第4-5話 信じる者は救われる
ここから逃げる方法などなく、どうにか一歩踏み出すが足下が揺らぎ柔らかな何かを踏んだかのような心地がする。アーネストを取り囲んだ全員が涙を流し祝福し、手を叩き奇跡が顕現するのを心待ちにしていた。
「祝福を!」
「祝福を!」
「祝福を!」
合唱に呑まれガラスに口をつけつつ、動きを止めてシェムザを見やれば、彼は勝利の笑みを浮かべていた。アーネストは眉間にしわを深く刻み、ガラスを一気に傾ける。
口内に入ってきたのは確かにワインで、ぶどうとアルコールのにおいが混ざり合い、ひと口呑んだだけで一瞬くらりと意識が揺れた。見下ろした空のコップの底に、細かな粒上の何かが取り残されているのが見える。
「祝福を!」
真横にいたシェムザの声に体を震わせ、自分が今どこにいるか思い出す。意識が飛んでいたらしい。彼は黒い目を細める。意識の混濁が始まった。
人々が歪み、音は遠のき膜一枚向こうの世界のようだ。
ワインを呑み終えてたかが数分で視界は歪みきり、ふらつきながらもどうにか席へと戻る。周囲が立っているなか、アーネストだけが座り込み喧噪を聞いていた。
母・バラカへのコールを聞きながら意識は沈んでいき、会合が終わったのか引っ張られるがまま立ち上がり、そのまま自室へと連れていかれた。
そこはアーネストに割り当てられた施設の一室……だったはずなのに、顔を上げると見慣れたポスターが貼ってある。それはアーネストが12歳の時に好きだった、メタルバンドのポスターだ。
驚き視界を動かせば、窓の外から見えるのはイギリスの時に住んでいた自室からの景色で、美しい秋が広がっている。
そして壁にかかっている鏡のなかには、驚愕の表情を浮かべたアーネストがいた。しかしそれは12歳のころの、幼い少年であるアーネストだ。
「悪魔崇拝者め!」
なんでもいいから声を発しようとした瞬間、下から怒鳴り声が聞こえ慌てて口を手で覆う。
それは祖母、シーリアをののしる時にあらゆる人がよく使う常套句だ。血の気が引き、体が震えだすのは最早本能的な恐怖からだった。
「人殺し一家」「詐欺師」「カルト集団」などの罵声が途切れることなく聞こえ、アーネストは震えながら布団のなにくるまる。このあと一家離散するまであっという間で、あれほど仲のよかった両親は殺し合いをするのではと危ぶむほど憎み合い、全員が憔悴していく。
アーネストは学校で居場所を失い、引っ越すまでの三か月の間いじめを受けることになる。すべてを知っているからこそ、怖ろしくて仕方なかった。
やがて玄関を打ち破る音が聞こえ、数十人の足音が喧噪と共に階段を上ってくる。人々は暴力的な叫びをあげ、やがてアーネストの部屋の扉を叩く。
「人殺し女の孫め、みんながおまえが死ぬのを望んでいるぞ!」
男女数人の声でそう叫ぶと、ふたたび数度扉が叩かれる。木製の扉が揺れるほどに叩かれ、あと数度で破られるのが目に見えた。
ありもしない過去のさなか、どうにか逃れようとアーネストが周囲に視線をやっていると、急に音がやんで部屋は静まり返る。穏やかな秋の日が急に戻ってきたことに戸惑い、しばらく無言で扉を見つめた。
そして優しいノックが三度、軽やかに聞こえた。
「エルネストさん、シェムザです。助けに参りました」
赤子に接するような優しい声がそう言い、もう一度三度ノックする。
アーネストはベッドの上に座り込んだまま、今やシェムザの気配しかしない扉を見つめる。ベッドから左足おろした瞬間、背後の窓が一度叩かれた音に振り返る。
『昔、スイスに向かう列車の窓から外を見ていたら、草原にいる天使を見ました』
どこかで聞いた男の声が耳の傍でしたけれど、アーネストは振り返らずに窓の外を見つめた。見たこともないような美しい男が一人、微笑を浮かべてアーネストを見やっていたから。
窓の桟に人が立てるはずもなく、男は明らかに宙に浮いていた。
ウェーブがかった艶やかな黒髪に、たれ目の黒い目。厚めの唇は弧を描き、優しい色をたたえてアーネストを見つめている。
やがて彼の唇が動き「アーネスト」と呟いたのがわかった。
「エルネストさん」
背後からふたたびシェムザの声がかかるものの、もうすでに彼への興味は失せている。
アーネストは立ち上がり窓に近寄ると、躊躇うこともなく窓の鍵を開き窓を開けた。美しい男は「
「T! なんでここに……」
驚き声を上げたアーネストに、Tは自身の唇に人差し指を当て「シィッ」と小さく呼びかけた。
「耳を澄ましてみてください。地獄のほうが静かだから、救いの音が聞こえますよ」
Tが空を指さすのと同時に、雲間からうっすらと讃美歌が聞こえてくる。不信心なアーネストに曲名はわからないが、美しい声だった。
「祈っています、あなたのために。そしてすべての人のために」
差しのばされた彼の指先が、いつの間にか何かを握りしめているアーネストの右手にちょんと触れる。驚き見やれば、指と指の隙間から光が漏れているのに気づき、そっと指を開いてみた。
金色の光に一瞬目が眩み、数度瞬いてからのぞき込めば、微笑を浮かべるマリアが描かれたメダイが光り輝いている。
「あなたの荷物にまぎれこませておきました。役に立ったでしょう」
性別を超えてうっとりするような笑みを浮かべそう言うと、Tは光がいっそう強まる雲間からの光のなかで振り返り空を見上げた。
「祈りが届くまで20年もかかってしまいましたね。ではまた、アーネスト」
Tの姿が光に紛れると同時に、世界は白い光に包まれたった一人となる。そしてようやく目を覚ました。
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