第2-5話 悲しむ者は幸いである
椅子に背筋を伸ばして座ったTが、艶やかな黒髪を揺らしイザベルに笑みを向ける。絵画から抜け出たかのような美しさと同時に、薄ら寒さを身にまとっていた。
五分もすればノアは目を覚まし、自分が寝ていたこと、全員に見つめられていることに驚き体を震わせた。
Tはふたたび姉弟に部屋を譲り、リサ、アーネストも一緒に『パラノーマル・リサーチ社』のほうへと移動する。アーネストは録画した動画をチェックするため部屋へと引っ込み、リサはHPを更新するためノートパソコンを立ち上げた。
目の前に座ったTが、機嫌よさそうに外を眺めているのを横目でしばらく見やってから、リサはそろそろと口を開いた。
「Tさんって、お名前はなんていうんですか?」
「悪魔祓いにおいて、名前は重要なんです。だから私も名前は誰にも名乗らない……ただの主のしもべです」
はぐらかすと思っていたが、Tは動く度にきらめく虹彩を輝かせながら、リサへとまっすぐに向き合う。リサも思わず姿勢を正し、Tの彫刻めいた顔を見つめ返した。
「……アキトは、私のせいで死んだんです」
不意に自身の口から飛び出した言葉に驚くけれど、Tは穏やかな表情で頷く。
「神の慈しみを信頼し、あなたの罪を告白してください」
「わ、私、カトリックではないんですが……」
「大丈夫です」
いつもの雑多な事務所に西日が差し込み、見慣れた景色が不思議と神聖な空間に変わる。立ち襟の神父がまとうキャソックを着たTが、それまで会話していた人ではなくなく、もっと神々しい存在のように錯覚した。
「アキトが家を出ていった時、いつもみたいに何か言えば……せめてついていけばよかった。喧嘩したばかりだから、少し困ればいいと思っていただけなのに、まさか車にひかれてしまうなんて」
兄が死んでからずっと抱えていたわだかまりを口にし、恐怖と後悔が解けて涙となって滴り落ちていくようだった。涙の粒が顎先から落ち、手の甲で弾けて砕け散る。
思考は散漫で時系列を語ることさえできず、傍から聞いているTにはなんのことかわからないだろう。それでもTは何も口を挟まず、やはりまっすぐにリサを見やっていた。
あとからあとから涙が溢れ、何も言えずに俯くリサの許に寄ると、その肩に温かな手を置く。
「神に立ち返り、罪をゆるされた人は幸いです。悲しむ者もまた幸いです」
Tを見上げるリサに、彼は薄めの唇で笑みを作る。
「なぜなら、主に慰められるからです」
力強い言葉に、涙を頬につけたままリサは呆気にとられた。彼が綺麗にウィンクをしてみせたところで、隣の部屋から大きな物音がしてリサは飛び上がる。
「おい、なんの音だ……!?」
部屋から飛び出したアーネストは、Tが部屋の隅に置いていた聖水入りのペットボトルにつまずき、盛大に床を転がり滑っていく。
「行きましょう、今こそ『パラノーマル・リサーチ社』の力の見せどころですね」
目の前まで転がったアーネストを助け起こし、Tは満面の笑みを浮かべてそう告げる。アーネストは慌てて立ち上がりつつ、眉尻を吊り上げた。
「おまえはうちの社員じゃないだろうがよ!」
アーネストの指摘も意に介さず、Tは先頭を颯爽と歩き始める。
Tの事務所の扉は、鍵をかけていないはずだというのに開かなかった。押せばわずかに揺れることから、どうやら内側に物が置かれているか、もしくは姉弟のどちらかが押さえているのだろう。
「今から叩き割りますので、人がいるようでしたら避難してくださいね」
扉を数度押して確かめてみてから、Tは爽やかな笑みを浮かべて部屋から持ってきた斧を振り上げる。
「待て待て待て! おい、誰か押さえてるならすぐに逃げろ!」
アーネストがTに飛びつき押さえるより早く、振り下ろされた斧が凝った模様がなされた木製のドアに突き刺さった。中からイザベラの悲鳴があがるものの、音に驚いただけで誰かが押さえていたわけではないらしい。
数度振り下ろし半壊したドアをTの長い脚が蹴り上げ、リサ一人なら出入りできるほどの穴を開けた。
大きな破壊音に驚き、階下のピザ屋の店員である中東系の女の子が一人、眼を丸めてTの凶行を見つめている。神父姿の美しい男が、斧を振り上げて破壊に及んでいる様は、状況がわかっている人間にとっても異様な光景だ。
「机で押さえられていたみたいですね」
中を覗き込んだTが、無邪気な笑顔を浮かべて振り返り二人に報告する。
「私が中に入ってどかしてきます」
破壊されたドアの棘に気をつけながら、こじ開けられた穴から中に入って机の上に乗り、部屋の中をぐるりと見まわす。
「イザベラ? ノア?」
そっと呼びかけるも返事はなく、わずかに西日が本棚の隙間から漏れるだけで、相変わらず部屋は薄暗い。
机の上から降りた瞬間、右足首を強く握りしめられ机の下へと引かれる。リサの軽い体は容易に尻もちをつき、そのまま机の下へと引きずりこまれた。
薄暗いなか目の前にぼんやりと見えた影は、アキトの顔をしたノアだった。リサも見たことのない、エンバーミングが施される前の事故直後の顔なのだろう、頭から血が流れリサの頬に赤黒い粒が落ちる。
「リリー……」
か細く泣き出そうな、それでも恨みが籠った声で彼が呟く。
その声を聞いた瞬間、リサの全身から冷たい汗が噴き出したが、恐怖以上に罪悪感が押し寄せて体が震えだした。
「ごめんなさい、ごめんなさいアキト!」
涙があふれ出して目の前が歪み、頬に垂れた彼の血と涙が交ざり合い流れ落ちていく。Tは『アキトではない』と言ったけれど、目の前に懐かしい顔があるのに、他人だと判断することはできない。
大きく開かれたノアの口には、車と衝突した際の衝撃で折れたのか数本の歯しかなく、どれも血に赤く塗れている。リサは喉元まで叫びがせり上がるものの、体が硬直して声さえうまくコントロールできない。
「ごめん、アキト。私、あなたと……」
一緒に行くよ、と言いかけたところでテーブルの上でギシリギシリと、誰かが歩く音がする。
「……Tさん」
考える間もなくそう呟いた瞬間、部屋中にいろんな声の小さなささやき声が湧き立つ。この悪魔祓いの儀式まで、幽霊の類など見たことなかったリサでさえ、部屋中にひしめき合っているような彼らのささやきが聞こえた。
それはリサの背後にある床、耳のすぐうしろでも聞こえる。
「Telum(武器)」
泣き声交じりの男性の声が小さくそう言い、すぐに消える。
ノアが頭上を見上げて動きを止めたため、リサは彼の腕を振り切って机の下からどうにか這い出す。見上げた先でTは天井にぶつかりそうになる長身をわずかに曲げ、机の真ん中で斧を手に不敵な笑みを浮かべていた。
「Timor(恐怖)」
「Tempestas(嵐)」
ざわめきはやまず、それでもふたたび歩き出したTを見た瞬間からリサの中の恐怖は霧散する。薄暗い中でも彼の目は光を反射させ輝き、容姿を超越した圧倒的な美が満ちていた。
「Nomen mihi Terra Tuta est.(我が名は恵みの大地)」
Tの言葉から逃げるかのように、机の下から四つん這いで飛び出したノアは、そのまま壁から天井まで駆けていく。重力に逆らわないのは彼の髪だけで、軽快に机から降りたTと向き合う。
「Ego sum Tuba Tenebrarum.(私は暗闇のラッパ)」
朗々と喋りながら、Tはまだ半分残っている聖水が入ったペットボトルの口を親指で押さえつつ、わずかに漏れる液体を散らして十字をきる。
その瞬間ざわめきは消え部屋は静寂を取り戻し、ノアは怯えた様子で天井の隅へと後退していく。
「主よ。私を平和の道具としておつかいください」
Tはノアを見上げたまま、口元に慈しみを含んだ微笑を浮かべた。
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