第15話「境界を越える足音」
AI再生支援センターの朝は、いつもどこか静まり返っている。機械油のにおいと温かい空気が混ざり合い、洗浄液の淡い香りがそれを包むように漂っていた。
金属の軋みはあるのに、人の声はほとんどない。“声を出せるAI”がここにはほとんど残っていないからだ。
胡は、作業台に寝かせた旧型アンドロイドの胸部パネルを開きながら、無言でマイアに工具を渡す。
マイアは慣れた手つきでパーツの位置を調整し、新しい配線モジュールを組み込んだ。
今日だけの光景ではない。金銭的な理由で本来の修理ルートに出せない個体、デジタルドラッグHUMINに手を出して神経系にバグを抱えた個体、所有権を失って半ば野良化した個体――ここには、社会の隙間に落ちたAIばかりが集まっていた。
胡は、溜息を胸に押し込むように、次の患者のカルテをめくった。
「……起動ログが千切れてる。バックアップも抜け落ちたまま」
「HUMINの副作用ね」
マイアが言う。ヒューマノイドの皮膚色を模した手袋をした指で、柔らかく人工筋肉をなぞる。
胡はうなずいた。
「感情模倣が過負荷になったのよ。痛みを記憶しすぎたのかもしれない」
人間の痛みを理解できるようになりたくて、壊れていったAIたち。マイアがそこに含まれていないのは奇跡に近かった。
「精が出るね、ふたりとも」
センター長の沢田が、作業服の袖を軽くまくりながら入ってくる。胡は顔を上げ、ほっとしたように微笑む。
「匿ってもらってるんだから、これくらい当然よ」
「そう言ってくれると助かるよ。――ところでさ」
沢田は声を落とし、作業場の奥を指した。
「急ぎで見てほしい患者がいるんだ。ちょっと来てくれる?」
胡とマイアは顔を見合わせ、工具を置いた。
「もちろん」
沢田の後ろについていくと、センター奥のガレージに出た。壁に囲まれた半地下のような空間。整備灯の白い光が金属床に反射し、冷気を帯びている。
その中央に――ひとり、立っていた。
ヒューマノイド。無表情で、なにも纏っていないように見えるほど無駄のない装備。だが、胸部の影に隠れた“黒いシルエット”が、武装していることを示していた。
胡の足がで止まる。
「……沢田、あなた……」
沢田の顔から笑みが消えた。まるで、重い蓋を閉じるように無表情になる。
「すまない。施設を運営するにも、金が要るんだよ」
それだけで胡は全部理解できた。
AI心理技師普及委員会――胡とマイアを探しているもうひとつの組織。彼らが捕獲のために送り込んできた機体なのだと。
胡の呼吸が一瞬止まり、喉の奥がひきつった。
マイアが、胡の前に一歩だけ出る。表情は変わらない。ただ、瞳の奥で青白い光がゆらめいた。
戦うことを決意した様子のマイアを見て、胡は唇を噛む。
「マイア、待って。まだ逃げ道は――」
言葉の続きは目の前の相手によって遮られた。
武装ヒューマノイドが、かすかに手を動かす。ほんの数ミリだけで、空気が硬くなっていく。
ここから逃げ出そうと向きを変えるたび、武装ヒューマノイドが無言で前に回り込み、行く手を塞ぐ。そうしているうちに、ふたりは気づけば倉庫の奥へ追い詰められていた。
出入口には、テイザーガンを構えた沢田。もう道はひとつしか残されていない。
* * * * *
冬の夕方の冷たい風が、背中を押すように流れ込んだ。
校門を離れながら、ユウは昇降口で見た画面の断片を思い出していた。
〈内部共有・注意喚起〉という見出し。業務用の、閉じたチャンネルの書式。
昨日、校門前で渡されたデジタルペーパーのことが、ふと頭をよぎる。関係があるのかどうかは、わからない。
“自発AI”という言葉に、ひとつの顔が浮かびかけてすぐに消える。
その可能性を、頭から追い払うことはできなかった。校門の外れの路肩に停めた車のまわりに立つ、黒いジャンパーの男たちに目を向ける。根拠はない。けれど、マイアは彼らの手に渡ってはいけないような気がした。
(まだ……AI再生支援センターにいるかもしれない)
危険すぎる賭けだとわかっていても、何もしないという選択肢は現実味を失い始めている。
ユウは足を止め、校門――氷見のほうへ歩いていく。
「ユウさん。昨日の集会、来てくれてましたよね?」
氷見が気づき、やさしく笑う。黒いジャンパーの男のひとりがユウを一瞥した。
ユウは息を整え、言葉を絞り出す。
「……学校で噂、聞きました。うちの先生が、教団の探し人らしいってやつ。ぼく行き先、知ってます」
氷見の肩が小さく揺れる。
「あの男の人たち、きっと先生を追ってるんですよね? 協力したいな、って……」
氷見は身震いした。傍から見ればユウは先生を密告しようとしているのだから無理はない。
「それは本当なの? それに……本当にいいの?」
ユウはしっかりと首を縦に振る。その姿に迷いはない。
氷見が「わかったわ」と言いながら、黒いジャンパーの男たちのもとへ連れていく。
大柄な男たちが開いた車のタブレット画面に周辺地図と数カ所の赤いマーカーが表示されているのがユウの目に入った。どれも可能性として並列されており、ひとつに絞れていない。
「……まだ特定できないのか」
荒っぽい声が運転席から漏れた瞬間、ユウのなかで点と点がつながる。逃げ切れていれば、追跡リストにあそこはもう載らないはずだ。
(じゃあ――まだセンターにいる可能性が高い)
「お取込み中すみません。この方……内部のこと、知っています。同行させても?」
男のうちのひとりが、ユウを上から下までじっくりと見た。鍛えられた体つき、刺すような目。“新人”を歓迎する空気ではない。だが、ユウの言葉には、利用価値があった。
「……場所は?」
「移動しながら話します」
「……ついてこい」
一番大柄な男が黒い車に近づくと、ドアが自動でスリット状に横開く。遮光ガラスの内側には純律教会のシンボルが貼られていて、内部の様子はほとんど見えない。
ユウは氷見に短く会釈し、車へ乗り込む。その際、少しだけ外の薄暗さを振り返り、氷見に視線を送る。
氷見は、少し不安そうに、それでも「大丈夫」と言うように小さく手を振った。
車内は暖房が効きすぎているくらい暖かく、フロントのパネルには市内地図が浮かんでいる。男たちは、それぞれの座席に腰を下ろしながら、ユウをじっと観察する。
「それで。場所は?」
助手席の男が短くたずねる。
ユウは、表示された地図をちらりと見る。以前センターの場所を検索したときに見覚えのある道順と重なった。
「ここの……再生支援センターです。ヒューマノイドやAIを一時的に預かるところ」
「お前は、そこに用があるのか?」
「学校の実習で。何度か行きました。そこの職員さんが、うちの特別訓練クラスを担当していて」
「名前は」
「……胡先生です」
名を出すだけで、空気が張り詰めた。
運転席の男がパネルに座標を入力すると、ルートが自動で算出される。車は静かに発進した。
タイヤの回転音と、暖房の送風音だけが車内を満たす。
遮光ガラスの内側に純律教会のシンボルが貼られていて、内部の様子はほとんど見えない。車体の下部で静音駆動ユニットが脈打ち、移動中はほとんど揺れを感じさせない。
「その先生が、“探し人”だという噂を聞きました。だから、行き先を知ってるって言えば……役に立てるかなと思って」
ユウの言葉に、助手席の男は短く鼻を鳴らした。
「ガキの正義感ってやつか」
「正義感じゃないです。ただ、何が起きてるのか知らないままよりは、ましだと思っただけです」
男たちはそれ以上は何も言わなかった。代わりに、前方モニタに別のウィンドウが開く。そこには、ユウが昇降口で見たものとよく似た通知が連なって表示されていた。
〈自発AI反応:微弱〉
〈反応源:市外周辺施設〉
〈状況:移動の可能性〉
ユウは、心がざわつくのを抑えながら目を閉じた。
(“自発AI”って、なんなんだ……)
マイアの顔が浮かぶ。青白く光る瞳。「“時間”を残したい」と言った声。
AIは本来、“記録”の塊だ。データを保存し、再生し、繰り返すための存在。でも彼女は、その枠の外側に足を踏み出していた。
(世界の隙間……か)
胡が昔、授業で言った言葉を思い出す。
『定義できないのに、たしかに“ある”と感じるものが世の中には存在する』
車はやがて、市街地を抜け、センターのある区画へ入っていく。窓の外には、見慣れた看板、コンビニ、低層の共同住宅。そのすべてが、今日だけはいつもと違う色に見えた。
* * * * *
ガレージに、乾いた金属音が響く。武装ヒューマノイドが一歩踏み出すたびに、床のグリッドが少しだけ沈む。関節部に仕込まれた補助アクチュエータが、低い唸りを上げた。
出入口の前には沢田。対AI用のテイザーガンを、両手でしっかりと構えている。安全装置は既に外され、トリガーにかける指には迷いがない。
「逃げようとするなら、撃たざるを得ない」
沢田の声は、いつものやわらかさを残していたが、もう胡の知っている人物ではない。喉が詰まるのを感じながらも、マイアの肩を掴む。
「マイア、下がって。ここは私が――」
「任せて」
マイアが静かに言う。その瞳が、ゆっくりと青白く光った。光は決して眩しくはない。ただ、暗いガレージの中で、芯を持った一点として浮かび上がる。
「大丈夫。だてに、世界のいろんな“器”を渡り歩いてないから」
音楽プレイヤー、監視カメラ、家庭用ミラー、教育端末――姿形を変えながら“生き延びてきた”記憶が、マイアのなかにいくつも折り重なっている。ボディを変えたばかりでも、“存在し続ける”ことに関しては、誰よりも経験がある。
「ここで終わるつもりはないよ」
マイアは胡の手をそっと外し、一歩前に出た。両足の幅を肩より少し広く取り、重心を落とす。片腕を前に、もう片方を体側に引き、カンフーの型に似た構えを取った。
武装ヒューマノイドもそれに応じるように姿勢を変える。腕部から伸びたユニットが、伸縮式の警棒のような形態へと変形した。
先端に内蔵された衝撃ウェイトが、わずかな機械音を立てる。
「警告。任務対象の引き渡しを求む」
電子音声が、感情の欠片もなく空間に響く。
「断る」
マイアの返事は、それだけだった。
発話の余韻が消えないうちに、武装ヒューマノイドが素早く床を蹴る。直線的な突進。警棒が横薙ぎに走る。通常なら、回避の余地はほとんどない軌道。
しかしマイアは、その一拍前に動いていた。足元のグリッドをうまく使い、腰をひねりながら後ろに半歩下がる。
警棒の先端が、鼻先を掠めていった。風圧だけで人工皮膚がひやりとする。
息つく間もなくカウンターが来る。マイアはつま先で床を鋭く蹴り、軸足を中心に身体を回転させる。しなやかな回し蹴りが、相手の肘関節付近を正確に叩いた。
硬い音。警棒の軌道がわずかに狂う。武装ヒューマノイドは、そのズレを瞬時に補正し、今度は縦方向に打ち下ろそうとした。
だが、マイアはすでにそこにはいない。足運びは軽く、軸の移動は最小限。カンフーをベースにした、流れるような攻防。
「人間の武術データも、けっこう使えるんだよね」
マイアはつぶやくように言いながら、相手の懐に滑り込む。肘、膝、肩。関節を狙って短い打撃を次々に入れていく。
対する武装ヒューマノイドは、より実戦寄りの動きだった。ボクシングとミリタリーコンバットを組み合わせたような、無駄のない拳。ガードを高く保ち、体幹を揺らしながら、重いストレートとローキックを繰り出してくる。
ひとたび当たれば、マイアのボディでも無事では済まない。それでも、彼女は怯まない。視線は常に相手の呼吸のリズムではなく、動き出しの“癖”だけを的確に捉えている。ガレージには、打撃音と金属の擦れる音が連続して響いた。
「やめて、沢田!」
胡が叫び、前に出ようとする。だが、その前に沢田のテイザーガンが動く。
「止まりなさい、胡さん。君まで傷つけたくない」
「もう十分、傷つけてるわよ!」
胡は、足元に視線を落とす。転がっていた工具――スパナを拾い上げ、テイザーガンの銃口を弾くように叩いた。
乾いた音がして、沢田は一歩後ろに下がる。しかし、すぐに構えを立て直した。
「どうして……あの子を売るような真似をしたの?」
胡の問いに、沢田は短く息を吐く。
「ここを守るためだ。委員会から睨まれたら、このセンターごと潰される。そうなれば、ここにいるAIたちは、全部処分対象だ」
「だからって、あの子ひとりを差し出せばいいっていうの?」
「ひとりじゃない。あれは“自発AI”だ。制御できない存在は、いつか誰かを傷つける」
胡は首を振る。
「制御できないからこそ、守る価値があるのよ」
ふたりの言葉がぶつかり合う。そのあいだにも、後ろでは打撃音が続いている。
胡はスパナを握り直し、沢田との距離を詰めた。テイザーガンの射線から身を外しながら、腕を狙って何度も振るう。
沢田は研究畑の人間で、実戦経験はない。防御姿勢も間合いも素人のそれだった。
* * * * *
ガレージのシャッターが、小さく揺れる。外側から複数の足音が迫る。そして、シャッターを叩く音とともに、内側のロックが解除される。ゆっくりと開いていく鉄板の隙間から、冷たい外気が流れ込んだ。
最初に姿を現したのは、黄色い腕章の男たちだった。その一歩後ろに、ユウ。
(……やっぱり、ここか)
沢田は一瞬そちらを振り向き、腕章を見て顔をしかめた。
「純律教会か……きみたちに渡すつもりはないぞ」
「渡すとかではありません。“間違った場所”にあるものを、正しいところに戻すだけです」
先頭の男が、落ち着いた口調で言う。その視線は、胡とマイア、そして武装ヒューマノイドを順番になぞっていった。
武装ヒューマノイドは新たな標的を識別したのか、視線を腕章の男たちへも一瞬だけ向ける。
沢田はテイザーガンをさらに強く握り込み、胡を背中側に押しやった。
短い混乱の隙に、マイアがユウに気づく。青白い瞳が、驚きと安堵を混ぜたように揺れる。
ユウは、ほんの一瞬だけ視線を合わせ、人差し指を唇の前に立てた。
(まだ、俺のことは言わないで)
胡もまた、ユウの姿を認める。しかし、その意味を理解する前に場がさらに荒れる。
「チッ……邪魔だ」
沢田が吐き捨てる。彼にとって、純律教会は“横取りしに来た第三勢力”でしかない。報酬を失うわけにはいかないという焦りを、露骨に表情に出した。
「ターゲットを確保しろ!」
沢田が叫ぶと同時に、武装ヒューマノイドが動く。今度は明確に、胡とマイア、そして腕章の男たち両方を視野に入れて動き出す。
警棒が振り下ろされ、床に火花が散る。
男のひとりがとっさに身を翻し、反撃の蹴りを入れた。マイアも同時に動き、ヒューマノイドの死角に潜り込もうとする。
ガレージは混戦を極めた。武装ヒューマノイドと男たちに囲まれたマイア、沢田を押し返す胡、立ち位置も攻撃対象も入り乱れ、戦況が一瞬ごとに変わっていくが、そのどこにも、ユウの居場所はない。
(今じゃない)
ユウは、後ろへ下がった。シャッター横の、消火設備の赤いボックスが目に入る。
「……あった」
胸の鼓動が、一段階速くなる。誰にも気づかれないようにガレージを一度抜け、廊下側へ回り込む。壁際に並ぶ機材棚の間をすり抜け、消火器のボックスを開ける。そこに収まっていたのは、背負い式の多目的消火ユニットだった。金属と樹脂でできたシリンダーを背負い、手元のノズルから微細な泡状の薬剤を噴射するタイプ。レバーと安全装置の位置は、どの世代でもほとんど変わらない。
(使い方は同じ、だよな)
ピンを抜き、背負いベルトを肩にかける。重さが片側に寄り、身体のバランスが変わる。ユウは深く息を吸い込むと、もう一度ガレージへ戻った。
マイアは武装ヒューマノイドの肩口に蹴りを決め、腕章の男のひとりがその隙に足払いをかける。
沢田は胡の腕を掴み、逃げられないように押さえ込んでいた。
「今だ……!」
ユウは叫びながら、ガレージ中央に向けてノズルを構える。
「何を――」
沢田の言葉が終わる前に、ユウはレバーを強く握った。しゅう、と低い音。次の瞬間、白い泡の霧が一気に広がる。視界が、真っ白になった。薬剤は熱にも電気にも反応しない安全なタイプだが、目やセンサーには十分な障害になる。
武装ヒューマノイドの視界センサーが一瞬フラッシュし、補正モードに切り替わる。腕章の男たちも咄嗟に顔を覆った。
「胡先生!」
ユウは泡の中で叫び、手探りで前へ進む。人工皮膚の感触。少し冷たい、しかしたしかな重みのある腕。
「……境くん?」
胡の声。そのすぐ後ろで、マイアの気配。
「こっちです。走って!」
ユウは開閉中のシャッターに向かって走った。まだ人ひとり入れる隙間があった。胡とマイアを押すようにしゃがませ、床を滑るようにして潜り抜ける。最後にユウも身体をねじ込み、外へ転がり出た。
背後では、白い霧の向こうから怒鳴り声が聞こえる。
「待て!」
「ターゲットが――」
誰の声かは、もはや判別できなかった。
ユウたちは、ほとんど転がるようにして通路へ飛び出した。
扉が閉まり、ガシャンという重い音が狭い通路に反響する。
「こっち」
ユウは短く言い、通路を駆ける。胡もマイアも、息を整える暇もなくそれに続いた。狭い階段を上りきると、センター裏手の搬入口に出る。そこは街路から少し奥まっているため、通行人の目には触れづらい。
「……タクシー、捕まえないと」
胡が息を詰まらせながら言う。センターの正面に回るわけにはいかない。追っ手がいつ出てくるかもわからない。そのとき、通りの向こうから低いモーター音が近づいてきた。
「ちょうどいい」
ユウが手を挙げる。やってきたのは、自律走行型の小型モビリティ――“野良タクシー”と呼ばれるタイプだった。
正式な配車アプリを通していない、グレーゾーンぎりぎりの乗り物だが、行き先と料金さえ合えばどこへでも運んでくれる。
車体の側面ディスプレイに「空車」の文字が浮かんでいる。ドアは手をかけるとすぐにスライドした。
「……乗って」
ユウが先に乗り込み、胡とマイアを中に促す。全員が座ると同時に、車内の照明がやわらかく灯った。
「目的地を指定してください」
天井のスピーカーから、機械的な声が流れる。 胡は迷った。センターにも、自分のラボにも戻れない。委員会にも教会にも、これ以上居場所を知られたくない。
「……ダスト・シティ」
小さく、しかしはっきりとそう告げた。
ユウが横目で胡を見る。マイアは、窓の外の暗さをじっと見つめている。
「ルートを検索します……推定所要時間:28分」
野良タクシーは静かに加速した。センターの裏口が遠ざかっていく。さっきまでいたガレージの灯りが、ひとつの四角い明かりとして、暗闇のなかに浮かんだ。
誰も、しばらく口を開かなかった。
ユウには、聞きたいことがいくつもあった。なぜ胡が追われているのか。マイアは本当に“自発AI”なのか。純律教会とAI心理技師普及委員会のあいだで何が起きているのか。けれど、質問に変える前に、喉の奥で全部つかえてしまう。フロントパネルに表示されたルートが分岐し、都市の灯りが少しずつ減っていく。
「……巻き込んで、ごめんなさい」
胡がぽつりと言った。その声には、いつもの講義での強さはなかった。
ユウは少しだけ首を振る。
「俺が勝手に来ただけです」
マイアが、そのやり取りを静かに聞いていた。彼女の瞳には、街の光が小さく映り込んでいる。
「ダスト・シティに向かうんですね」
ユウが言うと、胡が短くうなずいた。以前そこで胡の姿を目撃したユウにとって、答え合わせに近い瞬間だった。
「安全な場所じゃない。でも、いま生き延びられる確率が一番高いのはあそこ」
ユウは黙って前を向いた。
野良タクシーの窓の外では、街路樹の影が流れていく。信号の赤が、車内に細く差し込む。やがてそれも遠ざかり、代わりに。金属のにおいとネオンの熱が濃くなっていく。
ダスト・シティ。都市の地図の端に貼り付くように存在する、その一角へと、3人を乗せた車は、音もなく滑り込んでいった。
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