第12話白馬の空、雪の声

試合が終わって、結果は33位。決勝には残れんかった。




「……悔しいな」




 そうつぶやいた層一の横顔を見て、雪はそっと手を伸ばした。




「そうちゃん。あたしは、決勝行けんでも、無事に戻ってきてくれたことが、なにより嬉しいよ。怪我もなかったし……それだけで、充分だべさ」




「……雪」




「次の試合も、出るんだべ?」




「うん。まずは国内の大会でちゃんと上位に入って、筋力つけて……それでワールドカップ出れるくらいにならんとな。帰ったらまた、トレーニングせんばな」




「うん……そうちゃんなら、絶対、大丈夫だよ」




「ありがとな……ほんと、雪のおかげだ」




 夜の21時過ぎ。試合後の夕食は済ませていたので、帰宅してすぐ風呂をわかす。




「雪、風呂わいたぞ。一緒、入るべか?」




「うん……一緒に入ろう」




 湯気の立ちこめる風呂場。服を脱ぎながら、雪の細い背中がふと目に入る。白く透き通るような肌――まるで本当に、雪のようだと思った。




 湯船に並んで浸かり、層一は彼女の肩をそっと抱き寄せた。




「……筋肉、ついてきたなぁ。トレーニング、頑張ってる証拠だわ」




「いや、まだまだだな。とくに背筋。空中でのバランス、なんかフワフワしてたっしょ。もっと鍛えねば」




「そうかい……でも、あたしは、そんなそうちゃんの姿見てるだけで、十分、嬉しいよ。ビッグジャンプ、期待してるからね」




「……雪……」




 ふと、湯船の中で唇を重ねた。最初はそっと、確かめるように。やがて、ふたりの心と体が、深く、ゆっくりと重なってゆく。




 ⸻




 翌朝。ジムで汗を流していると、スマホが鳴る。深井監督からだった。




「層一、次の白馬の大会、出るよね? もし上位に入ったら、カナダでのワールドカップ、出場させてもらえるかもしれない。オリンピックのポイントにもなるし、強化指定にもまた戻れるって」




「ぜひ、出してください!」




「で、次の通院はいつ?」




「12月1日です」




「じゃあ白馬がその前のラストやな。体に問題なければ、そのまま世界大会、行ける」




「……わかりました。全力で挑みます!」




 電話を切ってすぐ、雪のもとへ駆け寄った。




「雪……! 次の白馬で上位に入れたら、ワールドカップ、カナダ行けるって!」




「……ほんとに? すごいね、そうちゃん……!」




 雪の瞳が潤んで笑った。層一は、その手をしっかり握った。




「ぜってぇ、行くからな。今度は、世界で戦ってくる」




 ⸻




 また、次の試合に向けたトレーニングと、踏切の時のフォームなどの入念にチェックを行ったり、自分のワールドカップでの優勝シーンを見返して、イメージトレーニングをしたり、時にはチームスタッフによるアドバイスを受けたりしながら、懸命に体を作り、いよいよ白馬に向かう日がやってきた。遠方である為、雪は北海道で、テレビ中継での観戦となった。


 家を出る前、雪は不安でいっぱいだった。


「とにかく無事に帰ってきてほしい。病気が再発しなかったらいいんだけど…」


「じゃあな、雪、行ってくるぜ。雪を絶対オリンピックに連れて行くからな」


「うん。そうちゃんなら大丈夫。オリンピックに行けるのを楽しみにしてるからね」


「ありがとうな」


 そういって、雪の体温が感じられるくらい、ぎゅっと抱きしめて、旭川に向かった。


 旭川空港から、今度は羽田行の航空機に乗る。


「雪、今旭川空港。頑張ってくるからな」


「行ってらっしゃい。私はテレビで応援するからね」


「おう」


 やがて旭川を離陸して、雪の大地を飛び立って、一路南に進路をとった。そして、羽田について、今度は新宿に向かう。新宿からはあずさに乗って、松本に向かい、松本からはチームスタッフが用意したバスに乗って、白馬の宿舎に到着。ホテルについて、雪に連絡を入れる。


「無事に着いたから。明後日の試合に備えて、今日は早めに寝るわ」


「うん。わかった。体には十分気をつけてね。そうちゃんが活躍できることを祈ってる」


「うん。今から夕食。こっちは山菜料理がメインで出るみたい」


「そう、しっかり体を休めてね」


 連絡が終わった後、深井監督が部屋を訪ねてきた。


「層一、体はどんな感じ?痛みとかない?」


「今のところ大丈夫です。特に痛みとかないですね」


「そう、よかった。でも、何か少しでも異変を感じたら、すぐにでも言ってね。とにかく無理だけはしないようにね」


「はい。ありがとうございます」


 そのあと、出場する選手のうち、日本人選手が部屋を訪ねてきた。やはり層一の健康を築かっての訪問であった。皆でオリンピックを目指そうと、健闘を誓い合った。




 そして、試合当日。ゼッケンを受け取り、ジャンプスーツに身を包んで、出番を待つ。層一は今回もシード選手ではないため、前半部分での出場となった。今回は白馬村ジャンプ競技場で行われる。




 白馬村ジャンプ競技場。


 K点90m、ヒルサイズ98m。最大斜度36.5度。観客席には多くの声援が響いている。




 テレビ中継のアナウンサーの声が画面から流れてきた。




「さあ、次は注目のジャンパー、ゼッケン35番、上川層一選手です! 病を乗り越えた復活ジャンプ、どうか成功してほしい!」




 テレビの前の雪は、両手をぎゅっと握って祈っていた。




「そうちゃん、いける。信じてるよ…!」




 スタートゲートに座る層一。ゴーグル越しに遠く下の観客席を見据える。


 追い風は0.5m、視界良好。集中する。ブザーが鳴った。




「ピィーーーー!」




 層一の身体が一気に前傾し、滑走路へと飛び出す。風を切る音。


 加速、加速、さらに加速。踏切台が迫る。




「いまだ!」




 鋭く踏み切った。ふわっと浮き上がる。空中姿勢に入る。両腕を広げ、スキーをV字に保つ。




 アナウンサーが叫ぶ。




「さあどうだ!? 層一、空中でしっかりバランスを取っている! 着地地点は——K点を超えるか…?」




 観客のどよめきが聞こえた瞬間、層一の身体がふわりと着地した。




「着地成功! 飛距離は……95メートル! K点を超えてきました!」




 雪がテレビの前で両手を口に当て、目を潤ませた。




「やったぁ……! そうちゃん、飛んだ……! 本当に、飛んだんだ……!」




 祖父母も涙ぐみながら言葉をかける。




「層いち……よくやったべや。ほんとに、頑張ったなぁ」


「まさか、あの病気からこんな風に飛べるなんてねぇ……雪ちゃん、ほんとよかったねぇ」




 雪は涙が止まらないまま、震える声で答えた。




「うん……うん……。ほんとに……よがった……。そうちゃん、ありがとぉ……!」




 —




 1回目は14位で通過。2回目のジャンプは風向きが変わりやすく、選手たちが苦戦する中で出番が回ってくる。




「さあ、2回目。層一選手、ジャンプ台に座りました……おっと、風が向かい風に変わりましたね。これはチャンスかもしれません!」




 層一は目を閉じて深呼吸した。


(雪、見ててくれよ。俺、もっと高く飛ぶから)




 ブザーが鳴った。今度はさらに力強く踏み切る。風に乗った。空中でスキー板をしっかりと開き、バランスを保つ。




 実況が声を上げる。




「高い、高い! 空中姿勢も安定している! 着地はどうだ!?」




 層一はぐっと踏ん張りながら、スムーズにテレマーク姿勢で着地。




「着地成功〜! なんと、99メートル! ヒルサイズ越えのビッグジャンプです!」




 雪は声にならない叫びをあげた。




「そうちゃん……! すごい……すごいよ……! ほんとに、ほんとに……!」




 涙が滝のように頬を伝い、何度も何度もテレビ画面に向かってうなずいた。




「やったべや、層一!」


「もう、誇らしいよ……わたしの孫、最高だわ……!」




 —




 試合終了後。電話が鳴る。




「雪、やったぞ……俺、決勝進出した……!」




「うん……うん……本当に……よがった……。そうちゃん、ほんとによがったぁ……!」




 喜びが溢れて、言葉が続かない。層一もまた、電話口で声を詰まらせた。




「じいちゃん! 見てくれたか?」




「おう! よーやったな、層いち。お前、すげぇぞ」




「ばあちゃんもありがとう。俺、ほんとに……今できること、全部やった」




 —




 そして層一は、日本人選手中3位の成績で、次のワールドカップ・カルガリー大会への出場権を手にした。




 白馬の空に跳んだ勇姿を胸に刻みながら、愛しい雪の待つ北の大地へ、静かに帰路についたのだった。




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