終着駅
リンダ
第1話視覚異常
上川層一は、スキージャンプの選手だ。ジャンプ競技の盛んな北海道・上川町の出身で、オリンピック出場も有望視されていた、地元期待のホープだった。
2021年、北京オリンピック出場を目指して臨んだシーズン。スウェーデン遠征の最中に、彼の体調に異変が生じた。物が二重に見える——。
異国の病院で精密検査を受けることになった。CTスキャン、MRI、レントゲン……ありとあらゆる検査が施され、結果が出るまで入院を余儀なくされた。
他の日本人選手たちは、次々と大会を終えて帰国していく。そんな中、ただ一人、スウェーデンの病院のベッドに横たわる層一。
「チェッ。ついてねぇな……まだ結果、出ねぇのかよ」
面会は禁止。新型コロナの影響はまだ残っていた。連絡手段は、メールかラインだけ。遠征メンバーとのやり取りが唯一の救いだった。
「そうちゃん、大丈夫か? 次の試合、また一緒に飛ぼうぜ」
盟友・喜多見海斗からのメッセージだった。
「かいちゃんか。物が二重に見えるだけで、特に問題はないんやけど……。早く結果出てほしいな」
「問題ないんならええけどよ。また帰ったら、飲みに行こうぜ」
喜多見は遠軽町出身の22歳。同い年で、ジュニア時代からのライバル。時に競い合い、時に励まし合ってきた戦友でもある。
「おぉ。楽しみにしてるわ」
チーム監督からも、気遣いのメールが届いていた。
「どんな調子? 今は不安かもしれんけど、しっかり休んでな。連戦と遠征の疲労が出たのかもしれんし、よう診てもらって、早く元気になってな」
「ありがとうございます。また結果が出たら、連絡します」
そう返信を送り、層一はその夜も病室の天井を見つめながら、静かに夜を越えた。
そして数日後、検査結果が出た。
過労だろう。数日休めば帰国できる——そう楽観的に考えていた層一だったが、医師から告げられた診断は、彼の想像の遥か斜め上を行くものだった。
予想すら、していなかった。まるで、空を飛んでいたジャンプ台の先に、思いもよらない深い谷が口を開けていたかのようだった——。
そして、数日後。検査結果が出た。
「きっと、ただの疲れだべさ……ちょっと休んだら、またすぐに飛べるっしょ」
そう思い込んでいた層一は、病室のベッドで医師の言葉を聞いて、しばし呆然とした。
「……脳に、異常……?」
医師の口調は、落ち着いていた。でも、その内容は、層一の心を容赦なく凍らせた。
「視神経の働きに関係する、脳の一部に病変が見つかりました。正確な診断名については、さらに精密な検査が必要ですが……スポーツは、しばらく控えてもらうことになります」
「……ジャンプ、も……ですか……?」
「はい。特に、頭部に衝撃が加わるような行為は、厳禁です」
凍ったように固まった部屋の空気の中で、窓の外だけが、ゆっくりと動いていた。
粉雪が、ひらりひらりと落ちていた。音もなく、風もなく。ただ、まっすぐ、白い空から地面へ。
層一は、その雪を、じーっと見つめていた。子どものころから見慣れたはずの雪。だけど、今は、どこか違って見えた。
「……なんも、うそだべや……」
心の中で、ぽつりとつぶやいた。北海道の雪は、どこまでも静かで、何も語らない。ただ積もるだけだ。冷たくて、やさしい。悲しみを吸い込んで、真っ白にしてくれるような気がした。
枕元のスマホが、震えた。喜多見からだった。
「結果、どうだった?」
すぐに返信はできなかった。
「……かいちゃん……おれ、飛べねぇかもしれん……」
画面に打った言葉を、何度も消しては打ち直した。
――オリンピック?
――ワールドカップ?
――あの日、風を切って飛んだジャンプ台の空は、もう戻ってこないのか?
涙は出なかった。北海道の男は、そんなに簡単には泣かない。だけど、胸の奥に、雪みたいな冷たい重みが、じわじわと積もっていった。
「……ほんと、ついてねぇなぁ……」
ベッドの上で、ぽつんとつぶやいた声は、誰にも届かなかった。
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