第5話:夜勤明けの約束、そして衝動

小説「and.you」


第五話:夜勤明けの約束、そして衝動


朝比奈刑事の夜勤明けの疲労が見て取れるのに、私に付き添ってくれていることが、申し訳なく、そして同時に嬉しかった。彼女は、私の事情聴取が終わった後も、すぐに立ち去ろうとはしなかった。


「病院側の手続きもあるし、少しここで待機かな」


そう言って、彼女は私のベッドの傍に座ってくれた。時折、短い連絡を無線で入れたり、スマートフォンをチェックしたりしていたが、基本的には私に気を配ってくれているのが分かった。


「あの…本当にありがとうございます」


私は、改めて礼を言った。彼女がいなければ、私はどうなっていただろう。あの海岸線で、次に何が起こっていたかわからない。


「気にしないで。それが私たちの仕事だから」


そう言いながらも、彼女の表情は優しかった。


「でも…カツ丼、本当に食べたいんですね?」


朝比奈刑事が、ふと思い出したように言った。


「あ、はい…なんか、すごく…」また顔が熱くなる。


「分かった」朝比奈刑事は頷いた。「退院したら、私が奢るよ。美味しいカツ丼屋さん、知ってるから」


「えっ…いいんですか?」


思わぬ申し出に、私は目を丸くした。事件の担当刑事である彼女が、私個人と、しかも退院後に食事に行くなんて。公務と私的な関係が混ざり合うような提案に、少し戸惑いがあった。


「いいの。その時は、刑事としてじゃなくて、一人の人間として。あ、でも、あんまり遅くなると私も寝ちゃうかもしれないけど」


最後に付け加えられた言葉に、またしても彼女の人間的な隙が見え隠れして、私は少し笑ってしまった。


「あの…でも、どうやって…?」


退院したとしても、どうやって彼女に連絡を取ればいいのだろうか。


朝比奈刑事は、私の言葉を聞いて、少し考えてから、スーツのポケットから名刺入れを取り出した。そして、そこから一枚の名刺を抜き取ると、ペンで何かを書き込み始めた。


彼女が書き終えた名刺を、私に手渡す。そこには、所属部署と名前、警察署の連絡先の他に、黒いペンで**「090-△△△△-□□□□」**と、手書きの携帯電話番号が追記されていた。


「これ、私の私用携帯。何かあったら、これに連絡して」


私用携帯の番号。しかも手書きで。それは、公的な関係を超えた、明確な個人的な繋がりの始まりだった。胸が、ドクンと大きく鳴った。


「あ…ありがとうございます…」


私は名刺を握りしめた。温かい。彼女の体温が移っているみたいだ。


朝比奈刑事は、そんな私を見て、少し微笑んだ後、何かを躊躇うように、少しだけ視線を彷徨わせた。


「あのさ…田中さん」


「はい」


「別に、今、答えを出さなくてもいいんだけど…」彼女は少し言葉を選んでいるようだった。「どうして、私に…その…『カツ丼』って言ったのかなって…」


カツ丼の理由? そんな深い意味はなかったはずだ。衝動的に、お腹が空いて、頭に浮かんだ言葉だっただけなのに。でも、彼女の真剣な眼差しに、私は何か、もっと正直なことを言うべきなのかもしれない、と感じた。


何だろう。朝比奈刑事を見ていて、私はどんな感情を抱いているのだろう? 感謝。安心。信頼。そして…


「…あの…その…」


言葉を探すが、上手く出てこない。朝比奈刑事の、静かに私を見つめる瞳。優しくて、強くて、少し疲れていて…その中に、妹への思いのような、何か切ないものも感じて…でも、それだけじゃない、私に向けられている、特別な何かを感じて…


胸の中が、今まで感じたことのない感情でいっぱいになっていく。事件の恐怖とは違う、でも同じくらい心臓を締め付けるような感覚。


それは、もしかしたら…


「私…あの…女性が好きなんです」


衝動的に、言葉が口から滑り落ちた。言うつもりは、全くなかったのに。


言ってしまった。一番言ってはいけないことだったかもしれない。だって、目の前の人は刑事さんだ。しかも、私の命を救ってくれた人。こんな、公的な状況で、そんな個人的な、しかもマイノリティに関わることを、なぜ言ってしまったんだ?


パニックが襲ってきた。顔がカーッと熱くなり、心臓が今にも口から飛び出しそうなくらい早く打つ。朝比奈刑事は、どんな反応をするだろう? 軽蔑される? 気持ち悪がられる? それとも、困惑される?


朝比奈刑事は、私の唐突で、しかし必死な告白を聞いて、一瞬、本当に一瞬だけ、驚いたような表情を見せた。しかし、それはすぐに、柔らかい、慈愛に満ちた微笑みに変わった。


そして、彼女は静かに、しかし確固とした声で、私にとって世界で一番嬉しい、そして混乱する言葉を言った。


「うん!大丈夫!」


その言葉と共に、彼女は私の目を見て、ゆっくりと、しかしはっきりと、右の目でウィンクした。


え…? 大丈夫…? ウィンク…?


私の頭の中は、完全に混乱の渦に巻き込まれた。カツ丼の謎が、セクシュアリティのカミングアウトに繋がり、そして「大丈夫」という言葉とウィンクで締めくくられた。この人は一体…?


朝比奈葵という人は、私が想像していたどんな人とも違う。彼女の優しさ、包容力、そして、この予測不能な反応。


私の混乱をよそに、朝比奈刑事は再び静かに微笑んだ。その表情には、優しさだけでなく、何か深いものを秘めているように見えた。


私の人生は、あの夜から、全く違う方向へ転がり始めている。絶望の淵から生還した先で、私はこの朝比奈葵という刑事に出会った。そして今、この「大丈夫」という言葉と、秘密めいたウィンクによって、さらに予測不能な道へと誘われている。


それは、私が初めて経験する、戸惑いと、そして、かすかな期待に満ちた、夜明けの予感だった。


(第五話 終わり)

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