第36話 王妃様の菜園革命と、土の香りのハーブティー
アストリア王宮での初めての夫婦喧嘩(という名の、主にレオニード陛下の悲惨なタルト作り体験)も、なんとか甘く(そして少し焦げ臭く)解決し、私たちの絆はまた一段と深まった…はずだった。しかし、王妃としての私の日常は、依然として「心得帳」との睨み合いと、カサンドラ女官長の鋭い視線(最近、私の手作りクッキーのおかげでほんの少しだけ和らいだ気もするが、油断は禁物だ)との静かなる戦いの連続だった。
そんなある日、王宮の豪華絢爛な食事に舌鼓を打ちながらも、私はふと、ある小さな不満を覚えていた。
「確かに、アストリアの宮廷料理は世界中の珍しい食材が使われていて、目にも舌にも素晴らしいですけれど…なんだか、食材さんたちのお顔が見えないのよねぇ。もっとこう、土の匂いがして、太陽の光をいっぱい浴びて育った、元気いっぱいの野菜やハーブたちと、直接お近づきになりたいものですわ…」
私のその何気ない呟きを、聞き逃さなかった男がいた。そう、我が愛する夫、レオニード国王陛下である。
「食材の顔が見たい? それは面白い! よろしい、マティルド! 王宮の庭の隅に、使われていない古い区画があったはずだ。そこを君専用の畑にして、好きなだけ土と戯れるが良い!」
…陛下、その言い方だと、まるで私が土いじり大好き農耕民族みたいに聞こえますけど。まあ、あながち間違ってはいないかもしれないけれど。
こうして、私の新たな野望――もとい、アストリア王宮における次なる「ゆるふわスイーツ革命」の舞台は、王宮の庭園の一角に決定した。目指すは、「王妃様のわくわくハーブ&フルーツ体験農園(フローラが聞いたら絶対もっとすごい名前をつけそう)」の設立だ!
もちろん、この前代未聞の計画に、王宮の貴族たちからは「王妃陛下が泥まみれで土いじりなど、はしたないにも程がある!」「ディルフィアの田舎じみたお考えを、アストリアの聖域に持ち込むとは何事か!」と、それはもう案の定、冷ややかな陰口と反対意見の嵐。しかし、レオニード陛下が「王妃のやることに口出しする者は、私が許さん!(主にマティルドが楽しそうだから、という理由で)」と鶴の一声を発したため、計画は強引に(でも、にこやかに)進められることになった。
そして、この計画を聞きつけたディルフィアの嵐…もとい、フローラ工房長が、黙っているはずもなかった。
「マティルド様! なんて素晴らしいアイデアなんですか! さすがです! あたし、ディルフィアから秘伝の完熟堆肥(匂いは少々個性的ですが、効果は絶大ですよ!)と、うちの工房で品種改良した『七色に輝くミラクルベリー』の苗を、山ほど持ってきましたからね!」
数日後、フローラは本当に山のような種や苗、そして何やら怪しげな匂いを放つ袋(秘伝の堆肥らしい)を抱えて、アストリア王宮に颯爽と(そして、ちょっとだけ周囲に引かれながら)やってきた。アルト様も、ディルフィア宰相として「両国の農業技術交流及び、アストリア王室への友好の証として、ディルフィアの優れた種子を献上する」という、もっともらしい公式任務を帯びて、渋々(でも、マティルドのことは心配だから)同行してきた。
こうして、アストリア王妃、ディルフィア工房長、そしてなぜか手伝わされることになった数名の侍女たち(最初は遠巻きに見ていたが、マティルドの楽しそうな姿に引き寄せられた)による、「王宮菜園開墾プロジェクト」が始まったのだ!
私は、ディルフィアから持参したお気に入りの作業用エプロンをきりりと締め、スコップと鍬を手に、荒れ果てた土壌と格闘。レオニード陛下も「私も手伝うぞ、マティルド!」と勇んで参加してくれたのだが…鍬の使い方が分からず、自分の長靴の先を思いっきり打ち付けそうになったり、土の中から出てきた小さなミミズを見て「ぎゃー!怪物が現れたぞ!」と大騒ぎしたりと、もっぱら足手まとい…いえ、場を和ませるムードメーカーとして活躍してくれた。
フローラは、さすがディルフィアの土で育っただけあって(?)、その農業知識(というより、野生の勘)と有り余る体力で、みるみるうちに荒れ地を耕し、畝を作り、種を蒔いていく。「マティルド様、このベリーの苗には、毎朝ディルフィアの恋歌を歌ってあげると、甘くて大きな実がなるんですよ!」「このハーブは、満月の夜に植えると香りが三倍になるんです!」などと、独自の農法(おまじない?)を侍女たちに熱心に指導している。その効果のほどは、今のところ不明だ。
侍女たちも、最初は「王妃陛下が泥だらけに…」「私たちまで土仕事なんて…」と戸惑っていたが、マティルドが汗を流しながらも本当に楽しそうに土と戯れる姿や、フローラの底抜けの明るさに触れるうちに、次第に心を開いていった。普段の堅苦しい王宮での仕事では決して見せないような、生き生きとした笑顔で土に触れ、種を蒔き、水をやる。中には、代々庭師の家系だったという侍女が、意外な造園の才能を発揮し、ハーブ園のデザインに素晴らしいアイデアを出してくれたりもした。
その様子を、アルト様は木陰から(もちろん日傘と冷たいお茶は欠かさない)苦虫を噛み潰したような顔で眺めていた。
「…王妃陛下が、公務の合間に泥まみれで畑仕事に勤しむなど、アストリアの歴史上、前代未聞の事態ですな。これが外交儀礼上のご公務にどのような影響を与えるのか…そして、あのフローラ工房長が持ち込んだ『秘伝の堆肥』の成分分析結果と、アストリア王宮の土壌汚染のリスクに関する緊急報告書を、至急作成せねば…」
彼の胃痛は、もはやアストリアの風物詩になりつつある。
一方、カサンドラ女官長は、「王宮の庭園の美観が損なわれる!」と、当初は計画に猛反対していた。しかし、日に日に緑豊かになっていくハーブ園から漂う、ミントやカモミール、レモンバームの清々しい香りに、毎日こっそりと深呼吸をしに来ている姿を、フローラが目撃したらしい。「女官長様も、本当はハーブの香り、お好きなんですねー?」とフローラが無邪気に話しかけると、カサンドラ女官長は「わ、わたくしはただ、王宮内の空気の質をチェックしているだけですわ!」と、顔を真っ赤にして逃げるように去っていったという。…ふふ、女官長、可愛いところもあるじゃないの。
数週間後、私たちの小さな菜園では、ハーブたちが青々と茂り、イチゴやラズベリーが宝石のように可愛らしい実をつけ始めた。私は、初収穫したばかりのフレッシュなミントとレモンバームでハーブティーを淹れ、菜園作りに参加してくれた皆で、ささやかな「収穫祭お茶会」を開いた。
その素朴で、太陽の香りがするハーブティーは、どんな高級な茶葉よりも美味しく感じられた。そして、いつも不機嫌そうな顔ばかりしていた侍従長(カサンドラ女官長と並ぶ、王宮のもう一人の堅物だ)が、そのハーブティーを一口飲むなり、「…こ、これは…なかなか…心が洗われるような、清々しい味わいだ…」と、生まれて初めて微笑んだ(かもしれない)という、小さな、しかし歴史的な奇跡まで起こったのだ!
マティルドの「王宮菜園プロジェクト」は、確実に、アストリア王宮の人々の心に、小さな、しかし温かい変化の種を蒔き始めていた。土に触れ、作物を育てる喜び。そして、それを皆で分かち合う、何気ないけれど幸せな時間。
堅苦しい王宮の片隅に生まれた緑の楽園は、これから一体どんな「美味しい実り」を、私たちにもたらしてくれるのだろうか?
カサンドラ女官長の私室の窓辺に、いつの間にか小さな、本当に小さなローズマリーの鉢植えがちょこんと置かれていたのは、きっと気のせいではないだろうと、私は密かに微笑むのだった。
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