第27話 焼きリンゴ外交と、氷の王女の涙
アルト様の(主に胃に多大な犠牲を強いた)外交努力と、フローラの(主に井戸端会議レベルの)情報収集能力によって、私たちはアストリア王宮における最大の障壁(であり、今回の恋敵でもある)イザベラ王女に関する、極めて重要な情報を手に入れた。それは、「彼女は素朴な焼きリンゴに目がない」という、なんとも可愛らしい弱点(?)だった。
「よし、決めたわ! イザベラ王女に、私の特製『ディルフィア風・秘密のハニーグレイズ焼きリンゴ』を届けるのよ! きっと、何か突破口が見えるはず!」
私の「焼きリンゴ外交」宣言に、フローラは「さすがマティルド様! どんな難攻不落の美人だって、美味しいものの前では無力ですもんね!」と目を輝かせ、アルト様は「…イザベラ王女が、果たしてそのような庶民的な菓子に興味を示されるかどうかは未知数ですが、試してみる価値はあるかもしれませんな。ただし、毒味役は私が…」と、どこまでも慎重(というか過保護)だ。
翌日、私は心を込めて焼き上げた、熱々の焼きリンゴを銀のトレイに乗せ、イザベラ王女の豪華絢爛な私室の扉を叩いた。…というか、まずその扉の装飾(純金製のバラと、なぜか威嚇するユニコーンの彫刻)に圧倒された。私の工房の木の扉とは、素材からして違いすぎるわ。
「あら、ディルフィアのマティルド様ではございませんか。このような奥まったわたくしの部屋に、一体何の御用かしら? わたくし、今、大変に取り込んでおりますのだけれど」
侍女越しに聞こえてきたイザベラ王女の声は、相変わらず氷のように冷たく、そして完璧なまでに無感情だ。しかし、その声の奥から、焼きリンゴの甘く香ばしい匂いに気づいたのか、くんくん、と小さな鼻をひくつかせる音が微かに聞こえたのを、私の地獄耳(お菓子の焼き加減を聞き分けるために鍛えられた)は聞き逃さなかった!
「先日は舞踏会でご一緒させていただき、ありがとうございました、イザベラ王女殿下。これは、私の故郷ディルフィアのささやかなお菓子ですが、アストリアの素晴らしい蜂蜜も使わせていただきましたの。もしよろしければ、お口汚しに…」
私が、できる限りの淑女スマイルで焼きリンゴを差し出すと、侍女の背後からちらりと見えたイザベラ王女の眉が、ピクリと動いた。彼女は、値踏みするような鋭い視線で私と焼きリンゴを交互に見比べると、やれやれといった風情でため息をついた。
「…まあ、結構ですわ。わたくし、そのような庶民的なものは、あまり口にいたしませんので。それに、今は公務の書類に目を通しておりましてよ」
(あら、昨日の夜、侍女に「最近、故郷の焼きリンゴが無性に食べたいのだけれど、アストリアの菓子職人にはあの素朴な味は出せないのよね…」と愚痴っていたというフローラ情報はガセだったのかしら?)
私は、ここで引き下がる聖女スイーツ令嬢ではない。
「一口だけでも、お試しいただけませんか、王女殿下? この焼きリンゴには、心を込めて、アストリアとディルフィアの友好の願いも練り込んでみましたの。きっと、お気に召すかと思いますわ」
私が、ほんの少しだけトレイを彼女の方へ近づけると、シナモンと蜂蜜、そしてバターでキャラメリゼされたリンゴの魅惑的な香りが、ふわりと彼女の鼻先をくすぐった。
イザベラ王女は、しばし葛藤するように眉をひそめていたが、やがて抗いがたいその香りに負けたのか、小さな銀のフォークを手に取り、ほんの一口だけ、本当にほんの一口だけ、焼きリンゴを上品に口へと運んだ。
その瞬間だった。
彼女の完璧に整えられた、まるで氷の彫刻のようだった表情が、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、崩れたのだ。そして、その美しい瞳から、ぽろり、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「こ、これは…! なんという…懐かしい…優しい味だわ…」
嗚咽混じりの声。侍女たちも、まさかあのイザベラ様が…!と、目を丸くして固まっている。
「昔…わたくしがまだ幼かった頃…故郷エルドラードの乳母が、よく焼いてくれた焼きリンゴの味に…そっくり…」
イザベラ王女は、堰を切ったように自分の本心を語り始めた。政略の道具として、常に完璧な王女であることを強要され続けてきた苦しみ。本当は、アストリアの王太子妃の座など望んでいないこと。故郷エルドラードには、身分違いゆえに決して結ばれることのない、幼馴染の騎士への淡い恋心があること。そして、レオニード殿下にも、そして自分自身にも嘘をつき続けることへの、深い罪悪感…。
その涙は、氷の王女の仮面の下に隠されていた、一人の傷つきやすい少女の、ありのままの姿だった。
私は、イザベラ王女の震える手をそっと握りしめた。
「王女殿下…お辛かったでしょうね…。でも、そのお気持ちは、決して間違ってなどいませんわ。誰だって、自分の心に正直に生きたいと願うものですもの」
私の言葉と、焼きリンゴの温かい甘さが、イザベラ王女の凍りついていた心を、少しずつ、でも確実に溶かし始めていた。
「…でも、マティルド様。わたくしには、どうすることも…この運命から、逃れることなど…」
「いいえ、そんなことはありませんわ。諦めてしまったら、そこでおしまいです。まずは、ご自分の本当の気持ちに、正直になることから始めてみませんか? 小さな一歩でも、きっと何かが変わるはずですわ」
私が勇気づけるように微笑むと、イザベラ王女は、涙で濡れた瞳で私をじっと見つめ、そして、ふっと何か吹っ切れたような、力強い表情になった。
「マティルド様…あなたの言う通りかもしれないわ。…ありがとう。この焼きリンゴ、今まで食べたどんな豪華絢爛なお菓子よりも、ずっとずっと美味しかった…! もし、あの古狸…いえ、宰相閣下の言いなりになるしかないと思っていたわたくしに、何かできることがあるのなら…喜んで協力するわ! あの男の好きにはさせない!」
氷の王女の心に、小さな、しかし確かな炎が灯った瞬間だった。
なんと、一つの素朴な焼きリンゴが、敵対していた(はずの)王女との間に、奇妙な友情と、まさかの共闘関係を芽生えさせたのだ! これぞまさしく、「焼きリンゴ外交」の大勝利!
(フローラ! あなたのお手柄よ! そしてアルト様、これで宰相を追い詰めるための、とびきり新鮮な情報(イザベラ姫の内部告発)が手に入りますわよ!)
私の心の中で、ガッツポーズが止まらない。
そして、イザベラ姫の私室の扉の向こうでは、この予想外の展開を(おそらく盗聴器か何かで)察知したアルト様が、「…ふむ。焼きリンゴの戦略的有効性、恐るべし。今後の外交交渉における新たな一手として、ディルフィアの特産品リストに追加検討せねば…」と、真顔でメモを取っているに違いない。
アストリア王宮の甘くない戦いは、どうやら新たな局面へと突入したようだ。氷の王女という強力な(?)味方を得た私は、いよいよ宰相の陰謀の核心へと迫っていく! …もちろん、その道のりも、きっと美味しいお菓子と共にあるはずだわ!
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