独眼竜記 ―伊達政宗異聞 千年の龍、東北を翔ける―『俺は豊臣の家臣じゃねぇ──逆襲の刻を待つ!』
常陸之介寛浩◆本能寺から始める信長との天
プロローグ『そして、龍は空に還る──隻眼の覇者、その最期』
寛永十三年五月二十四日。江戸、仙台藩邸。
その日、空は高く澄みわたり、庭の青葉は初夏の光を受けてやわらかに揺れていた。蝉の声もまだ遠く、代わりに風が障子をかすかに鳴らすだけ。武家屋敷の一角にある奥の間では、一人の男が静かに、確かに、命の終わりに向かっていた。
その男の名は、伊達政宗。
かつて奥羽に覇を唱え、戦乱の世に“独眼竜”の異名を轟かせた武将。
豊臣秀吉に従い、徳川家康と渡り合い、そして家光の世に至るまで生き抜いた、稀代の傑物。
その男が、今や床に伏し、口数少なくただ天井を見つめている。
「……殿」
障子の外、静かに声が漏れる。
声の主は、黒脛巾組出身の女忍び──千代。
もはや忍びとしての任は解かれ、今では政宗の側仕えとしてこの屋敷に身を置いていた。
彼女にとって、政宗は主であり、命の恩人であり、そして……叶わぬ恋の人でもあった。
だが、今その男は、まるで夢の終わりを迎えるように、静かに、あまりに静かに死を受け入れようとしている。
「……千代、そこにいるか」
かすれた声が、室内から届く。弱々しいながらも、その響きには変わらぬ威厳があった。
千代は障子を静かに開け、畳の上を這うようにして政宗の傍らへと進み出る。
「ここに、控えております」
政宗の目が、片方の隻眼が、彼女をとらえる。その視線には、若き日のような鋭さはない。
だが──代わりに宿っていたのは、深く、静かな光。すべてを見通し、そしてすべてを受け入れた者だけが持つ、達観の輝きだった。
「……俺は、夢を見ていた。ばかでけぇ夢をな」
政宗の呟きは、まるで誰かに問われたかのように自然だった。
それは誰に向けられた言葉だったのか──千代には、わからない。だが、それでも頷きたくなった。
「殿の夢……私は、それをこの目で、ずっと見てまいりました」
東北を束ね、京へ目を向け、秀吉の前に頭を垂れて生き延び、家康のもとで息を潜めて虎視眈々と“その時”を待った。
そして結局、その“時”は二度と訪れなかった。
「……思えば、お前がいてくれたから、俺はこの命を失わずに済んだ場面も多かったな」
「恐れ入ります」
政宗の言葉に、千代は深く頭を下げる。その肩が、細かく震えているのは、気のせいではなかった。
「だがな、千代……最後の最後まで、俺は自由ではなかった。いや、自由だと信じたがっていたのかもしれねぇ」
その言葉に、千代ははっとする。
政宗という男が抱えてきた苦悩。その片鱗を、彼女は何度も目の当たりにしてきた。
豊臣のもとで飼い慣らされた日々。
徳川の世で羽ばたけぬまま老いてゆく自分。
「……檻の中の龍は、夢を見るしかなかったのでしょうか」
千代の呟きに、政宗はゆるく笑った。
「夢を見せるのも、また龍の役目ってな……」
薄れゆく意識の中で、政宗は空を見上げる。
かつて見た、奥羽の広い空。
死を覚悟して乗り込んだ小田原の空。
天下を夢見て、密かに家康と語らった江戸の空。
どの空にも、まだ“終わり”の色はなかった。
「千代。……愛を、頼む」
それは、これまで一度も口にしたことのない、政宗の“本心”だったのかもしれない。
女として生きることを望まず、忍びとして己を律してきた千代に向けての──唯一の、そして最後の求愛。
「……承知いたしました。殿の志、その魂のすべて……命に代えても、守り通します」
政宗の目が、静かに閉じられる。
障子の隙間から風が吹き込み、庭の青葉をさらりと揺らした。
その刹那、まるで空を舞う龍の影が浮かび上がったかのように、光と葉がひとつの形を描いた。
千代は、そっと目を伏せ、そしてゆっくりと立ち上がる。
「さようなら、我が殿。……我が、隻眼の龍」
その背に、涙はない。
だが、胸に宿る熱だけが、いつまでも消えなかった。
ここに、一人の男が死んだ。
だが同時に──
新たなる物語が、始まろうとしていた。
これは、伊達政宗の生涯を紡ぐ物語である。
その光と影、夢と挫折、謀略と誓い、そして愛。
戦国という混沌を駆け抜けた、隻眼の龍のすべてがここに在る。
さあ、語ろう。
まだ空が青かった、あの日々を──。
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