第38話 看病と襲撃

 ひさしぶりに入った夫婦の寝室で、夫が額に玉の汗を浮かべ、苦悶の声を上げて、悪魔の腕の中で眠るのを眺めている。


 医者は生きるとも死ぬとも言い切れないと話した。今夜がとうげなのだ、と。私はひたすら祈った。死なないように、彼が再び元気に歩けるように。もう一度、私に口を聞いてくれたなら何もいらない、と思う。


 酒場のあの部屋のことを思い出す。物が散乱していた。壊れた扉。枕が引き裂かれ、白い羽毛が舞っている。むき出しの木の床にはウォルター・クラインが転がって痙攣していた。脇腹をおさえ、血に濡れた手をこちらに伸ばしている。床にみるみる赤黒い血が広がっていった。彼が私の手をつかもうとしている。何か喋ろうと口を開いたが、かわりに血を吐き出すだけだ。


「ダリア……」

 そう言ったきり動かない。濃いブルーの瞳はもはや、どこも見ていなかった。


 死の女神は無慈悲だ。ポールの命だってあんな風に簡単に奪ってしまうかもしれない。黄泉よみの国でダンスの相手がほしいだけに、ポールを私の手から奪ってしまうかもしれない。

 ぼろぼろと涙がこぼれた。


「キャシー……」

 不意に彼の色のない唇が動いた。


 空色の目が私を不思議そうに見つめている。私は涙でぐちゃぐちゃの顔で笑った。手と手を握り合って……


「キャシー、あいつは、あいつとは……」

 ポールがかすれた声で言った。


「ウォルター・クラインはダリアの愛人よ。死んだわ」

 静かに言う。


「あいつとは寝ていないな?」


「寝ていないわ」

 私はキッパリと言い切った。それは本当のことだった。


 ポールが安堵の表情を浮かべて微笑む。


 私はもうすでに彼のすべてを許していた。ダリアのことも、良い父親でなかったことも、良い夫でなかったことも。そんなのは些細ささいなこと。彼は生きていて、私のそばにいてくれる。



 一週間後にはポールもすっかり回復して乗馬をするまでになっていた。私は夫婦の寝室のベッドの上に本を広げて、ハンナとマックスと共にポールの帰りを待っている。


 扉が開いた。子どもたちがぴょんと起き上がる。ハンナがクスクスと笑ったかと思うと、かたまった。


 ダリアがナイフを持って立っていたのだ。顔は泥で汚れ、上衣は着ずにコルセットや白い胸を隠そうともせずに。咄嗟にマックスとハンナを後ろにひっこめる。ありったけの意志をこめてダリアをにらんだ。


 恐ろしい顔をしていた。殺意に目を光らせて、子どもたちのことなど気にもかけていない。彼らが自分で産んだ子だということも忘れていた。


「ウォルターを殺したわね。私の最愛の人を殺したわね……」

 ダリアが叫んでいる。


 まるで地獄の底から聞こえてくるような声だ。背筋の凍るような怨念。


「殺してないわ。本当よ。あれは事故だったの……」


「泥棒猫!」

 ダリアが襲いかかってきた。


 私は悲鳴をあげて目をつぶる。体の重みでそのまま倒れた。カーペットのごわごわした感触。子どもたちの泣き声。ダリアがあえぐ声。


 恐る恐る目を開けた。温かい血が手についた。


 ダリアが血を流しながら弱々しく泣いている。ポールが血みどろのナイフを持ってそこに立っていた。


 彼がダリアを殺してしまったのだ。私たちはただそこに突っ立っていた。たった今起こってしまったことの意味も理解できずに、お互いを見つめている。



 殺人はいつまでも隠しておくことはできない。私たちは裁きを求めてウォルター・クラインとダリアの死をクラリッサに手紙で知らせた。

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