第29話 殺さなければならない

 昨日は安堵あんどと共にあんなに幸せな気持ちで眠りについたのに、今朝起きると押し寄せる不安に胸が押しつぶされそうだった。


 ポールは今なら「それ」を中断することもできると言う。腕のいい産婆がいるのだ。不確実で、母体を傷つけるようなとても危険な方法だけれど、選択肢の一つとして考えておくべきだから……


 私は堕胎することについて、自分自身の体に宿る命を奪うことについて考える。


 医者に診てもらっても、これは間違いなく妊娠ですね、と言われるだけ。困り果てて、ポールと共に長椅子に座るのだ。


堕胎だたいなんてできないわ」

 ようやく弱々しい声で言った。


 自らの子どもを傷つけるなんて、その命を奪うなんて、私にはできないことだった。


「子どもを産むんだね。わかったよ」


 ポールはそれっきり黙り込んでしまう。


 でも不思議なことだった。ポールと結婚する前から、それに結婚した後も、子どもを望んだことはなかったのに。こうして彼が子どもを産むことに賛成してくれたのに心底安心している。それは結局、私の体を侵略する異物だというのに。私から時間と自由と可能性を奪う見知らぬ存在だというのに。



 私はその晩、ポールがギルバートに話した内容を知るよしもなかった。


 二人の男は離れの瓦礫がれきの積み上がった部屋の中で向き合っていた。沈黙にうつむく。雪と風が背中に吹きつけていた。修繕はまだ途中で、壁の半分が崩れたままなのだ。


「キャサリンが妊娠した」

 ポールが切り出す。


 ギルバートが顔を上げて、ちらりと友人の顔を観察した。無表情だ。感情が読めない。


「わかるだろ。子どもの父親はウォルター・クラインの可能性もある……」

 苦々しげな声。


「確かなのか」

 ギルバートが訊ねる。


「確かだ。医者が言った」

 ポールが顔を背けて言った。


「大変なことになったな」


 再び沈黙。

 ポールは蒼ざめた目でどこまでも続く雪景色や森林を眺めている。風が吹いてビュービューと鳴った。彼の顔に焦燥にも似たものが浮かぶ。


「キャシーは、あいつは、赤ん坊を産みたいらしい。俺も反対はしていない」


「平穏よりも母親として本能を優先したわけか……」


 ギルバートはキャサリン・アッシャーに起こったことを本当に気の毒に思っていた。だが、堕胎を選ばなかったことは理解できない。もし赤ん坊が陵辱のすえに生まれてきた子なら、これから十年、二十年の屈辱、拷問が待っているのだ。キャサリンにはウォルター・クラインの子どものために、自分を犯した男の子どものために、それだけの屈辱に耐える覚悟があるのだろうか。果たしてそれだけの価値があるのだろうか。


「ウォルター・クラインは赤ん坊が産まれる前に死ななければならない」

 ポールが言った。


 病的な目をしている。地下の住人のように。殺人鬼のように。


「奴を殺すつもりなのか?」

 ギルバートは驚きはしなかった。でも、男同士で命を奪うとなったら、もうお遊びではないのだ……


「あいつを生かしておいて、妻をはらませたなどと言わせるつもりはない。キャサリンの名誉のためなんだ。国中であいつがどんなふうに言われているか知ってるだろう?

 実際にどっちが子どもの父親かっていうことは重要じゃない。もしあいつが死んでれば……」


 ギルバートはふっと冷淡な考えが浮かんだ。キャサリンが他の男に犯されてから初めて本気で愛すとはこいつも変わった男だ、と。

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