします」
ジークフリードは片眉を上げた。
「何だ?」
騎士は近寄ると、耳元に声を寄せる。
するとジークフリードの表情が見る間に険しく歪み、血管がこめかみに浮かんだ。
「……あの、馬鹿がッ!!」
突然、重厚な会議卓が拳によって叩きつけられ、部屋に鈍い音が響く。
バルタザールが目を細めた。
「急用……ですかな?」
「ああ。少々、王国が吹き飛ぶかもしれん」
「それは……確かに急用ですな」
ジークフリードはマントを翻しながら立ち上がる。
怒りを抑え込むように呼吸を整え、踵を返す。
「悪いが、話はまた今度だ。今日は貸しにしといてやる」
バルタザールは、どこか愉快そうにうなずいた。
「それはそれは。願ってもない」
ジークフリードは怒気を帯びた足取りで謁見の間を後にする。
その背に、バルタザールは呟く。
「……はて? 王国が、“吹き飛ぶ”?」
揶揄か何かと思っていた。しかしあの不遜なる王の焦りは本物。ならば、もしや文字通りの意味なのか?
バルタザールは、ゆっくりと天井を見上げる。
「外にも内にも爆弾を抱える御様子。いやはや、“英雄王”も気苦労が絶えませんな」
宰相は、心の底から同情していた。
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