RED
藤原侑希
1章 夜と霧
本物の暗闇は夜の漆黒ではなく、ひたすら白く本の先も見えない。
本物は月の無い暗い夜よりも、何も見えない白い霧の事だと考えながら車窓から霧をを眺めていた。
それにしても走り出た直後なのに、もう気持ち悪くなってきた。原因は分かっている。車内に染み付いたタバコと酒と土臭いカビの匂いだ。
母の乱暴な運転もそれに輪を掛けている。運転はアクセルペダルとブレーキペダルの踏み方が荒く、いつも頭が前後に勢いよく揺すられる。
対照的に父の運転は忙しなく小刻みにステアリングを左右に動かすので車が真っ直ぐ走らず、常に頭がゆらゆら左右に揺すられる。
どちらが運転しても肘で這っていた頃から乗せられる度にさっさと降りたかった。
母はいつもイライラしていて怒鳴るか、早く早くしか言わない。そんな様子しか物心付いた頃から見た事がない。
今朝も早く起きろから始まって運転している今も、変わらずどうでもいい内容の小言を延々と言っている。
父は車を運転するとすぐに喫煙する。その上、1日中隙あらばいつも大量に飲酒する。飲酒運転も平気だ。
この車を購入した時も、母と散々揉めた挙句、本当に欲しい車ではなく金額だけで選択した。
望まない車を大切に扱おうとする気持ちは全くなかった。支払額を下げたい一心で誰も買わないエアコンもオーディオも付いていない、今時珍しいマニュアルトランスミッション車に不満顔で嫌々乗っている。
父の選ぶ物は何もかも洗練されていない。
車内はすぐにタバコ臭と毎日前日の酒が残っているので酒臭くなり、その上エアコンが無く湿気がこもるのでカビ臭くなった。
それらの匂いが入り混じってたちまち酷い匂いに変わった。
毎日飲酒運転が当たり前で納車されると、直に近所の橋の橋桁に突っ込んで全損並の事故を起こした。それでも飲酒も飲酒運転も止めなかった。
それどころか怪我をしなかったのは運転が上手いからだと言い放った。
どれほど汚れても決して車内を掃除も洗車することもなく、見かねた母が洗車すると、『皮肉か、どうせ安い車しか買えないのだから手入れなんてする必要はない』と言って残っている酒の勢いで散々絡んだ。
「そんなに嫌なら
もっとお金を貯めてから
本当に欲しい車を選べば?」
と聞けば
「子供のくせに偉そう言うな!!
だいたいお前達がいるから買えないんだ!!
バカ小僧死ね。」
ベロベロに酔っ払いながら言い返された。
いつも些細なことでも気に入らなけれな躊躇なく暴力を振るった。
父も母も何故いつもイライラしていて、不満そうにしているのか子供の身には全く理解出来なかった。
今日は進学した公立中学校の入学式だ。臨時駐車場のグラウンドは2日前から降り続いている雨ですっかりぬかるんでいる。
過分に湿気を含んだ不快な空気が身体中に纏わりつく。学校指定のダサすぎる通学用の白い運動靴は、ほんの数歩歩いただけで泥で茶色く染まり中まで水が染み込んだ。靴の中からぐちゃぐちゃと嫌な音が出る。
何よりも我慢ならないのは学生服だ。こんな物、着たくない。小学校の同級生達はカッコイイと嬉しそうに着ているが全く理解出来無い。
ダサさの極み………。見るだけでうんざりする。
みんな母親の体内に美的センスを捨てて来たのだろうか??
だいたい教師達や親達、それにこんな物を子供に着せる事を決められるエライおじさん達、おばさん達は学生服は旧陸軍由来(旧日本陸軍は旧ドイツ陸軍のコピーが始まり)、セーラー服は旧海軍由来(余っていた水兵の制服を孤児達に着せたことが始まり)だと知っているのだろうか?
平和が大切だ、戦争反対といつも大袈裟に言っているくせに、子供にレプリカ軍服を強制的に着せて喜んでいる事に自己矛盾を感じないのか?
歴史の授業は全部寝ていたのか??
それともおめでたいヒョウロクダマか???
だいたい、ヨーロッパで2回、アジアで1回、合計3回もボロ負けした間抜けな軍隊の制服、敗者の象徴がどう考えてもカッコいいなんて事はどう考えてもないだろう。
無知の極みか……… 。
傘をさしていても無理やり坊主頭に刈られてしまった頭に雨粒が勢いよく当たる。
納得できる説明は無く決まりだから。そう言う事になっているからと、まるで髪を刑務所や収容所や捕虜収容所に囚われの虜囚の様に、坊主頭にする事を強制された。
僧侶になったつもりも、野球奴隷の高校野球選手になったつもりもなく、増してや田舎の間抜けな軍隊に徴兵された訳でもなく、大人の都合で地元の中学校に進学させられただけのはずなのだけれど………。
困惑し混乱する。
美容室に行くたびに綺麗な髪だと褒めてもらえた、気に入っていた少年としては長めの髪は昨日無残にもバリカンで刈り取られてしまった。
嫌がってギリギリまで散々抵抗したが、母の泣き落としと、父の『中学校の言う通りにしないと高校に進学出来なくさせられる。3年間だけ我慢しろ。』と、しつこい説得と脅迫されて渋々従った。
鏡に写る自分の姿は、この世界にある全ての言葉を費やしても表現出来ない程の悲しさと悔しさを溢れさせていた。
保護者用の入口とは別の前もって指定されていた玄関に入り、僅かに歩いただけでずぶ濡れになった靴を与えられた出席番号順に割り振られた下駄箱の入れる。
学校指定の紺色の安っぽい、しょぼいナイロン製ナップサックから上履きを取り出して履き替える。濡れた体と制服をタオルを取り出して拭く。
寝癖のようなおかしなパーマ頭で、霧雨の日なのに薄い茶色のサングラスを掛けた、黒いスーツを着た年嵩の男と、同じように黒いスーツを着たニヤけた顔の長身の若い男が横柄な態度で入学式を行う体育館へ誘導している。
どちらも洗練って何??って感じだ。何故コイツらこんな態度で偉そうなんだ???
2人組に言われるままに1階の廊下を歩いて行くと、担任だと名乗るハンプティーダンプティーの出来損ないのような男と、彼よりも年上で水木しげるの漫画に出てくるキャラクターにそっくりな出っ歯で禿げて眼鏡を掛けたこれまた小太りの男が現れた。
さっきの横柄な2人組同様に黒いスーツを着ている。去年行った親戚の葬式を思い出した。
自分に割り振られたクラスは2組だった。3校の小学校から生徒を集めているのに2クラスしかない。
ハンプティーダンプティーが担任で、禿げ眼鏡が隣のクラス1組の担任だと判明する。
あいうえお順に名前を呼ばれ、体育館と校舎を繋ぐ屋根だけの渡り廊下で男女2列に並ぶように指示される。霧雨が容赦なく吹き込んでくる。
別の小学校から入学した取り立てて特徴がない井上と呼ばれた知らない女の子が隣に並んだ。
辺りを興味深く、ぐるっと見回すと周りに並んでいるのは別の小学校から来た見慣れない顔ばかりだ。
誰も彼もが見慣れない顔、着なれない制服不慣れな環境、そして何より悪天候に落ち着かない。
たまたま同じ小学校から来た者と近くに並べた連中がざわざわと話をしている。
体育館の中からは設備が古いからなのか、
ボリュームを上げ過ぎだからのかは定かではないが、割れた音の声が聞こえる。何を話しているのか、どう耳を澄ましても聞き取れない。どうせ内容の無い御大層なオハナシなんだろうと思う。
精々、10年と少ししか生きていないが、何時も、どこのガッコウでも、どのセンセイでも、何故内容の無いオハナシをさも御大層に話すのだろうか??
きっと大学では内容の無い話を御大層に話す為の話し方クラスが必修なのだろう。
整列し終わりスピーカーから聞こえていた意味不明な割れた声が止まると、禿げ眼鏡を先頭に1組から入場し始めた。
ハンプティーダンプティーを先頭に2組が続く。
不幸なことに苗字が「あ」から始まるので井上と並んで、ハンプティーダンプティーに続いてクラスの先頭で入場しなければならない。
入口の手前で指示するまで待つ様にハンプティーダンプティーから告げられる。
入口にはアーチ状に
『努力は将来への道』とスローガンが掲げられていた。
気付いた、
何処かで、
何かで
確かにこのスローガンを見た事がある。
読んだ事がある。
知っている。
スローガンを見上げていたら後の知らない顔が背中にぶつかった。
それでもスローガンが何だったの思い出せない。
相変わらず気持ちは悪く、濡れた靴下や制服、身にまとわりつく湿気が不快さを積み上げて行く。寒さも感じる。
ハンプティーダンプティーが体育館内から入場するように合図を受けたらしく
「2組はこれから入場開始。」
「遅れない様に〜〜〜〜。」
と、今日から自分の受け持ちクラスに人の良さそうな声をかける。見た目と声が正比例なのが面白い。
ハンプティーダンプティーに続いて、井上と並んでそれぞれ男女並列の先頭で体育館内を行進する。
投げやりな感じの拍手を在校生が鳴らしている。
中央を行進用通路に空けて、どっちが2年生なのか3年生なのか判らないし、興味もないが、それぞれの島に分かれてパイプ椅子に座っている。
その島の後ろ側つまり入口側に父兄の席が割り振られたいた。来ているのは平日だから母親達だけだ。カメラで盛んに写真を撮る母親もいた。
さっきのニヤけた顔の長身の若い男も一眼レフを構えて盛んに入学式の様子を撮影している。
フラッシュが何度も何度もそこかしこから光る。
フラッシュに顔を焼かれる。何度目かの顔を焼く執拗なフラッシュの閃光で、あの入口に掲示されているスローガンを
何処で、
何時、
何で
見たのか突然いきなり思い出した。
去年の夏休みに読んだ本。ポーランドのビルケナウだ。
耐えられない吐き気が襲ってくる。吐き気に耐えられずにその場で嘔吐する。
もう立っていられない。
両手を床に付いて激しく嘔吐する。
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