第6話「同調ノイズ」
放課後の特別訓練クラスはまだ熱を逃がしきれずにいた。外では蝉が鳴き、遠くのビルの壁がオレンジ色に染まっている。床用ワックスの甘い匂いと、コピー用紙のトナーに似た金属の熱臭が混じり合い、夕方の陽光に焦げたような膜をつくっていた。
窓際の桟は人の手脂で鈍く光り、熱を吸ったアルミ枠がじんわりと掌を焦がす。
そんな教室に入って来たユウは、真っ先にエアーコンディショナーをつけると、最後列の席に座って前方を見つめる。
そこでは、タテヲが机の上に並べた小さな部品を前に、淡々と手を動かしている。隣にはリネが座り、眉を寄せたままじっとその指先を追っていた。
机の上に置かれているのは、爪ほどの銀色のチップ。金属と樹脂の接合面を細い導線が取り巻き、中央には淡く光る5つのLEDが等間隔で埋め込まれている。
タテヲが指先で軽く弾くと、チップはわずかに振動し、低い電子音を鳴らした。
「
ユウは小声でつぶやいた。
かつて人間とAIの間で情動を共有するために開発された旧型の感情同期チップ。
使用すれば、相互の心拍と神経電位が短時間だけリアルタイムで結ばれ、“感情の断片”を共有できるという。だが出力制御が難しく、長時間の使用で人格の境界が崩れる事故が相次いだため、研究は凍結された。
「……それ、本当にまだ動くのか?」
ユウは半ば呆れ、半ば心配の入り混じった声で言った。
「理論的にはな」
タテヲは笑い、チップを光にかざした。
「出力を抑えてある。安全モードなら感情の“端っこ”しか伝わらない。 共感の原理を、実際に体で確かめてみたいんだ」
「禁止されてるって知ってるだろ」
「知ってる。でも、確かめたい。リネの“感じる”を」
リネが不安そうに口を開く。
「タテヲさん、それは……使用自体が禁止されています。倫理違反です」
「少しくらい大丈夫、ただの練習だよ」
その口調は穏やかだったが、どこか切迫している。
ここでユウは止めるべきだが、喉の奥が乾いて、言葉にならなかった。タテヲの“確かめたい”という熱を知っていたからだ。その熱は、かつて誰かの痛みを自分のことのように受け取ってしまった少年の、それと同じ形をしている。
タテヲがチップをリネの頸部に取りつける。
「少し冷たいぞ」
「大丈夫です」
リネはかすかに目を細めた。人工皮膚の下でLEDが青白く瞬く。もう一方の端を、自分の手首の薄膜型導電パッドへ差し込む。チップが低く起動音を立てた。
“SYNC PULSE/SAFE LOW OUTPUT”――淡い文字が空中に浮かぶ。
ユウは思わず息をのむ。タテヲの呼吸が速くなり、指先がかすかに震えている。リネの目も淡い光を帯び、互いの視線が見えない線で結ばれた。
「……感じる。お前の感情パターンが、俺の神経に直接触れてくる」
「あなたの緊張が、私のセンサーに干渉しています」
「これが“共感”か」
その瞬間、ユウの背中を何かが這い上がった。冷たく、けれども熱い――矛盾した感覚。忘れたはずの記憶がざわめく。
父の事故のことを、ユウは詳しく聞かされたわけではない。ただ、ニュースで流れた一瞬の映像と、母の沈黙がすべてを物語っていた。老婆がはねられた夜――父は、子どもをかばったという。けれど、その子どもはヒューマノイドだった。命を守るつもりで奪われた命。それを知った瞬間から、ユウのなかで「共感」は刃になった。触れれば、どちらかが切れる。
「タテヲ、もうやめろ」
そう言いかけたとき、教室のドアが開いた。
「静かにしてると思ったら、実験かい?」
白衣の裾を揺らしながら、佐藤先生が入ってきた。
タテヲは慌ててチップを袖の中へ隠す。リネも小さく頭を下げた。
「始めていいかい?」
「は、はい」
「よし、今日は実践。感情干渉を受けたAIを、各自の手で調律してもらう」
ホログラムが起動し、青白い光の輪が机上に広がる。投影された2体のAIが、まるで現実に座っているかのように目を開く。ユウとタテヲ、それぞれの前に配置さされ、佐藤先生が淡々と説明を続ける。
「AI心理技師の仕事は、データを直すことじゃない。“心”の折り目を見つけること。
その言葉に、ユウの胸がざらりと鳴る。共感とは、触れすぎないための技術。それを、彼はまだ完全には掴めていなかった。
隣では、タテヲがわずかに息を整え、リネのほうを見る。チップのランプはまだかすかに点灯している。チップがまだ作動していることに気づいたのは、ユウだけだった。
ホログラムの光が、空気を淡く震わせる。目の前に浮かぶ2体のAIは、どちらも人間の青年の姿をしている。片方は俯いたまま指先を握りしめ、もう片方は視線を宙に泳がせていた。感情干渉AIが人間の情動信号を受け、自己の制御を乱す現象。今日の実習は、その回復手順の体得だった。
「まずは相手の“情動波形”を読むことから。単なる数値ではなく、呼吸のテンポ、視線の揺れ、沈黙の長さまで拾うこと」
佐藤先生の声は、やわらかな圧を帯びて空気を締めた。
「どんな違いも、“心の声”として受け取ってみよう」
ユウは深く息を吸い、目の前のAIに向き合った。
AIの呼吸音――いや、人工肺の循環音が静かに鳴っている。目線はやや左上。逃避傾向。頬の色素パターンに0.03の変動、緊張値が高い。
「……CALM-Δを0.2、Anchor-βを0.1……」
ユウは端末に指を滑らせ、調整パッチを流し込む。画面上の心拍波形がゆっくりと丸みを帯び、AIの呼吸が穏やかに変わっていく。――悪くない。小さく息をつき、目線を隣へやった。
タテヲも自分のAIを前に、同じように作業を進めている。だが、その表情には何か熱がありすぎた。リネが背後から見守る位置に立ち、彼の手元をじっと見つめている。ユウは袖口の奥にかすかに光る青白い点を見つけた。Empath-Link β、まだ繋がっている。
タテヲの呼吸が速くなり、指の動きがわずかに不規則になる。それにつられてAIの瞳が微妙に反応し、音声ユニットが小さくノイズを漏らした。
先生、出力値が跳ねてます――ユウが声を上げるのと同時に、タテヲがつぶやいた。
「リネ……悲しいのか?」
リネが小さく瞬きをする。
「私は解析しています。感情のシミュレーションです」
「いや、違う。胸の奥が痛い。お前の……」
タテヲの声が震えた。
「お前の痛みが、俺に流れてきてる」
机上のモニタが警告を発した。“感情波形異常――干渉値上昇中”実習用のAIの呼吸データまでもが一気に乱れる。
ユウが席を立とうとした瞬間、佐藤先生の声が飛ぶ。
「平くん、早く出力を下げなさい」
「できません、反応しない……!」
タテヲの額に汗が滲む。彼の視界には、もう教室ではない何かが映っているようだった。
「リネ……誰か……倒れてる。……あれは、誰だ?」
リネの体が硬直する。
「それは――私の記憶です」
ユウの耳が鳴る。声と声の境界が消え、空気がわずかに歪んだ。リネの人工皮膚の下で、光が乱反射を起こしている。
「エラー発生……感情同期、制御不能……」
リネの声が震えている。恐怖。紛れもない恐怖だった。
ユウの心拍も跳ね上がる。このままではタテヲの意識が崩壊する。だが、彼はまだEmpath-Link βを離そうとしない。
「……まだ、終わってない……俺は、見なきゃいけない……!」
その瞬間、ユウの脳裏に“誰かの痛み”が流れ込んだ。音も匂いもないのに、金属が擦れるような感覚が走る。理屈ではなく、感情の残像だけが焼きつく。父の事故――あの夜の“なぜ”を、まだ消化できずにいる自分の痛み。「守るつもりで壊してしまう」その感覚だけが、誰かの声のように蘇る。他人の痛みを共有するとは、きっとこういうことだ。自分が壊れるほど、相手に近づくこと。
「……もうやめろ、タテヲ!」
叫ぶと同時に、ユウは彼の腕を掴んだ。袖の下でチップが明滅し、ユウの指先に電流のような熱が走る。世界が歪んだ。触れた瞬間、ユウの脳裏に無数の像が流れ込む。――白いカーテン、差し込む光。ベッドの上の誰か。紅茶の香り。小さな声が「名前を……」と呼ぶ。そして、心が締めつけられるような喪失。
タテヲが低く呻いた。リネの瞳が揺らぎ、涙のような光の粒が頬を伝う。その光景に、ユウの心臓が痛みで締めつけられた。
「止めなきゃ……」
端末を開き、制御パネルを叩く。逆相インパルス:3Hz/振幅--0.12。口頭命令、“主語切替――他者認定――優先チャネル:境ユウ”。机縁をBPM72でタップし、波形の山が半拍ずれた瞬間に“CUT”。
高音の電子音が教室を裂いた。リネの体がびくりと震え、光がふっと消える。タテヲの手が力なく落ち、椅子にもたれかかる。
静寂。空気が燃え尽きたように沈む。リネは唇を押さえたまま震えていた。
「ごめんなさい……私、彼を壊してしまうところだった……」
ユウは息を切らせ、タテヲの肩を支える。
「……まだ、間に合った」
佐藤先生が駆け寄り、鋭く問う。
「いったい、何をしたんだい?」
ユウは唇を噛み、迷いの末に答えた。
「……Empath-Link βを、使いました」
そのひとことで、教室の空気が凍った。佐藤先生は静かに目を閉じる。
「共感は救いじゃない。境界を越えた瞬間、それは暴力になる」
ユウは俯いた。机の上で、チップのLEDがかすかに点滅していた。まるでまだ、誰かの心音を探しているかのように。
タテヲはしばらくのあいだ、浅い呼吸を繰り返していた。机に片腕を垂らしたまま、顔を上げようとしない。
リネはその隣に膝をつき、人工皮膚の指先でそっと彼の頬に触れる。温度センサーが働いているのか、触れた瞬間、彼女の瞳が小さく明滅した。
「……体温、戻りました。タテヲさん、聞こえますか?」
震える声で問いかける。
タテヲの唇が微かに動き、掠れた声がこぼれた。
「……見えたんだ。誰かを、失う夢。あれは――お前の記憶、だったのか」
リネは答えなかった。唇がわずかに動いたが、音にならなかった。彼女の表情は、感情というより“痛みを演算している”ように見える。
佐藤先生が静かに歩み寄り、深く息を吐く。
「まったく……教科書にも載ってないことを、よく思いついたね」
白衣の袖をまくりながら、机の上のチップを拾い上げる。指先で軽く弾くと、LEDがかすかに点滅してから消えた。
「この型、AI心理技師普及委員会でもとっくに廃棄されされてるよ。どこで手に入れたの?」
ユウは口を開きかけ、言葉を探した。ダスト・シティ――その言葉を出すことがためらわれる。あの街の熱と臭気を思い出す。鉄と油のにおい、壊れたネオンの光、そして胡先生の影。
「……俺が、止められませんでした」
ユウは、正直にそう言った。佐藤先生はしばらく黙って彼を見つめ、それから静かにチップを机に戻した。
「“感じたい”という欲は、悪いことじゃない。でもな、感情を共有することは、救いではなく、刃にもなる。他人の痛みをそのまま取り込めば、自分の形が壊れる。きみたちは“修理される側”じゃない。“修理する側”になる人間だ」
ユウは俯いたまま拳を握った。共感が刃――その言葉が、胸の奥で鈍く反響した。自分が抱えている“痛みをわかる感覚”そのものが、危うい境界の上にあったことを、ようやく理解する。
「本来、使用したら即座に罰則だけど、きみたちは今日やるはずだった実習を実践でやり遂げた。今回だけは、僕の判断で報告を止めておく」
佐藤先生はそう言って、ふたりに視線を落とした。
「ただし、次はないよ。ダスト・シティにも、違法パーツにも、近づかないこと。もし次に同じことをしたら――僕が、きみたちを“修理”する側に回るからな」
ユウは小さくうなずいた。タテヲも、まだ完全に覚醒していない目で、ゆっくりと首を縦にふる。
沈黙が降り、冷房の音と4人のの呼吸音だけが混ざり合う。
佐藤先生が思い出したように口を開いた。
「そうだ。胡先生はしばらく休職だ」
「え?」
ユウが顔を上げる。
「どうしてですか?」
「詳しくは聞いていないが、体調を崩したとか。委員会の内部で、何か処理不具合が続いているとか。あるいはその両方とか。先あの人はいつも、無理をしていたからなぁ」
その言葉が、ユウの胸に重く沈んだ。胡先生は、あの夜、たしかかにダスト・シティにいた。黒いコートの裾、金属ケース、交わされた言葉。“最初の個体”という、謎めいたフレーズ。もしそれが偶然でないとしたら。
HUMIN。人間になりたいと願うAI。その起源に、胡先生が関わっているのではないか。純白のテーブルクロスに赤ワインをこぼしたかのように不安が広がる。
共感は救いじゃない――佐藤先生の言葉が頭のなかで繰り返される。だがユウは、心のどこかで思っていた。それでも、人は“わかりたい”と願ってしまう。痛みの向こうに、他人の存在がある限り。
* * * * *
リネがそっと立ち上がる。
「……もう少し、彼のそばにいてもいいですか」
「いいよ。ただし、リンクは二度と使わないこと」
そのまま佐藤先生はドアを閉めて出て行く。そして、静寂が戻る。
ユウは窓際へ歩み寄り、カーテンを少し開けた。外は群青色の空。部活帰りの生徒たちの笑い声が、遠くから届く。グラウンドの白線が、夕闇の中でかすかに光っていた。
ユウは窓際へ歩み寄り、昼に眩しさを避けるため半分だけ引かれていたカーテンの隙間を広げた。そこには、まだ熱を残した夕空が広がっていた。校庭の白線がオレンジの残光を受け、ゆっくりと青に沈んでいく。
白線、影、舗装の継ぎ目。それは世界の折り目だ。そこに立つと、風向きが変わる。共感はその折り目の上に置かれた刃で、持ち方ひとつで、誰かをも自分をも傷つける。
ユウが拳を開く。手のひらには、さっきまで握っていた冷えたチップの感触が、まだ残っている。それを見つめながら、彼は小さく息をつく。
俺は、どこまでなら踏み込める? その問いが、答えのないまま、胸で長く燻り続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます