6 見知らぬお方のお困りごとです!

 ドレスを着替えたシャーロットは、屋敷内の長い廊下を歩いていた。


 配膳台の朝食を平らげたあと、寝室の奥にある衣裳部屋を見付け、クローゼットから水色のドレスを選んだ。


 シャーロットの部屋に来てくれたメイドは、あれから戻ってきていない。

 結果として、ひとりで着替えることになったのだが、なかなかに貴重な経験だった。


(後ろ手に何度もリボンを結んで、上手くいかずに解いて。繰り返しのお陰で、随分と時間は掛かりましたけれど……)


 鼻歌を歌いたいくらいの心境で、ドレスの裾をくるりと翻してみる。


(なんとか自分で着られたドレス。そう思うと、とても愛着が湧きますね)


 前のシャーロットの好みなのだろうか。瞳と同じ水色で、柔らかな布を重ねたドレープは、海面にさざめく波のようだった。


(それにしても、随分と広いお屋敷です。私がひとりで歩いていても、オズヴァルトさまが怒ってお戻りになる気配はありませんが……)


 廊下を歩きながら、辺りを見回してみる。

 シャーロットが部屋を出たことが、オズヴァルトには伝わっていないのだろうか。あるいは、出たところで構わないと思われているのかもしれない。


(――オズヴァルトさまは、私が逃げられないように、なにか仕掛けをなさっているということですね)


 監視をしている、と告げられた。

 事実、先ほど過去の光景を見たときは、すぐさまオズヴァルトが現れたのだ。


(私は見張られ、閉じ込められ、監視されている。すべて、夫であるオズヴァルトさまの手によって。……そんなのは、あまりにも……)


 シャーロットは、ぎゅっと自分の胸を押さえた。


(あまりにも、どきどきしてしまうのですが………………!?)


 その喜びを、ひたひたに噛み締めてしまう。


(まるで、離れていても繋がっているかのよう! ひょっとして、なにか視覚的な魔術でご覧になっているのかしら。オズヴァルトさまー、ここです、こちらですー!)


 天井の適当な場所に当たりを付けて、ぶんぶんと手を振ってみる。


 あそこから見られているという根拠があるわけでもなく、ただの想像と感覚だったが、『オズヴァルトさまがいらっしゃるかもしれない』という希望を抱いて手を振るのはとても楽しかった。


(は……っ!? で、でも、待ってください。もしも私を見ていらっしゃるのなら、先ほどの着替えもばっちりご覧になったということでは!? だっ、駄目っ、いけませんそんなのは!! だだだ大丈夫ですよ、落ち着きましょう。オズヴァルトさまは私がお嫌いですし、私が脱いでいるところなんて見たくもないはず……!!)


 心の中で大騒ぎした結果、ぜえはあと息が切れてしまった。シャーロットがふうっと息をつくと、向こうで小さな悲鳴が聞こえる。

 廊下の先には、三人のメイドたちが立っているのだ。


「あ! こんにちは、みなさま」

「……っ!!」

「そちらにいるのは、先ほどのメイドさんですね。朝ごはんを運んでいただき、ありがとうござ……」


 シャーロットが言い切る前に、メイドたちは青ざめて走り去った。


(あららら……)


 我先にと足をもつれさせながら、ばたばたと慌ただしい足音が逃げてゆく。怖がらないでと伝えたいのだが、それを伝えるために近付いた時点で怯えさせてしまうようだ。


(何しろ私、聖女というより、邪神寄りの存在ですものね……)


 申し訳なくなり、しょんと萎れた。


(お屋敷の中をうろうろすると、また怯えさせてしまうかもしれません。そういえば先ほど、一階の探検中に、お庭に出られるテラスの前を通り掛かりましたね……)


 思い出し、テラスがあった方へと引き返す。

 木枠に硝子をはめ込んだ扉は、ドアノブに触れても大丈夫そうだ。シャーロットがそうっと扉を押し開けると、冷たい突風が吹き込んだ。


 髪もドレスもくちゃくちゃになる。一瞬だけ息さえ出来なくなるが、ぴりぴりとした冷気が心地良い。


(寒いという感覚が新鮮なのは、記憶を失くしているからでしょうか?)


 思わず身を丸めそうになるけれど、敢えて真っ直ぐに背筋を伸ばした。

 空は透き通った快晴だが、陽が差していてもなお寒い。屋敷の中が暖かいのは、なにか魔術が使われていたのだろう。


(ストールでも羽織ってくればよかったです。……でも、寒いのも楽しい)


 オズヴァルトが貸してくれた外套は、シャーロットの寝室に残してある。

 肌身離さずにいたかったが、あれは大切な借り物だ。着ていたいのをぐっと堪え、なんなら名残惜しさにちょっと泣きつつも、汚さないように置いて来た。


 中庭の木々は、そのほとんどが葉を落とし、冷たい風に枝を揺らしている。

 けれども足元の花壇には、色とりどりの花が咲き誇っていた。丹精込めて世話をされているのか、こんな寒い季節でも、花たちはとても元気なようだ。


 美しい花を眺めながら、芝生の中庭を歩いていく。生け垣で仕切られた向こう側を覗き込むと、その先には小さな湖が広がっていた。

 風がほとんどないためか、水面はすっかり凪いでおり、頭上の青空をくっきりと映し出している。


「綺麗……。まるで、大きな鏡のよう」


 すると、その独り言に返事が返ってくる。


「星空の綺麗な夜に来れば、もっと見事な光景が見られますぞ」

「わあ」


 びっくりして肩を跳ねさせたあと、シャーロットはそちらを見遣った。


 湖のほとりには、ひとりの老人が座り込んでいる。

 総白髪の老人は、土で汚れた手袋を嵌め、背を丸めた格好で湖の方を眺めていた。


 シャーロットは瞬きをしたあとに、老人に話しかけてみる。


「こんにちは、おじいさん。……あの、あなたさまは、私のことが怖いですか?」

「怖い? ははは、何故ですかな。美しいお嬢さん」

(よかった。この方は、『聖女』の私をご存知ないようですね)


 これでようやく、誰かのことを怖がらせずに話が出来る。

 そのことにほっとしつつ、シャーロットは老人に近付いてみた。


「この湖に、いっぱいに映った星空。想像しただけで素敵です」

「それだけではございません。春になれば、この辺りの木々にも花が咲きましてな。空色の中に、赤い花々が散りばめられて、それも殊更に美しい」

「わあ……! 次の春も、その光景が見られるでしょうか?」

「もちろんです。見事に咲かせてみせると、お約束しようではありませんか」


 そう言って老人が笑うので、彼の正体をなんとなく察した。


「おじいさんは、あちらのお花を咲かせた方なのですね」

「おや、ご覧いただけましたかな? 私は週に一度ほど、この屋敷の木々を世話しに来ておりまして」

「まあ! お庭を歩いてきましたが、とても綺麗でした。見ているだけで元気が出て、温かな気持ちになるようで……あら?」


 シャーロットは、湖の水面を見て首を傾げる。


「湖の上に、大きな青いお花が咲いて……ではなくて、マフラー?」


 岸辺から数メートル先の場所に、青い布がぷわぷわと漂っているのだ。

 そしてシャーロットは、庭の世話をしているらしき老人が、この場所に座り込んでいた理由に気が付いた。


「あれはもしかして、おじいさんのマフラーですか?」

「お恥ずかしい。巻き直そうと解いたところに、ちょうど強い風が吹きましてな」


 老人の傍には、細身の杖が置かれている。


「この湖は浅く、膝丈ほどしかないのですが、この脚ではどうにも出来ませんで」

「……とても素敵な、青色のマフラーですね」

「亡くなった家内が、私のためにと選んでくれましてな」


 その言葉に、シャーロットは老人を見下ろした。


「ははは、どうかそんなお顔をなさらずに。孫もこの屋敷に出入りしておりますので、後ほど孫に頼み込むつもりです。とはいえ、目を離したあいだに深みに流されて沈んでしまうかもしれないと思うと、どうにもここから足が動きませんで……」

「――なるほど」


 シャーロットは、まっすぐに湖を見た。


(きっと、さぞかし冷たいのでしょう)


 冬に関する記憶もないが、寒さや痛さ、そういった感覚まで忘れたわけではないらしい。

 第一に、いまの時点で随分と寒い。けれどもそれは、シャーロットだけではなく、ここに座り込んでいた老人も同様のはずだ。


「そこで、少々お待ちくださいませ」

「……お嬢さん?」


 靴をぽいっと脱ぎ去って、ドレスの裾をたくし上げる。

 手を離してもずり落ちて来ないように、その裾の端と端をきゅっと結んだ。シャーロットの目論見を察した老人が、慌ててこちらに手を伸ばす。


「お、お待ち下され! どうかお戻りを、あなたがそんなことをする必要はありませぬ!」

「っ、よいしょおーーーー!!」

「お嬢さん!!」


 覚悟を決めて、湖の中へばしゃんと踏み込んだ。


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