《問われる意志》8


 王都の南門が、静かに開かれた。


 陽光に照らされながら、疲弊した兵たちが緩やかな列をなして砦からの帰路を歩む。

 その先頭に立つのは、若き王セイルと、魔女リィゼ・クラウス。


 セイルは一歩ごとに何かを噛みしめるように前を見据え、隣を歩くリィゼの肩を支えていた。


「……無理は、しなくていい」


 その静かな声に、リィゼはかすかに頷いた。

 だがその顔は、すでに血の気を失い、蒼白に沈んでいた。


 幻兵たちはすべて霧とともに消え去り、彼女の内に残る魔力もなお乱れたまま。

 視界は揺らぎ、音は遠のく。

 それでも、彼女は歩いていた。王の隣にあって、足を止めずに。


 王都の石畳が、いつもの静寂を取り戻した街をゆるやかに広がっていく。


 群衆は、沈黙していた。

 勝利の歓声はどこにもなかった。

 ただ無言のままに向けられる視線が、鋭く彼女を刺し貫く。畏れ、戸惑い、そして希望。


「……リィゼ?」


 門をくぐったその刹那、彼女の身体がふいに傾いだ。

 セイルが抱きとめたときには、彼女の意識はすでに深い闇の底へと沈んでいた。


「リィゼ! ……誰か、医療班を呼べ!」


 王の叫びが、石畳に張り詰めた静寂を震わせるように響きわたった。





 ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇




 それから三日――

 リィゼ・クラウスは、王宮の一室で深い眠りに囚われていた。


 その呼吸は浅く、魔力の鼓動も不安定なまま。

 名だたる医師や呪術師たちが交代で診立てにあたったが、

 彼女の意識が戻らない理由を、誰ひとりとして見出せなかった。


 そしてその間に、今こそが好機と見る者たちが、静かに動き出していた。


 議会の一部、神殿の重鎮、そして軍務官たち

 彼らは、封印の再施行を、極秘裏に進めていた。


「目覚めぬ魔女を、このまま放置はできぬ」

「災厄を再び呼び込まぬためにも、今しかない」


 あの時と同じように、かつての封印術式が、再び神殿の奥へと持ち込まれた。


 王への正式な報告は、まだなされていない。

 だが、リィゼの眠る部屋の前にはすでに神殿の使徒が立ち、無言の監視を始めていた。


 重ねられる封符、祈りと称される呪の声。

 それらは癒しのためのものではない

 彼女を、再び“兵器”として封じるためのものだった。


 リィゼ・クラウスは、まだ目覚めぬうちに、再び棺に沈められようとしていた。





 ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇





 王宮の一角、神殿へと続く白き回廊に、硬質な足音が響いた。

 その歩みの主は、王セイル。


 その眼には、怒りに近い鋭い光が宿っていた。


 封印の準備が進められている。その報せが彼に届いたのは、ほんの数刻前。

 それは密やかな声であったが、確かに、心ある者の願いが込められていた。


「……リィゼを、またあの棺に閉じ込めるつもりか」


 押し殺すように洩らした呟きは、石の壁に吸われて消える。

 けれど彼の胸の奥には、なお炎が燃えていた。


 神殿の大扉の前に立つと、二人の神官が進み出て、頭を垂れつつ行く手を遮る。


「王よ、今は神事の最中にございます。魔力の乱れを鎮めるため、しばしご退室を――」


「……退け」


 その声は低く、しかし一歩を踏み出すごとに、空気を震わせる威圧を帯びていた。

 神官たちが息を呑む間もなく、王は扉に手をかけるでもなく、

 まるで風が押したように、

 神殿の扉が、音もなく開かれた。


 その先には、封印の儀を整えつつある神殿の主たちが立っていた。

 高位司祭、儀礼士、護衛たち、そして聖女イレーナ。


 石畳に刻まれた古の印章が淡く光を放ち、神聖なる祈りの旋律が、緩やかに空間を満たしていた。


 中央に据えられた魔法陣は、すでに最終段階へと至っていた。

 その中心に、まだリィゼの姿はなかった。だが、時間の問題だった。


「お待ちください、陛下! これは、国を守るための――」

「それが国を守ることだと、誰が決めた?」


 その声は静かだった。だがその響きは、刃のように空気を裂いた。


 セイルは壇上の司祭を見据え、言葉を重ねた。


「……彼女は剣かもしれない。だが剣は、鞘に戻せばいい。地の底に埋めてはならない」


「陛下……彼女は災厄そのもの。もし再び暴走すれば、王都は――」


「ただ恐れて封じるのではなく、信じて共に歩むべきだ。 彼女は、意志を持つ者だ。 国を救った者を、恐れの名のもとに閉じ込めるな」


 それは飾り気のない、若き王のただの言葉。

 だがそこには、誰よりも深く、リィゼ・クラウスと向き合ってきた者の信念が宿っていた。


 司祭たちは、言葉を失った。 そしてその静寂の中で、

「封印の儀は、停止せよ」


 セイルの言葉が告げられた瞬間、聖女イレーナが神杖を魔方陣に向けて突いた。

 刻印は音もなく消え失せ、神殿を包んでいた緊張が、すっと解きほぐれていった。


 その隅に置かれていたのは、ひとつの古びた石の棺。

 かつてリィゼを封じたもの。沈黙と犠牲の象徴。


 セイルは、しばらくそれを見つめ、そして静かに背を向けた。


「彼女が目覚めたとき、最初に耳にする声は…… 疑いではなく、希望の言葉でなければならない」


 そう言い残し、王は神殿をあとにした。



 王宮の寝所では、いまだリィゼ・クラウスが夢の底に揺れていた。

 そして、ただひとつの声だけが、彼女の眠りの先に届こうとしていた。

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