So-and-So

一途貫

#1 空っぽのボク


  ごきげんよう。君なら来てくれると思っていたよ。実は、折り入って君に頼みがあるんだ。どうか、落ち着いて聞いてほしい。


  君にはこれから、ある人物を助けてほしいんだ。ああ、難しく考えないでいいよ。君なら必ずできるからね。どうか、あの人を助けてくれないか?


…………ありがとう。いい返事が貰えて嬉しいよ。


 後、君は今、どんな格好をしているのかな? よかったら教えてほしい。


……そうか。いや、単に気になっただけなんだ。生憎、今部屋の明かりが故障しててね。気にしないで。


 え? 私の名前かい? ……困ったなぁ、君を待っている間に忘れちゃったよ。まぁ、君とはまた会えると思うから、それまでに思いだしておくよ。


 暖かい光とともに、ボクは目を開ける。一面が白い部屋だ。まるで何も描かれていないキャンパスに閉じ込められたみたいに。ボクは寝ていたのかな。体を起こそうとすると、背中がズキズキ痛んだ。顔を起こすと、ベッドから手足が出ているのが見える。ボクが手足を動かすと、ベッドから出ている手足もピクリと動いた。これはボクの手足か。部屋の机は綺麗に整頓されていて、クローゼットの中には白い服が規則正しく入っている。まるでこの世界に一つの乱れも許さないみたいだ。


「よかった。起きたのね、■■■■」


知らない女の人が部屋の扉を開けて、ボクの額に手を当てる。女の人はボクを呼んだみたいだけど、言葉の最後はボクにはよく聞き取れなかった。女の人の温かい手の感触が、冷え切った額にじんわりと広がる。


「怪我はもう大丈夫?」


女の人はしきりにボクに話しかける。心配されているのは分かっているけど、ボクはこの女の人が誰なのか分からない。茶色の髪、緑色の瞳、この人の全てが初めて見るみたいだ。


「どうしたの? ……私はマーテル院長よ」


マーテル院長……? 聞いたことのない名前だ。でも、その名前を心の中で呟く度に、胸の中に違和感が走る。この女の人が誰なのか思い出そうとすると、激しい頭痛が襲う。あまりの痛みに、ボクは頭を押さえた。頭の中はまだ霞がかってぼんやりしている。マーテル院長と名乗る人は、ボクを気遣うように肩をさする。


「ああ、そんなに考え込まなくても大丈夫よ。じきにお医者様が診に来てくれるからね」


マーテル院長はボクを諭す。お医者様? 診に来てくれる? ボクには訳が分からなかった。強くなる頭の痛みだけが、ボクを押し潰そうとしている。


「■■■■、調子はどうだい?」


部屋に白衣を着た山羊の獣人が入って来る。窪んで充血した黄色い瞳に、歪にねじ曲がった角。ボクはこの山羊のお化けの目が怖くてたまらなかった。ボクの頭に変な痛みが入ってくるように、規則正しいこの部屋にも異物が次々と入ってくる。痛みを堪えながら、ボクはその場から逃げようとした。


「怖がらなくてもいいのよ。この人はテルカ先生。いつもお薬をくださるお医者様よ」


先生、と呼ばれた山羊のお化けは、胸元から不気味な形の機械を取り出した。悪魔の口みたいな形の機械を、山羊のお化けはボクの胸元に押し付けようとする。ボクは全身に悪寒が走り、体を痙攣させた。


「ああ、心配しないで。テルカ先生は優しい方よ」


マーテル院長は目の前の山羊の化け物を怖がることなく、ボクの肩に手をかける。この人には目の前の悪魔みたいな化け物が見えないの? ボクの頭は真っ白になり、自分が何をされているのかすら分からなくなった。何故だか分からない。でも、あの山羊の目を見ていると全身を叩きつけられたような痛みが走る。ボクは無性に逃げ出したくなり、手足をばたつかせてマーテル院長を振りほどこうとする。


「どうしたの? テルカ先生はあなたが風邪をひいた時にも、あなたを見てくれたのよ」


「はっはっはっ、また■■■■君に怖がられてしまいましたな。初めて■■■■君に会った時も、君は大声で泣いていましたからね」


懐かしげに笑う山羊のお化けを見て、ボクは少し落ち着きを取り戻した。頭の中に微かによぎった光景。その中に映る、白衣の医師。ボクは、この人を知っているような気がする。マーテル院長はボクの胸に手を当てて、ボクの呼吸を落ち着かせた。


「……ふむ。どうやら■■■■君は、一時的に記憶喪失になっているようですな」


テルカ先生は顔色一つ変えないで、冷静にボクを分析する。テルカ先生の充血した目に見られて、生きた心地がしなかったよ。マーテル院長は信じられないと言わんばかりに目を見開く。


「記憶喪失……ですって?」


「ええ、階段から落ちたショックで、記憶が混乱しているのでしょう」


テルカ先生は淡々と話を続ける。マーテル院長は魂が抜けたようにその場に佇んでいた。ボクは訳が分からないまま、肩を震わせる。どうしてこの女の人は悲しい顔をしているのだろう? どうしてこの山羊の医者は、ボクをまるで壊れた機械のように、ジロジロ見るのだろう? ボクは病気も怪我もしてないのに。得体の知れない恐怖が、ボクの体に纏わり付く。


「先生、何とかなりませんか?」


「残念ながら、記憶の修復は難しいものです。しかし、■■■■君が今までに行ったことがある場所に行けば、何らかの弾みで記憶が戻るかもしれません」


テルカ先生は抑揚のない口調でマーテル院長に告げる。マーテル院長は安心したような、不安げな複雑な表情でボクを見た。こんなにボクを心配してくれるなんて、マーテル院長にとってボクは大切な存在だったのかな。


「私もできるだけ■■■■君の記憶が戻るよう、手を尽くします。取り敢えず、今は安静にしてくださいね」


テルカ先生はそう言うと、ボクとマーテル院長に軽く会釈をして、部屋から出て行く。ボクはマーテル院長の袖を軽く握った。こうしていると、胸の中の違和感が少し解れるような気がするんだ。マーテル院長もボクの頭を大きな手で撫でる。なんだか、こうしてマーテル院長はよく、ボクの髪を撫でてくれたような気がするな。


「大丈夫よ、■■■■。記憶が無くても、あなたは私の可愛い子に変わりはないわ」


マーテル院長はボクの頬に手を当てる。ボクは、マーテル院長の温もりをいつまでも感じていたいと思った。マーテル院長とボクはどんな関係だったのかは分からないけど、一緒にいても悪い気はしない。この人といると、どんな不安も忘れられるんだ。


「あ、■■■■! よかったぁ、起きたんだ」


部屋の入り口から、黒豹の獣人が入ってきた。ボクは驚いて、マーテル院長にしがみつく。黒豹の獣人は、マーテル院長よりも背が高かったんだ。口を動かすたびに覗く長い牙は、鋭く光っている。首にかかった鈴の付いた首輪が、ひどく小さく見えた。ボクを見下ろすその姿は、まるでボクを捕まえて食べてしまいそうなほど大きい。


「どうしたの? そんな顔をして。私よ、ルーソだよ」


ルーソはボクを見るなり走り出し、激しく肩を揺する。あまりの力にボクの体は、なされるがまま揺れた。首が振り子のように揺れ、視界が回る。ボクの肩を覆い隠してしまいそうなほど大きな手。長く伸びた爪が当たって、少し痛い。ボクは目の前にいる異様な生き物に恐怖しか感じられなかった。


「おい、■■■■は怪我人だぞ。お前みたいなデカブツが揺らしたりなんかしたら骨が折れるだろ」


ルーソの後ろから鋭い声がした。声の主は緑色のマントと帽子を被った男の子だ。いや、ただの男の子じゃない。その子の顔は黄土色で、所々つぎはぎになっていた。片目はアイパッチで隠れ、残った赤い目はビー玉みたいに無機質だ。表情のないその顔は、人間というより人形のようだった。


「あ、そうだよね。ごめん、■■■■」


ルーソは慌ててボクから手を離す。まだ少しボクの肩にはルーソの手の感触が残っていた。ボクはマーテル院長の側を離れようとせずに、異様な風体の二人を見る。


「あなたの友達のルーソとウィルよ。あなたは四歳の時からずっと、この孤児院で二人と一緒に暮らしていたのよ」


マーテル院長はボクを不安にさせないように一生懸命に説明する。ボクが暮らしてきたこの白い部屋。何もかもが規則正しく並べられていて、なんだか落ち着かないな。窓の外から見える光景は、灰色の建物。まるでボクだけが、色のない世界に放り出されたみたいだ。


「院長先生。■■■■は大丈夫なの?」


「ちょっと落下のショックで記憶が混乱しているのよ。大丈夫、きっと治るわ」


心配そうに琥珀色の目を潤ませるルーソを、マーテル院長はなだめる。見た目に似合わず、ルーソの声はハープを手で弾いたように高い。その様子を見て、ボクはますます訳がわからなくなる。どうしてボクが知らない人達が、ボクの心配をしてくれるのだろう。


「お前、忘れたのか? お前は孤児院の階段から落ちて、頭を打って気を失っていたんだぞ」


ウィルが呆れたようにため息をつく。冷たく低い声は、マントに縫い付けられたヒイラギのように刺々しい。ボクは頭に手を当てる。頭には白い鉢金が巻き付けられていた。手を当てると、確かに少しズキズキする。体も鉛みたいでうまく動かない。


「あの時はびっくりしたよ。■■■■ったら、私達より先に飛び出して行っちゃったんだもん」


「全く、危なっかしいな。お前はいつだってそうだ」


目の前にいる知らない友達は口々に言う。記憶を失う前のボクは、一体どんな人だったのだろう。きっとこんなに友達がいて、幸せな人だったのかな。そう思うと記憶を思い出せない自分が、みじめな気持ちになってくる。


「ねぇ、もしかしたら■■■■が今まで行った所に行けば、何か思い出すかもしれないよ!」


ルーソが体を乗り出して、ボクの手を取る。ルーソの肉球の柔らかい感触が、ボクの手を包む。


「お前バカか? ■■■■は大怪我をしたばっかりだぞ。怪我も満足に治ってないのに歩かせる気か?」


ウィルが強い口調でルーソを諌める。抑揚がないけど、ウィルの声は胸に突き刺さるように鋭い。でも、ルーソはまるでいつも聴いているかのように気にも留めなかった。


「ウィルは、■■■■の記憶が戻らなくてもいいの?」


「俺はこいつの記憶がどうなろうとどうでもいい。戻る保証もないからな」


言い返すルーソを、ウィルは冷たくあしらう。こんな正反対なのに、二人が友達なのが不思議だ。記憶が戻るかどうかで二人は言い争っているけど、本当にボクの記憶は戻るのかな。記憶が戻ったら、それは"ボク"なのかな。記憶のないボクには分からないや。


「二人とも、■■■■が困ってるでしょ」


マーテル院長がルーソとウィルの間に入る。二人はお互いを睨みながら渋々引き下がった。マーテル院長はボクを真っ直ぐ見る。院長の緑色の目に見つめられていると、なんだか恥ずかしくなった。


「いいのよ、■■■■。今は無理に思い出さなくてもいいの。思い出すかどうかは、あなた自身が決めればいいのよ」


マーテル院長はボクから目を離さない。ボクも、院長の目を見ていた。なんだろう。この人の言葉は、聞かなきゃいけない気になるんだ。思い出すかどうか……か。このまま何もしなかったら、ボクの記憶は戻らないかもしれない。でも、それでいいのかな。今ボクを気にかけてくれる人達も、ボク自身も何者なのか分からない。そんな空っぽなボクになっちゃう気がするんだ。そう考えると、なんだかボクは死んじゃったみたいじゃないか。ボクは立ち上がって、部屋の入り口の方へ歩き出した。


「え、■■■■。もしかして外に行きたいの?」


ルーソが驚いてボクを見る。ボクは深く頷いた。ウィルもボクの行動が予想外だったのか、ビー玉のような目を見開く。


「お前、自分が怪我人なのを分かってるのか?」


ウィルの鋭い声に身がすくんだけど、ボクははっきり頷く。部屋から出ようとした一歩は軋んで痛かった。だけど、このまま自分が空っぽのままでいるのは、もっと怖い。


「よかったぁ〜。■■■■なら絶対そうしてくれると思ったよ!」


ルーソは飛び跳ねて、ボクの手を取る。兎みたいに飛び跳ねるルーソに、ボクは終始振り回されていた。ウィルは不機嫌そうに腕を組んで、そのまま黙っている。


「そう……やっぱり行くのね」


マーテル院長はボクを見て呟く。院長の顔は今までにないくらいに真剣な表情で、どこか寂しささえ感じられた。マーテル院長を見ていると、ボクの胸もぎゅっと締め付けられる。


「気をつけるのよ。帰って来るまでに■■■■の大好きなオムレツを作ってあげるから、夕方には帰ってきてね」


マーテル院長はボクを優しく抱き締めた。……そうだ、ボクがどこかに行く時には、決まってこうやって"いってらっしゃい"のハグをされた気がする。ボクから手を離すと、マーテル院長は名残惜しげにボクを見ていた。


「■■■■が行くなら私も行くわ!」


ルーソがボクの手を引く。今度は少し手加減してくれたのか、あまり強い力じゃなかった。ボクの側で、ルーソは照れ臭そうに髭を掻く。


「ウィル、あなたも■■■■と一緒に行くのよ」


「なんで俺が行く必要があるんだ」


院長の言葉を、ウィルは冷たく突っぱねる。上機嫌なルーソとは対照的に、ウィルは関わりたくないと言わんばかりに、部屋の端にあるタンスに寄りかかっていた。


「そんな冷たいこと言わないの。友達が困っていたら助けてあげるのよ」


マーテル院長に袖を引かれ、ウィルは渋々ボクの方に向かう。その足取りは不機嫌そうだった。ウィルは片目でボクを睨む。


「……変なマネはするなよ」


念押しをするウィル。ボクはおずおずと頷いた。


「決まりね! じゃあ、行こうよ!」


ルーソに手を引かれて、ボクは引っ張られるように部屋の外へ出て行く。その後をウィルは呆れたまま着いて行った。孤児院を出るまで、ボクは一つのことだけが頭に引っかかっていた。それは、部屋を出るまで、マーテル院長が終始険しい顔をしていたことだ。


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