セビリアン、インポッシブル!!

志乃原七海

第1話:殿下の宝刀、錆びつく

小説「セビリアン・インポッシブル!」


第一話:殿下の宝刀、錆びつく


「だからさ、民子さん。そこを何とか。ね? 孝行息子の一生のお願い!」

安っぽいプリントTシャツの襟元をだらしなく広げ、俺ことセビリアン(本名:鈴木一郎、35歳、輝かしいフリーター歴15年)は、仏壇の前に座る老婆――我が母、民子(75歳)――の痩せた肩に馴れ馴れしく手を置いた。


「一郎…もう本当に、ないんだよ」

民子は弱々しく首を振る。皺だらけの手が、古びたがま口財布を悲しげに撫でた。中身は、数百円の小銭と、スーパーのポイントカードくらいだろう。年金支給日はまだ遠い。食卓には昨日と同じ、申し訳程度の佃煮と冷や飯が並んでいる。


「またまたー。民子さんだって、へそくりとかあるでしょ? ほら、タンスの奥とかさ」

「そんなもの…」

「いいじゃん、ちょっとだけ! すぐ返すって! 今度のバイト代入ったら倍にして…」


いつもの口上だ。俺の「殿下の宝刀」――【貸してくれないか?】。これまで数々の友人、知人、そしてこの母から、有無を言わさず(あるいは言わせてから)金を引き出してきた魔法の言葉。返済? 何それ、美味しいの? 借りた時点で俺の勝ち。それがセビリアン・スタイル。


だが、今日の民子は違った。

「……一郎」

か細いが、妙に芯のある声だった。

「お前が前に『すぐ返す』って言ったお金、まだ一銭も返してもらってないよ。先々月、お父さんの三回忌で無理したお金も、あんたのスマホ代で消えたじゃないか」


チッ、覚えてやがったか。面倒くせぇ。

「あれは、その、だな…色々あってさ!」

「色々って、パチンコだろう?」

図星だった。民子の濁った目が、じっと俺を見ている。その目には、いつもの諦めとは違う、何か硬い光が宿っていた。


「…とにかく、金が必要なんだよ! マジで!」

声を荒らげた時、安物のスマホがけたたましく鳴った。画面には「佐々木(バイト)」の文字。うわ、最悪。


「…もしもし?」

『鈴木さんッ! てめぇ、いい加減にしろよ! 金! 金返せっつってんだよ!』

電話口から、佐々木健太の怒声が鼓膜を突き破らんばかりに響く。数ヶ月前、「母ちゃんが病気で…」と泣き落とし、あいつのなけなしの給料から3万円を「借りた」のだ。もちろん、返す気などサラサラない。


「うるせぇな、今金策中だって…」

『ふざけんな! もう待てねぇ! お前のクズっぷり、全部SNSにぶちまけてやったからな! 顔写真付きで! あんたが働いてるコンビニにも連絡してやったぜ! クビだ、クビ!』

「なっ…!?」


ブツリ、と通話が切れた。背筋に冷たい汗が流れる。SNS? バイト先に連絡? マジかよ…あの童顔、キレるとヤベェとは思ったが…。


途方に暮れていると、今度は部屋のドアが乱暴に叩かれた。

「一郎! いんだろ! 開けろや!」

聞き覚えのあるダミ声。日雇い仲間で、俺に妙なシノギを斡旋してくる"アニキ"だ。


恐る恐るドアを開けると、アニキはニヤニヤしながら立っていた。

「よぉ、セビリアン。例のブツ、しくじったらしいじゃねえか」

「いや、あれは事故っていうか…」

「言い訳はいいんだよ。おかげでこっちが大損害だ。ペナルティ、50万。明日までに用意しろ。できなきゃ…どうなるか、わかってんだろうな?」

アニキの目が笑っていない。その背後には、見るからにカタギじゃない男が二人、腕組みをして立っている。


50万…? 明日までに…?


頭が真っ白になった。民子にはもう頼れない。佐々木にSNSで拡散されたとなれば、他の友人・知人も完全にソッポを向くだろう。日雇いの金など、雀の涙だ。詰んだ。完全に詰んだ。


「……何か、方法はないんスか…アニキ…」

震える声で尋ねると、アニキは面白そうに口の端を上げた。

「まあ、お前みたいなクズにも、一つだけ道は残されてるかもな」

「道…?」

「ああ。この街にゃ、面白い金貸しがいる。"ゼロ"って呼ばれてる男だ。どんな奴にもビタ一文貸さねえって噂だが、まあ、お前の『殿下の宝刀』とやらで口説き落としてみろや。場所は…」


アニキは、古びた雑居ビルの名前と部屋番号を告げると、「健闘を祈るぜ、セビリアン」と肩を叩き、手下たちと去っていった。


ゼロ…? 絶対に貸さない金貸し…?

だが、他に道はない。50万。明日まで。尻に火が付くどころか、全身火だるまだ。


「…ふん、プロだろうが何だろうが同じだ。俺の『殿下の宝刀』の前ではな…!」

根拠のない自信を奮い立たせ、俺はなけなしの小銭を握りしめ、指定された雑居ビルへと向かった。借りるための嘘八丁、泣き落としのフルコース。完璧なシナリオが頭の中に渦巻いていた。


埃っぽい階段を上り、指定された部屋の前に立つ。「相良金融」と掠れたプレートが掛かっているだけだ。深呼吸一つ、ノックする。


「…どうぞ」

中から、低く、落ち着いた声がした。


ドアを開けると、そこは殺風景な事務所だった。パイプ椅子と、古いスチールデスクが一つ。そして、デスクの向こうに一人の男が座っていた。

年は…40代か、あるいはもっと若いか。痩身で、黒縁の眼鏡をかけ、よれよれのスーツを着ている。表情は能面のように平坦で、感情が読めない。こいつが「ゼロ」か。


「…あの、金をお借りしたく…」

俺はパイプ椅子に腰かけ、早速、練習してきた口上を述べ始めた。苦しい身の上、病気の母(これは半分本当だが)、確実な返済計画(もちろん大嘘)、将来の夢(そんなものはない)。涙声も交え、渾身の演技で訴えかけた。俺の「殿下の宝太郎」は、今日もキレッキレのはずだ。


一通り話し終え、反応を待つ。ゼロは黙って俺の話を聞いていたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。


「鈴木一郎さん、ですね」

声には抑揚がない。

「お母様は民子さん、75歳。年金暮らし。あなたは定職に就かず、お母様に依存。複数のご友人、元同僚からも借金を重ね、返済はほぼゼロ。先日も佐々木健太さんから3万円を借り、SNSでトラブルになっている。さらに、現在、反社会的なグループから50万円の支払いを要求されている…違いますか?」


「なっ…!?」

全身の血の気が引いた。なぜ、そこまで…!?


ゼロは表情を変えずに続ける。

「あなたの『殿下の宝刀』、実に興味深い。しかし、残念ながら私には通用しません」

彼はデスクの引き出しから一枚の紙を取り出した。俺の個人情報らしきものがびっしりと書かれている。


「当事務所の融資基準はただ一つ。『信用に値する人間であること』。鈴木さん、あなたは、その基準を全く満たしていない」

ゼロは、冷たい、ガラス玉のような目で俺を真っ直ぐに見据えた。


「よって、あなたに貸せる金は、1円たりともありません。お引き取りください」


きっぱりとした、絶対的な拒絶。

俺の「殿下の宝刀」が、音を立てて砕け散った気がした。

目の前の男は、壁だ。それも、絶対に乗り越えられない、絶望的な高さの壁。


インポッシブルだ。


追い詰められた焦燥感と、初めて味わう完全な敗北感。

50万、明日まで。

俺は、この絶望的な状況を、どう切り抜ければいいんだ…?


(第一話 了)

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