18話命をつなぐ手

 恵の誕生──父になった瞬間


 八月。


 あの日の空は、まぶしいくらいに晴れ渡っていた。


 なのに、わたしの目の前は何度もにじんで、うまく見えなかった。




 長くて、苦しくて、だけど──どこまでも尊い時間。


 その果てに、恵は、小さな産声を上げてこの世界に来てくれた。




 あのときの音を、わたしは一生忘れない。




 あの声を聞いた瞬間、涙がいっぺんにあふれ出して、


 わたしは震える声でつぶやいた。




「ありがとう……」




 この子が生まれてきてくれたこと。


 それを、誰よりも早く伝えたかったのは──


 ベッドの向こうの、そうちゃんだった。




 ──午後。




 特別な許可が下りて、そうちゃんは車椅子に乗って病棟に運ばれてきた。


 酸素マスクをつけて、細くなった体を看護師さんに支えられながら、


 あの人は、ガラス越しの小さなベッドをまっすぐ見つめていた。




 何も言わなくても、わかった。


 いまこの瞬間を、そうちゃんがどれだけ待ち望んでいたか。




「……ちいさいなぁ……こんなに……ちっちぇのに、生きてるんだなぁ……」




 そうちゃんの声は、細く、かすれていた。


 でも、その目だけは優しくて、まっすぐだった。




 わたしはそっと、赤ん坊を抱き上げて、あの人の腕に渡す。




 細く震える腕だった。


 でも、その腕は、間違いなく“父親”の腕だった。




「……はじめまして、恵。お父さんだべさ……来てくれて、ありがとな……」




 そうちゃんがそう言った瞬間、


 マスクの下から静かにこぼれた涙が、頬をすべって落ちた。




「雪……ありがとうな……おれ……おれ、父さんになったんだなぁ……」




 わたしは、もう何も言えなかった。


 ただ、うなずくだけで精いっぱいだった。




 そうちゃんの笑顔が、あまりに優しくて、あまりに幸せそうで──


 まるで、光そのものみたいだったから。




 あの笑顔を、わたしは胸の奥でずっと灯して生きていく。


 恵と一緒に、これからも。




 


 恵が生まれてからの一週間。


 そうちゃんは、まるで奇跡みたいに生きててくれた。




 毎日、ほんのちょっとの時間だったけど、


 恵の写真を見てくれて、あたしの話に、ちゃんと耳を傾けてくれた。




「昨日さ、ちょっとだけ笑ったんだわ。ミルク飲んでるときにね、口の端、きゅって上がって……」




「ほんとが……見たかったなぁ……ええなぁ、ええなぁ……」




 そうちゃんの声は、かすれとったけど、ちゃんと届いてた。


 その顔に浮かぶ笑みは、日を追うごとに小さくなっていったけど、


 その目だけは、変わらなかった。




 あの目は、父さんの目だった。






 恵の誕生は、そうちゃんにとっての小さな希望だったのかもしれない。


 たとえ触れられなくても、抱けなくても、


 この世に生まれてきた娘の存在が、そうちゃんをここに踏みとどまらせてくれた。


 あたしは、そう信じたい。




「ねえ、そうちゃん。恵、今日も泣いてばっかだったよ。でもね、泣き声がね……どっか、あんたに似てるんだわ」




「そったらもんか……そったらもんなら、ええな……」




 あたしの言葉に、ゆるゆるとうなずくそうちゃん。


 その瞳は、もう何も見えなくなってるのに、まっすぐ恵を見てるようだった。






 目を閉じても、見えてたんだよね。


 恵のこと、あたしのこと、


 これからも続いていく、この命のこと——




 最期の日


 恵が生まれて八日目の朝。


 層一は、静かに目を閉じたまま、雪の手を握っていた。




 呼吸は浅く、言葉ももうほとんど出なかった。


 けれど、雪が


「恵は、今日もちゃんと泣いて、飲んで、眠ってるよ」


 と話しかけると、かすかにまぶたが動いた。




「……ありがとう……」




 それが、層一の最後の言葉だった。




 その日の夕暮れ。


 層一は、眠るようにこの世を去った。




 


 そうちゃんは――父親として、一週間を生きてくれた。




 恵を抱いた腕は細くて、頼りなくて、でも、ほんとうにあたたかかった。


 あの短い時間。わたしたち三人でいた、たった一瞬の光のような日々。


 わたしは、あの瞬間を、一生忘れない。




 そうちゃんが見た、あの小さな命のぬくもりが、


 どれほど彼を救ったか――わたしには、よくわかる。




 恵。


 あなたのお父さんはね、世界でいちばんやさしい人だったの。




「お父さん」と呼ばれた、たった一週間の奇跡を――


 わたしたちは、生きるたびに、思い出していくんだよ。




 葬儀の日──ありがとう、さようなら、またね




 八月の空はすっきり澄んでて、どこか秋の気配さえ感じられる、静かな朝だった。


 夏の終わりって、どうしてこんなに寂しくなるんだべね……。




 礼拝堂のなかには、白い花の匂いがふわっとしてて、


 層一の写真が、やさしく笑ってこっち見てたんさ。




 その笑顔の奥に、あたしは、全部、感じてた。


 あのまなざしも、あの声も、あの温もりも──どれも、まだそこにあるみたいで。




 ふと、膝の上の恵が、小さくぐずった。


 あたしはそっと抱き上げて、その小さな手に頬を寄せた。




「……大丈夫だよ。お父さん、見ててくれてるからね」




 そう心の中でささやきながら、前を向いた。


 棺の前に立って、深くお辞儀してから、静かに話しかけた。




「そうちゃん……おつかれさま。ほんとに、がんばったね。


 苦しかったのに、最後まで……あたしと、恵のこと、気にかけてくれて……ありがとうね」




 涙がつーっと頬を伝ったけど、声は不思議と揺れなかった。


 この想い、ちゃんと届いてほしくて。




「いま、恵はね、元気にミルク飲んでるよ。


 あんたにそっくりな目で、じーっとあたしの顔、見てくるのさ。


 もうすぐ、初めての“にっこり”が見られるかもしれないよ」




 写真の中の層一が、今にも「ほんまか?」って言いそうで、思わず笑ってしまった。




「……あたしね、泣いてばっかじゃいけないって思ってるんだ。


 これからは、ちゃんと笑って生きていくから。あんたに恥ずかしくないように。


 でもね……泣きたいときは、ちょっとだけ、泣いてもいいべか? いいしょ?」




 そう言って、そっと棺に手を置いた。


 まだ、層一のぬくもりが残ってる気がして、胸がぎゅってなった。




「そうちゃん、大好きだよ。これからも、ずっと、ずっと。


 また会える日まで……さようなら。ううん、またね」




 2022年 夏 層一の葬儀――最後の別れ


 棺の中で、層一は静かに眠っていた。


 顔には、病と闘いぬいたとは思えない穏やかな表情が浮かんでいた。


 その横に並ぶ雪と、生まれてまだ数週間の恵。


 そして、両親が最後の言葉を届けるために、棺の傍に立った。




 母の言葉


 母は、そっと層一の頬に触れながら、涙をこらえた。




「……そうちゃん、なんであんたが先に逝くのさ……母さん、まだ信じられんよ……」




 声は震えていたが、どこか穏やかだった。




「でもね、もう泣かんことにしたの。あんたの好きだった空を、恵ちゃんも見上げる日がきっと来る。雪ちゃんが、強いお母さんになってくれる。……母さんも、そばで見守るからね。だから、心配せんで、ゆっくり休みなさい」




 彼女は小さな花を層一の胸元にそっと置き、続けた。




「そうちゃん……生まれてきてくれて、ありがとね。母さんの誇りだよ。ずっとずっと、大好きだよ」




 父の言葉


 父は、ゆっくりと棺に向かって頭を下げたあと、しばらく黙ってから言葉を口にした。




「層一……おまえには、言わなきゃならんことがたくさんあると思ってたけど、今になっても、まだうまく言えんわ」




 そう言って、照れくさそうに一度目を閉じた。




「でもな……オレは、おまえの親父でいられて、ほんとに幸せだったぞ。おまえが飛ぶたび、オレの胸も一緒に跳ね上がった。どんな高い空でも、おまえなら飛び越えていくって信じてた」




 少し声が詰まり、彼は拳をぎゅっと握った。




「……短ぇ人生だったかもしれん。でも、おまえはちゃんと、やりきった。雪ちゃんと恵ちゃんのことは、オレたちが守る。安心して、あっちで跳んでろ」




 そして、最後に言った。




「……なまら、かっこよかったぞ。おまえは、オレたちの息子だ」




 父は、棺に手を重ねて静かに頭を下げた。








 葬儀に集った仲間たち──風の記憶とともに


 静まり返った礼拝堂に、層一の盟友たちがゆっくりと歩みを進めていく。




 北京オリンピックで共に戦った代表選手──仁木恵一、白石浩、大沼圭佑。


 そして、彼らを若き日から育て導いてきた恩師、深井留美子監督。




 最後に、ひときわ静かに──けれど確かな足取りで前に進み出たのは、層一の最も深い絆で結ばれた盟友、海斗だった。




 その顔に浮かぶ表情には、それぞれの想いが深く刻まれていた。




 深井留美子監督の言葉


「層一……あなたは、私の教え子の中でも、とりわけ繊細で……それでいて、誰よりも強い子でした。




 あなたがジャンプ台に立つと、不思議と風が味方してくれた。覚えてるかしら?


 “風を信じて、空を信じる”って、あなた、よく口にしてたわね。




 あなたがいたから、他の子たちも自分を信じられた。


 あなたの笑顔が、どれほどチームを明るくしてくれたか……ありがとう、層一。




 あなたの魂は、いつまでもこの空に、ジャンプ台に、そして私たちの胸の中に生き続けます」




 白石浩の言葉


「層一はさ、俺より年下だけど……ほんと、頼れるヤツだった。




 試合前に俺がガチガチになってると、“浩さん、あとは風にまかせましょ”って、ニカッて笑ってさ。




 ……その一言に、どれだけ救われたか。




 俺たち、またあの白銀のスタートゲートに立つよ。


 今度は、空にいるお前と一緒にな」




 大沼圭佑の言葉


「層一……お前のジャンプは、本当に誰よりも美しかった。




 高さも、距離も、フォームも、どれも完璧だった。


 でもな、それ以上に――“自分を信じる姿勢”が、何よりジャンパーとして尊敬してた。




 俺たち、まだ跳び続けるよ。お前の魂を、俺たちが受け継いでいくから」




 仁木恵一の言葉


「層一、北京で一緒に飛んだときのこと、今でもはっきり覚えてる。




 “今日の風は、きっと味方や”って、お前が言っただろ?


 ほんとに、あの日はお前の風だった。あれがなきゃ、銀メダルなんて取れなかったよ。




 次のミラノ、今度こそ金を獲る。


 お前の名前を背負って、跳ぶからな。




 見てろよ、層一――いや、“そうちゃん”。


 お前が笑ってくれるようなジャンプ、飛んでみせるから」




 海斗の別れ──盟友として、


 最後に、海斗がゆっくりと棺の前に立った。




 長くて、けれどあっという間だった命の時間。


 幾度となく共に飛び、転び、泣き、笑った日々が、胸を深く貫く。




 海斗は静かに息を吸い、震える心を抑えながら、まっすぐ層一の写真を見つめた。




「……層一。お前さ……最後まで、ほんとにずるいな。


 “もうちょっとだけ一緒にいたい”って……言ってたの、覚えてるか?」




 かすれた声が、礼拝堂にそっと響いた。




「お前がいないと、チームが静かすぎてさ、つまんねぇんだよ……


 でもな、お前が生きた時間、全部、俺の中に残ってる」




 ポケットから、ふたりで一緒に表彰台に立ったときの記念メダルを取り出す。




「お前と取った、人生の勲章だよ。これは、俺の心臓のど真ん中にずっとある。




 次に俺が跳ぶとき、風が味方してくれたら──それは、きっとお前だなって思うよ」




 一瞬、言葉を詰まらせた海斗だったが、


 やがて穏やかな笑顔で、別れの言葉を告げた。




「ありがとう……お前に会えて、ほんまによかった。


 じゃあな、層一。また空で会おうぜ。


 そのときは、また一緒に跳ぼうな」




 


 そうちゃんのまわりには、こんなにも、あたたかな仲間がいたんだね。




 風を信じて、空を信じて、生き抜いたその軌跡は、


 今も、きっと空へと続いてる。




 そうちゃん。


 わたしも、恵も、あなたの仲間たちも、


 これからも、風のように、生きていくよ──




 あなたが跳んだ空を、忘れないでいてくれる人が、


 こんなにも、いるんだから。




 女子代表たちの別れ──風の中で跳んだ、あの日の仲間へ


 静かな献花が続く中、また一組の足音が前へ進み出た。




 白石瑞穂、朝日愛子。


 北京オリンピックのジャンプ女子代表として、日本を背負って戦った二人の選手だった。




 両手を胸の前でしっかりと組み、


 彼女たちは層一の遺影の前に立った。




 瑞穂は、深く一礼してから、そっと語りかけた。




 白石瑞穂の別れの言葉


「層一くん……あなたがいなかったら、きっと私、あの五輪の空に跳べなかったと思う」




 声が震えていた。




「男子も女子も関係ないって、誰よりも自然に言ってくれたの、あなたが最初だった。


 “風は選ばない。誰にでも平等に吹く”──あなたのその言葉が、どれほど私の支えになったか……」




 涙が一筋、頬をつたう。




「あなたが、病気と闘いながらも笑顔でいてくれたから、私も前を向けた。


 あなたは、本当に、私たちの誇りでした。ありがとう、層一くん。空の上でも、きっと軽やかに跳んでいるんだろうな……」




 朝日愛子の別れの言葉


 続いて愛子が、絞り出すように言葉をつなぐ。




「層一先輩……私、いまだに信じられません。


 あんなに強くて優しくて、ずっと跳び続けてくれると思ってた。


 病気のこと、きっと誰よりもつらかったのに、“大丈夫”って笑ってくれて……」




 愛子は、一瞬こらえきれずに、手で口元を押さえた。




「でも、最後に雪さんと結婚できて、恵ちゃんにも会えて、本当によかった……


 層一先輩のジャンプ、忘れません。いつか、私もあのときの自分を超えたって言えるように、もっともっと跳び続けます」




 彼女たちは遺影に、そっと白いグローブを添えるようにして別れを告げた。




「ありがとう、先輩。また空で会いましょう。今度は、一緒に風を感じながら──」




 雪のナレーション


 瑞穂ちゃん、愛子ちゃん……ありがとう。




 あのときの北京の空には、男女の枠も、病気の影もなかった。


 ただ“空を信じて、風を信じる”心が、あのジャンプ台にはあった。




 そうちゃん。あなたの生き方は、誰かの背中を押し続けているよ。


 あなたと一緒に跳んだみんなが、今日もまた、新しい空を




 天国への列車




 夜明け前の上川駅。


 夏の終わりを迎えたばかりのホームに、淡い朝靄がゆらめいていた。




 時計の針が、午前4時27分を指したそのとき、


 遠くから、ディーゼルエンジンの低いうなりがゆっくりと近づいてくる。




 ヘッドライトを曇らせながら、


 かつてオホーツクの大地を駆け抜けた183系の特急列車が、ゆっくりと上川駅に滑り込んできた。




「特急・天国行き──ただいまの便、まもなく発車いたします」




 誰に告げるでもなく、アナウンスが風に乗る。




 そのホームに、層一の魂は、静かに佇んでいた。




 白いジャンパーのまま、スーツケースも持たず、


 手ぶらで、ただ一人、列車のドアが開くのを待っていた。




 車掌は、彼に微笑みかけた。


 それは、どこか懐かしいジャンプ台の係員の顔にも似ていた。




「おかえりなさい、層一さん。席はご用意しております」




「……ありがとう」




 層一は軽く会釈し、列車に乗り込んだ。




 がらんとした車内。だが、それは決して寂しさではなかった。


 柔らかな光に包まれ、かつて、北海道を駆け抜けた力強き車両。


 車窓の外には、まだ眠る大雪山の稜線が、うっすらと見えていた。




 そのとき、スピーカーから落ち着いた声が静かに響いた。




「お客様、層一様。


 あなたは、二十三年という人生の終着駅に、無事ご到着されました。


 これより当列車は、ご家族との思い出の地を巡りながら、天国へとご案内いたします。


 どうぞ、ごゆっくりと旅をお楽しみください」




 その声は、儀礼的なものではなかった。


 まるで、層一のすべてを見守ってきた誰かが、


 心からの労いを込めて語りかけているようだった。




 層一は小さく頷き、静かに座席に身を預けた。




 列車がゆっくりと動き出す。




 その瞬間、層一の胸に、ふわりと風が吹いた。




 ──雪の笑顔が浮かんだ。




 ベッドに腰かけ、生まれたばかりの恵を抱きしめている。


 小さな手、小さなまなざし。


 命をつないだ、わたしたちの娘。




「そうちゃん、見て。……恵、あなたにそっくりよ」




 聞こえるはずのない声が、耳元で確かに響いた。


 層一はそっと、頬を緩めた。




「……ほんとだな。よかった。ちゃんと、見れた」




 窓の外に、記憶が流れていく。




 白いジャンプスーツに身を包み、雪の中で飛んだ日。


 海斗と笑い転げた合宿。


 深井監督の厳しくもあたたかな声。


 そして、何より──雪と出会った、あの夏の光。




 列車は、静かに速度を上げていく。




 山を抜け、川を越え、空へ向かって、走り続ける。




 層一は、最後部の席に座りながら、そっと目を閉じた。




「……ありがとう。俺は、幸せだったよ」




 その声に応えるように、風が窓辺を撫でる。




 列車はまっすぐ、雲の向こうへと進んでいく。


 やがて、それは光に溶けて、誰の目にも見えなくなった。




 雪のナレーション




 そうちゃん。


 あなたは、もういないけれど、


 わたしにはわかるの。




 今でも、恵の寝息に耳をすますと、


 あなたの笑い声が聞こえる気がする。




 上川の空を見上げるたびに、


 あの朝、発車していった特急の姿が浮かぶ。




 おかえりって、言いたいけど──


 いってらっしゃい、そうちゃん。




 わたしと恵、がんばって生きていくから。


 あなたが胸を張れるように、生きていくから。






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