第1章 第6話 始動
翌朝。
灯火屋商会の狭い事務所に、薄い朝の光が差し込んでいた。
アルフレッド・ヴァインベルグは、既に机に向かっていた。
昨日用意した羊皮紙の束を前に、端から順に目を通している。
損益計算書。
売上、売上原価、販売費及び一般管理費、営業利益、純利益。
数字を拾いながら、流れを頭の中で組み立てる。
どこで利益が細り、どこで無理な膨張をしているか——。
ハンナ・メルヴィルも、机の端に座り、
震える手つきで羊皮紙をめくっていた。
まだ慣れない動きだ。
だが、目は真剣だった。
「この年、売上が一気に落ちてます……。えっと、三割くらい……」
ハンナが、そっと呟く。
アルフレッドは手を止めずに応じた。
「交易路が一本閉じた年です。それに、外征軍への納入契約も切られている。」
数字の裏にある出来事を、事もなげに拾い上げる。
ハンナは、驚き混じりに顔を上げた。
「えっ、そんなことまで……」
「公表情報を拾えば、わかることです。新聞、税関記録、商業登記簿——目を通せるものは全部目を通しました。」
アルフレッドは、言葉を区切ることなく、次の羊皮紙に目を落とす。
売上推移、利益推移をざっと確認したあと、貸借対照表に視線を移した。
未払金の増加、短期借入金の膨らみ。
そして、棚卸資産の滞留。
表に見えているだけでも、兆候は十分だった。
「在庫資産、要注意だな。古い物資が抱え込まれてる。」
アルフレッドは短く言い、赤ペンで印をつける。
ハンナは慌ててノートを取った。
アルフレッドは、さらに指先で貸借対照表をなぞる。
「……未払金の中に、鉱山関連の負債が残っている。権利関係がややこしければ、売却交渉で問題になるかもしれない。」
ぼそりと呟いた。
そして、貸借対照表の末尾。
特別損失として処理された項目に目を留める。
数年前、坑道崩落事故による損失処理。
「これも、買い手には見抜かれる。」
短く言い捨てると、赤で丸をつけた。
ハンナは、ごくりと唾を飲み込んだ。
数字の裏に、見えないリスクがいくつも潜んでいる。
アルフレッドはそれを、一つ一つ、迷いなく拾い上げていく。
まるで、羊皮紙に書かれた数字たちが、彼には声を持って語りかけているかのようだった。
昼を回った頃、作業はひと区切りついた。
机の上には、売上推移表、損益推移表、リスク項目まとめ。
赤く書き込まれた貸借対照表。
粗いながらも、案件の「輪郭」が立ち上がりつつあった。
アルフレッドは、筆を置き、ランプを調整した。
そして、ハンナに向き直る。
「これから、情報覚書を作ります。まずは対象事業の説明、収益推移、主要なリスク。それをまとめて、買い手候補に示す。」
ハンナは、大きく頷いた。緊張で肩に力が入っていたが、それでも顔を上げた。
「はいっ!」
アルフレッドは、少しだけ口元を緩めた。
そして、短く告げる。
「——動き出すぞ。」
事務所に、紙とインクの匂いが満ちる。
フォン・アーデルベルト家の、小さな、だが重たいプロジェクトが、いよいよ本格的に動き始めた。
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