与えられた能力
私はコミュニケーションにおいて問題を抱えている。細かいことはほかの拙作に譲るとして、人間関係を築くことに難があることは事実だ。病名が付けばすっきりするような気もするのだが、病名はつかない。
それじゃ、ただの性格の悪いヤツではないか、と訴えたら
「性格に良いも悪いもないです」
それは綺麗ごとですよね?
という事情もあるので、以下の文章において、差別するような意図は全くないことをあらかじめ申し上げておきます。不愉快な思いをされましたら申し訳ありません。
「はじめにナマコを食べようと思った人間って、勇気あったよな」
ずいぶん昔に、先輩が言った一言がずっと離れない。
人間はさまざまなものを食べる。フグやキノコなど、毒のあるものも食べる。きっと初めは果実を食べていたであろう遠い祖先が、なぜ、動物の肉魚を食するようになったのだろう。
ほかの動物が食べていたから。
一言で表現すればそういうことだろう。でも、誰が初めに口に入れたのだろう。
それは、多分ほかの個体よりも怖れることを知らない誰かだったのではないか。興味を持てば実際に行動に移してしまう、そういう誰かだったのではないか。それは生死をかけたギャンブルだったかもしれないけれど、飢えがその行動の後押しをしたのではないだろうか。
フグのように、毒のある部分とそうでない部分の区別は、経験則によるものだっただろう。その経験則を得るために、じっと観察を続けていた誰かがいたのではないか。同じものを食べたのに、なぜ死ぬものとそうでないものがいるのだろうか、と冷たく見続けた誰か。もしかしたら、少しだけ口に入れてみる、そんな危険を冒したかもしれない誰か。
思いついて行動するもの、ずっと観察し続けるもの。
たとえば道具にしても。大きな岩を崖から落として砕き、手ごろな大きさにした誰かがいたかもしれない。それを見て、どの岩なら加工しやすいのかずっと試していた誰かがいたかもしれない。
海を渡るにしても。流木につかまって浮くことを確認した誰かがいたかもしれない。どのくらいのサイズで1個体を浮かばせることができるのか観察していた誰かがいたかもしれない。どのような形なら長く浮くのか試した誰かがいたかもしれない。
彼らがほかの仲間たちと同じだったら、何か変わってきたことがあっただろうか。穏やかな、安定した変わらぬ生活を続けていくことは出来ただろう。しかし、超えることのできない飢餓によって滅んだかもしれない。ここまで生存圏を広げることは出来ていなかったかもしれない。
彼らはその特性を発揮することで種へ貢献してきたのではないか。その特性を発揮するには、その他大勢に備わった能力が邪魔だったのではないか。いま、私たちが困ったものとして扱っている個性、それは私たちの繁栄に必要なものではなかったか。
現在、100人のうち1人が発達障害であると言われている。
その遺伝子は、必要だからこそ伝えられているのではないだろうか。
発達障害を有しているとされる人たちの中に、天才的な能力を併せ持っている人が多いことは知られたことだと思う。
私たちが出る杭として打っているのは、発展のためのキーパーソンの可能性はないだろうか。
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