《銀の丘》2

「……ただいま」

 小さく呟いた言葉は、霧に溶け、花々の間に消えていく。


 彼女の足が止まる。

 そこには、いくつもの墓標が静かに並んでいた。

 無名の兵たち。名誉を授けられず、ただ祈りだけを刻まれた石。


「……起きて」

 リィゼはそう囁いた。

「昨日のお礼を、まだ伝えていなかったから」


 その声は、丘の空気を震わせた。

 やがて、風が吹いた。

 銀の花びらがふわりと舞い上がる。

 そして――数人の幻兵たちが、霞の中からゆっくりと姿を現した。


 鋼のごとき肉体を持ちながらも、彼らは決して威圧的ではない。

 むしろ、そこには祈るような静謐があった。

 彼らはただ、空を仰いでいる。

 まるで朝の光を見つめるかのように。

 風に揺れる花の中に静かに立っている。


 剣を携え、鎧を纏いながらも。

 その足元に咲く銀の花々は、まるで彼らの“魂”を宿しているかのように、凛とした気配を放っていた。


 リィゼは、彼らの前に立つ。

 その瞳は、幻兵たちの無言の視線をしっかりと受け止めていた。


「……おはよう」

 彼女の声は、風に溶けていくように静かだった。


 誰も答えない。

 幻兵たちは言葉を持たない。

 だがその沈黙には、どこか温かなまなざしのようなものがあった。


「ほんとは、来るつもりなんてなかったのよ。 こんな顔で、あなたたちに何を言えるっていうの」


 リィゼはそっと視線を落とした。

 花々の向こうに、かつて命を散らした者たちの影が見える気がした。


「でも……昨日、あなたたちは答えてくれた。 あの絶望の戦場で。 何も言わず、ただ、立って、戦って――国を守ってくれた」


 声が震える。


「私は、ずっと……力を恐れてた」

 リィゼは静かに膝を折り、土に触れた。

「この手で生まれるものも、滅ぼすものも、どちらも怖かった。 あなたたちが“私の魔法”によって生まれたのだと、そう思うたびに、背筋が凍った。 命を軽んじてるように感じられて」


 幻兵たちは何も言わない。

 だが、彼らの影がわずかに揺れたように見えた。

 それは風のせいか、それとも――


「……でも、あなたたちは生まれた。 私の命令ではなく、祈りに応えて。 誰かを守りたいという願いに導かれて。本当にありがとう」



 そのとき――

 一人の幻兵が、そっと歩み寄ってきた。

 ひときわ立派な装備を携えた幻兵だった。

 彼は無言のまま、リィゼの肩に手を置いた。


「……ディクソン」

 リィゼは懐かしむように、その名を呼んだ。


 彼女の頬を、一筋の涙が伝った。

 それは悲しみでも、悔しさでもなかった。


 彼女は顔を伏せる。

 その肩に置かれたディクソンの手が、わずかに力を込めたように感じた。


 リィゼはその温もりを確かに感じていた。


 やがて、ディクソンの姿が淡く霞み、風に溶けてゆく。

 まるで「もう、大丈夫だ」と告げるように。


 そして、残る幻兵たちも一人、また一人と花びらの中に消えていった。

 誰ひとり、言葉は発さなかった。

 だが、その沈黙のすべてが、リィゼにとっての赦しに感じられた。


 丘には、再び静寂が戻る。

 ただ、風が吹いていた。

 その風は、リィゼの髪を揺らし、銀の花びらを天へと舞い上げる。


 リィゼはそっと立ち上がった。

 幻兵たちが立っていた場所を見つめ、その場に一礼する。


「……これが、私にできる唯一の罪滅ぼし」

 彼女は静かに呟く。

「あなたたちの祈りを、この国に届ける。 私の手で……もう一度」


 彼女の背に、朝の光が差し込んでいた。


 それは新しい夜明け。

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