君と、もう一度家族になるまで

海ちり

第1話 新しい家族、はじまる

春の光が、まだ名残惜しそうに夜の気配を留める早朝の空を、淡いピンク色に染め上げていた。神崎悠真かんざき ゆうまは、新しいカーテンの隙間から差し込むその光を感じながら、ゆっくりと意識を覚醒させていった。見慣れない天井。まだほんのりとペンキの匂いが残る、真新しい壁。今日から、この部屋で、新しい生活が始まるのだと、改めて実感する。父の再婚。それは、悠真にとって、血の繋がらない姉と妹ができるという、非日常の始まりを意味していた。


高校二年生になったばかりの悠真にとって、これまでの生活は、父・直人なおととの二人三脚そのものだった。幼い頃に母を交通事故で亡くして以来、父は多くを語ることはなかったが、その大きな背中で、息子を静かに、そして力強く支え続けてくれた。不器用ながらも深い愛情を注いでくれる父の存在は、悠真にとって何よりも大切なものだった。言葉ではなく、行動で示される父の愛情。悠真もまた、多くを語らずとも父の気持ちを理解できる、そんな関係を築いてきたつもりだった。


だからこそ、父から再婚の話を切り出された時、喜びよりも先に、どうしようもない戸惑いが彼の心を支配した。「家族が増える」とは、一体どういうことなのだろうか。頭の中で様々な想像を巡らせてみても、具体的なイメージはまるで湧いてこなかった。父の隣に、新しい女性が立つ。そして、自分に姉と妹ができる。それは、これまでの生活が大きく変わることを意味していた。


それでも、悠真は父の決意を受け入れようと努めた。父は、決して一人で生きていくことを選んだわけではない。悠真自身のためにも、そして何よりも、これからの人生を共に歩む伴侶を求めたのだと、理解していた。父が幸せになってくれることを、心から願っていた。


綾瀬真理子あやせ まりこさん。初めて会った時の、あの穏やかで優しそうな笑顔が、悠真の脳裏に焼き付いている。上品な物腰と、落ち着いた雰囲気。大人の女性としての包容力と、どこか少女のような純粋さを併せ持つような、不思議な魅力を持った人だった。そして、その娘である、綾瀬澪あやせ みおさんと、綾瀬あやせひよりさんは今日、初めて顔を合わせ、共に生活を始める。玄関のチャイムが鳴るまでの時間、悠真はベッドから起き上がり、窓辺に立って、まだ静寂に包まれた庭を眺めていた。


春の朝の光は、まるで水彩絵の具を溶かしたように、庭の木々を優しく染め上げている。芽吹き始めたばかりの若葉が、朝露を纏ってキラキラと輝き、小鳥たちのさえずりが、新しい一日の始まりを告げていた。けれど、悠真の胸の内には、春の暖かさとは裏腹に、まだ冬の冷たい風が吹き抜けているような、そんな落ち着かない感覚が渦巻いていた。期待と不安。好奇心と警戒心。様々な感情が複雑に絡み合い、彼の心をざわつかせていた。


「悠真、そろそろ時間だ。下に降りてきなさい。真理子さんたちがもうすぐ着くぞ」


階下から、父の声が聞こえた。いつもの無骨な声色に、ほんの少しだけ緊張が混じっていることに、悠真は気づいた。父もまた、この新しい生活に、少なからず不安を感じているのかもしれない。そう思うと、悠真は自分がしっかりしなければ、と小さく息を吐き出し、手のひらで軽く頬を叩いた。平静を装わなければ。頼りない兄だと思われたくはない。ゆっくりと階段を下りるにつれて、自分の心臓が、まるで小さな生き物のように、トクン、トクン、と早鐘を打っていることに気づいた。


リビングの扉の前で、深呼吸を一つ。そして、意を決して扉を開けると、見慣れない顔が二つ、同時にこちらを向いた。


「おはようございます、悠真くん。今日からお世話になります、綾瀬真理子です」


柔らかな微笑みを湛えた真理子さんが、丁寧に頭を下げた。その穏やかな笑顔は、まるで春の陽だまりのように、人の心を温かく包み込むようだった。その隣には、少しばかり緊張の色を滲ませた、自分よりも数センチ背の高い女性が、背筋を伸ばして立っている。


「おはようございます。澪です。よろしくお願いします」


長い栗色の髪が、朝の光を受けて、まるで絹糸のように艶めいていた。透き通るような白い肌。憂いを帯びた大きな瞳。大学生だという彼女は、落ち着いた物腰の中に、どこか儚げで、守ってあげたくなるような、そんな繊細な美しさを秘めているように見えた。けれど、その瞳の奥には、強い意志のようなものが宿っていることも、悠真は見逃さなかった。


そして、もう一人。少しだけ距離を置いて、まるでそこにいることを拒絶するかのように、腕を組み、こちらを射抜くような鋭い視線を向けている少女がいた。


「……おはよう」


父が、彼女に呼びかけた。黒髪のボブカットは、風になびくこともなく、彼女の意志の強さを物語っているようだ。切れ長の瞳は、まるで獲物を狙う猫のように、悠真の全身を値踏みするように見つめ、小さく、しかし明確に舌打ちをした。


「……別に」


それが、今日から義理の妹となる、綾瀬ひよりの第一声だった。その一言には、明確な拒絶の意思が込められているように感じられ、悠真は内心で小さく息を呑んだ。まるで氷の刃のように冷たく、鋭い言葉。彼女の心の中に渦巻いている感情を、想像することすらできなかった。


ぎこちない挨拶が交わされた後、リビングには気まずい沈黙が漂った。父が何とか場を和ませようと話しかけるものの、その言葉はどこか空回りしているように聞こえる。真理子さんは、穏やかに微笑んでいるが、その優しい笑顔の奥には、ほんの少しの不安と、新しい生活への期待が入り混じっているようだった。澪は、時折優しく微笑むものの、言葉少なに周囲の様子を伺い、まるでガラス細工のように、慎重に言葉を選んでいるようだった。そしてひよりは、相変わらず腕を組んだまま、不機嫌そうな表情を崩さず、まるでこの場にいること自体が不満であるかのように、口を固く結んでいる。悠真は、自分が一体どう振る舞うのが正解なのか、全く見当がつかず、ただ所在なく立っていることしかできなかった。


朝食の準備は、真理子さんと澪さんが中心となって進められた。テキパキと動く二人の姿を、悠真は少し離れた場所から静かに見守っていた。真理子さんは、手際よくキッチンを動き回り、慣れた手つきで料理を仕上げていく。その横で、澪は真理子さんの指示を聞きながら、丁寧に食器を並べたり、飲み物を準備したりしていた。時折、真理子さんと視線を交わし、楽しそうに微笑み合う二人の姿は、実の親子そのものに見えた。


料理は、悠真にとって数少ない特技の一つだった。二人暮らしの父のために、幼い頃から簡単な料理は作ってきた。手早く作れるおかず系の料理には、それなりの自信もあった。けれど今日は、あえてその腕を振るうのは控えておこうと思った。まずは、この新しい“家族”のやり方、ペースを知ることが先決だ。それに、初めての食事で、いきなり自分が作った料理を出すのは、少しばかり図々しい気がした。


食卓には、彩り豊かな料理が並んだ。真理子さんの手作りの温かい料理は、見た目も美しく、食欲をそそるものばかりだった。真理子さんの明るく優しい声が響き、和やかな雰囲気が食卓を包み込む。澪は、時折真理子さんに料理の感想を求めたり、父に学校であった出来事を話したりしながら、楽しそうに食事をしている。けれど、その笑顔の奥には、ほんの少しだけ、遠慮のようなものが垣間見えた。そしてひよりは、相変わらず無言で食事をしているが、時折、ちらりと悠真の方に視線を向けていることに気づいた。その視線には、警戒心のような、あるいは単なる好奇心のような、複雑な感情が入り混じっているように感じられた。


「悠真くんは、何か好き嫌いとかある?遠慮しないで言ってね。これから毎日一緒にご飯を食べるんだから」


真理子さんが、優しい声で悠真に話しかけてくれた。その言葉には、これから本当の家族になろうとする、温かい気持ちが込められているようだった。


「あ、はい。特にありません。何でも美味しくいただきます。真理子さんの料理は、本当に美味しそうです」


「そう?それは嬉しいわ。ありがとうね。澪も料理は好きなのよ。見た目は完璧なんだけど……たまに、想像もつかないような失敗をするの。この間は、砂糖と塩を間違えて、大変なことになったのよ」


真理子さんの言葉に、澪は少し頬を赤らめて、照れたように笑った。その笑顔は、先ほどまでのどこか憂いを帯びた雰囲気とは打って変わって、年相応の可愛らしさがあった。大学生という、少しだけ大人びた雰囲気を持つ彼女の、意外な一面を見たような気がして、悠真は少しだけ親近感を覚えた。


食事が終わり、悠真が食器を片付けようと立ち上がると、真理子さんは「あらあら、ありがとうね。でも、今日はここに来た初めての日だから、洗い物は、澪と私がやるから」と、優しい笑顔で声をかけた。初めての共同生活。誰もが、目に見えない疲れを感じているのかもしれない。それに悠真は、真理子さんと澪さんに、少しでも二人きりの時間を持たせてあげたいという気持ちがあった。


自分の部屋に戻った悠真は、ベッドの端に腰掛け、今日一日の出来事をゆっくりと反芻していた。穏やかで、けれどどこかよそよそしい。それが、彼が抱いた率直な印象だった。これから、この三人と、どんな関係を築いていくのだろうか。うまくやっていけるのだろうか。不安と、ほんの少しの期待が、彼の心の中で複雑に絡み合っていた。


ふと、朝食の時、ひよりが味噌汁を口にした時の表情が蘇った。「しょっぱい」と、明らかに不満そうな顔をしながらも、彼女は結局、その味噌汁を最後まで飲み干していた。あの時の、ほんの少しだけ緩んだ彼女の口元が、なぜか悠真の脳裏に焼き付いて離れない。ツンツンとした態度の中に隠された、ほんの少しの素直さ。彼女は一体、何を考えているのだろうか。


そして、澪の、ふとした瞬間に見せる、どこか寂しげな横顔。完璧に見える彼女も、何か人には言えない悩みを抱えているのだろうか。大学生という、自分よりも少しだけ大人びた雰囲気を持つ彼女の世界は、まだ高校生の悠真には想像もつかないものなのかもしれない。彼女は、一体どんな毎日を過ごしているのだろうか。


(……家族って、案外難しいよな。でも、ちゃんと向き合いたい。)


窓の外は、いつの間にか深い藍色に染まり、星々が瞬き始めていた。遠くから聞こえる車の走行音だけが、この家にも、そしてこの街にも、まだ確かに生活の息吹があることを告げているようだった。悠真は、今日から始まった新しい日常に、小さな、けれど確かな決意を胸に抱きながら、静かに目を閉じた。このぎこちない始まりが、いつか温かい絆へと変わることを、彼は心のどこかで願っていた。そして、いつかこの三人を、本当の家族として迎え入れることができるように、自分自身も変わっていかなければならないと、感じていた。

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