《風は目覚める》9

 リィゼは、気づいていた。


 街のざわめき。人々の視線。空気に潜む微かな震え。

 そのすべてが、自分に向けられた感情であることを。

 それでも彼女は、一歩も止まらずに進んだ。

 誰にも背を向けず、誰にも媚びることなく、ただその姿勢だけを貫いて。


 城門の前。

 そこには、セイルが待っていた。

 リィゼが石畳の道を辿り、王城の前まで歩み寄ると、

 彼は民と兵たちの方へと声を響かせた。


「我らは勝った。多くの犠牲を払いながらも、この王国を守り抜いた。だが……この勝利は、剣と盾の力だけによるものではない。彼女がいた。リィゼ・クラウスが、我らを救ったのだ」


 その瞬間、広場にかすかなざわめきが走った。

 セイルの言葉に、人々は一瞬、声を失う。


 だがその沈黙はすぐに恐れの色へと塗り替えられていく。


 ――救ったのではない。

 ――圧倒したのだ。

 ――“あの力”が、我らの敵でなくてよかった……。


 心の奥底で、誰もがそう呟いていた。


 リィゼは、視線を逸らすことなく、静かにセイルへと歩み寄った。

 王子の隣に並び、民の前に立つ。

 ただそれだけで、何人かの者は、無意識のうちに後ずさった。


「……セイル。私がここに立つことが、彼らにとっては脅威になる」


 低く、だが確かな声で彼女は言う。


「私は君を再び封印などさせない。この国を救ったのは、君だ」

 セイルは短く、強く答えた。


 その言葉に、リィゼはほんのわずかに微笑んだ。

 けれどその微笑は、まるで遥かな場所に向けられたようで、

 この場にいる誰の胸にも届くことはなかった。




 ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇





 歓声はなかった。

 降り注ぐのは、恐れと警戒の視線と、言葉を呑み込んだ沈黙ばかり。

 それでも――私は歩き続けた。


 人は、理解を超えたものを恐れる。

 声なき幻兵たちの姿は、まさにその象徴だった。

 だが彼らは、ただ命じられたことを為したに過ぎない。


 ――私の祈りに、応えただけだった。


 歩みを止めることはなかった。


 王の前に立ったとき、セイルの瞳に宿る憂いを感じた。

 彼はまだ迷っている――けれど、その声には迷いがなかった。


「私は君を再び封印などさせない。この国を救ったのは、君だ」


 ――それだけで、救われるわけではない

 けれど、救われたと“錯覚”することならできた。


 城の石段を登る。

 広場に残る無数の視線を背に、リィゼはただ、前だけを見据えていた。


 風が、彼女の黒髪を揺らした。

 それはまるで、誰かの見えざる手がそっと彼女を撫でたようだった。




 ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇





「見た? 魔女が歩いてたんだよ、本当に! 目の前を!」

 石造りの街角に、小さな影たちが集まっていた。


 子どもたちは興奮と恐れが混ざった声で、今日の出来事を語り合っている。


「こわかった……。あの人、笑ってなかった。ずっと前を見てて、誰の顔も見てなかった」

「おれ、ちょっとだけ見た。あの人のまわり、だーれもいなかったよ。……なんで? 勝ったのに、なんで誰も“ありがとう”って言わなかったの?」


 誰も答えられなかった。


 そんな中、別の少年が口を開いた。

「……先生が言ってた。昔、悪い魔女だったって」


「でもさ、悪い人だったら、助けてくれないでしょ?王子さまも“彼女が救った”って言ってたよ?」


 言葉は宙に浮き、やがて沈黙が降りた。

 子どもたちの顔には、それぞれ違う色の影が揺れていた。


「ねえ……魔女って、本当にこわいのかな?」


 その問いに、誰も答えなかった。


 ただ一人、年かさの少女が、ぽつりと言った。

「こわいって決めたのは、大人たちだよ」




 風が通り抜けた。

 夕暮れの光が、石畳に長く伸びた影をやわらかに染めていた。

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