第7話 Sさんに起こったこと
初めて聞く聖の父親の話にホンは興味津々だった。聖は父親の話をする時、半分怒ったような、半分笑ったような表情をして見せたが、そこからも仲の良い親子であることは垣間見えた。良いなあ、お父さんて。
ホンは生まれたときから父親がいない。母親のガイは意識的に父の話を避けているように見えた。父親の話は、デーン伯父や、デーン・ガイ兄妹の親代わりだったブンとカム夫妻から断片的に聞いただけである。ガイ、デーン、そして実質的な祖父母ともいえるブン、カムから愛情を注がれて育ったので、別に寂しいと思ったことはなかったけれど、ホンたちの不思議な能力のこともあって、「父なし子」ホンについてヒソヒソ噂する村人たちもいた。
父さんかあ…まだ生きていると思うけれど、あっちはあっちで娘の事を思い出したりすることはあるんだろうか。それとももうすっかり忘れて、新しい家族を慈しむことに夢中になっているんだろうか。
一瞬、ボーっとなり、集中力が途切れたホンをデーン伯父が心配そうに見つめている。慌てて顔を上げると、画面の向こうで聖がすまなそうな表情をこちらを見つめていた。「ホンさん、ごめんなさい。私のアホな父の話のせいでホンさんを飽きさせてしまいましたね」
「違う違う」ホンは慌てて頭を横に振った。「クマーン・トーン…そうそう、そのSさんが遭遇した偽クマーン・トーン騒動ってなんだったんだろう、って考えてただけ」
「そうでした。Sさんの話に戻りますね」聖はSさんの話を再開した。
何者かに侵入されそうになったSさん。部屋への侵入はその後なくなったものの、外にいる間、どこからか視線を感じることがしばしばあった。しかしSさんは当初、この不審者とクマーン・トーンは無関係だと考えていたらしい。なので、クマーン・トーンへの供養は毎日欠かさず行っていた。お菓子と清涼飲料水を供え、教えてもらった呪文をひたすら唱えた。
数日経った深夜、突然それが起こった。何かが這い回る音が聞こえだしたのだ。カサカサ…という音。Sさんはゴキブリか?と起き上がり、殺虫剤を探すべく照明を付けた。物音が聞こえたのは確かクマーン・トーンを置いた書棚の方だ。Sさんは殺虫剤を掴むと、書棚の下の方に向かってシューッと噴霧した。いつもなら瞬間で断末魔に呻くゴキブリのシャカシャカ動き回る音が聞こえてくるはずなのに、その晩は妙に静かだった。あれ?おかしいな。まあ、一瞬で昇天したんかな、ほな静かに書棚の後ろで成仏してくれ、明日始末するから…Sさんはそう思った。
次の日もその次の日も深夜になると這い回る音が聞こえてきた。カサカサ…という微かな軽い音は何日も経たないうちにヒタヒタ…というやや重量感のある音に変わってきた。音が聞こえる範囲も書棚の周りから次第に拡大し、まもなく部屋のあちこちから聞こえてくるようになった。まるで「なにか」が実体をともないつつ、室内をぐるぐる回っているようだった。昨晩はヒタヒタどころか、ズンズンという振動がベッドの足伝いにSさんの身体に伝わってきた。しかも、よく考えてみると、這い回るというより、走り回っていると言った方がピッタリくるように、動きに速さも増してきている。
これゴキブリちゃうわ…ゴキブリよりもずっと大きいものや…もしかして…これは…これはとうとう来たんか?俺に運をもたらすヤツが。Sさんは布団の中で思わずガッツポーズを取った。
さらに1週間ほどすると、Sさんは昼間でも「気配」を感じるようになった。仕事から帰ってアパートのドアを開けると、スッと物陰に隠れる小さな影を見るようになった。いよいよクマーン・トーンが居着いたぞ…とSさんはそう考えた。
しかし、Sさんが期待するような「良いこと」は全く起きなかった。試しに買ってみた宝くじも馬券もことごとく外れた。会社で密かに思いを寄せている経理課の女性も相変わらず自分には冷たいままだ。あれ?おかしいな。なんでやねん。
「オマエ、大丈夫?」隣のデスクでPCに向かって作業をしていた同僚にSさんはいきなり聞かれた。
「大丈夫ってなに?」
「いや、なんか、顔色悪いんちゃう?」
「え?ホンマ?」そう言われてみれば、最近、身体が怠いような気がするし、なんか変に肩がこってるわ。首回すたびにボキボキいってる…。
オマエの肩、えらいボキボキ鳴るなあ…芸にできるんちゃうか、と呆れる同僚の顔を見ているうちに、改めて何かがおかしいことに気づいた。ここ数日を思い出してみると、マトモな食事をしていない。冷蔵庫に入れている食材が異様な早さで腐るのだ。昨日買ったばかりの牛乳、肉、卵、もう腐っている。仕方ないので毎晩カップ麺だ。クマーン・トーンを祀ることに夢中になっていたが、これでは身体もおかしくなる。幸運が舞い込む前にバテてまうわ。今日は久々に外食して帰るか。
そう思ったSさんは駅前の居酒屋で夕ご飯を食べ、それからアパートに帰宅した。ドアを開けると室内からウッ…となるような腐敗臭が漂ってきた。なんで?暗闇に目を凝らすと、蠢く小さな影。慌てて照明をつける。いつも通りの部屋。いつの間にか腐敗臭も影も消えている。
さっきの匂いはなんだったんだろう。クマーン・トーンが居着くと部屋は臭くなるんか?もっと色々聞いておけばよかった。骨董屋は「毎日拝むと1週間くらいでクマーン・トーンの魂が宿る」と言っていたはず。「供養せんかったらどうなるん?うまく祀れなかったら?」と聞いたら、少し笑いながら「その時は、クマーン・トーンの魂は去ってしまい、別のところに行くだけだ」と言っていたな。だったら気に入らなかったら、拝むのをやめれば良いのか。Sさんはそんなことを考えながら、ベッドに潜り込んだ。
真夜中だった。Sさんは鼻先を掠める嫌な臭いで目が覚めた。腐り始めた動物の死骸と土の匂いが入り混じったような臭いだ…Sさんはぼんやりとそう考えた。その瞬間、耳元でささやき声が聞こえた。
「ティーナイ?」
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