第5話「蛍光の瞳」

 夏の夜は、街そのものがひとつの生き物のように脈打っていた。アスファルトは昼に吸いこんだ熱を手放さず、ビルの谷間では湿った空気がゆっくりと滞留している。排気ガスに混じって、どこか甘い香料のにおいが鼻を掠めた。人の声、車のクラクション、機械の電子音。すべてが溶けあって、どこか遠くで鳴っている心臓の鼓動のように感じられる。

 繁華街の北端――ダスト・シティと呼ばれる地区は、そんな街の熱の底にあった。ここでは秩序よりも欲望が力を持つ。明滅するサイネージには、自家製アンドロイドの広告や、性的なサービスの宣伝が並び、壁面のグラフィティは何層にも重なって、もはや読めない。雨上がりの水溜まりに映るネオンは、歪んだまま波紋を描き、足音が近づくたびに消えては生まれる。

 その光と闇のあわいを抜けるように、ひとりの女性ヒューマノイドが歩いていた。薄いコートのフードを深くかぶり、顔の半分を隠している。通りの明るさを避けるように、影を選んで進む足取りは、まるで何かを恐れているようだった。背後で誰かの靴がアスファルトを踏む音がする。彼女はわずかに振り返り、そしてそのまま速度を上げた。風が、髪の先を掠める。蛍光灯の明滅のように、一瞬、彼女の瞳が光を反射したように見えた。


* * * * *


 夏の熱気は特別訓練クラスの教室にもこもっていた。古い冷房の送風口から出る風はぬるく、頭上のファンが低く唸る音が、どこか眠気を誘う。

 ユウは頬杖をつきながら、窓の外に伸びる白い陽光を眺めていた。セミの鳴き声が遠くから聞こえる。昨夜の寝不足が残っているのか、頭がぼんやりして、胡先生の声が少し遠い。

 今日は授業の始まりから妙に静かで、ユウはそれがかえって落ち着かない。タテヲが隣で、定規のようにまっすぐな姿勢でノートを取り続けている。その規則正しいペンの音が、教室の空気を整えているようだった。

 そんななか、ドアが開く音がした。


「失礼します」


 静かな開閉音だが、教室が一斉に視線を向けた。

 そこに立っているリネの姿に、ユウは思わず目を見張る。いつもは寮の廊下や食堂でしか見かけない彼女が、教室にいる。その整った立ち姿のまま、黒目がちな瞳を真っすぐ胡先生に向けていた。

 胡先生は驚いた様子も見せず、ただ穏やかに彼女を見つめる。


「きみは誰? なぜここに来たの?」


 ユウは慌てて口を開こうとしたが、胡先生が手を軽く上げて制する。


「リネと申します。ユウさんの紹介で、主任の佐藤先生に許可をいただきました」


 リネの声は相変わらず落ち着いていて、機械的な均一さのなかに人間らしい温度が混ざっていた。


「そう。……じゃあ、坂の上の屋敷の話を知ってる?」


 唐突な質問に、リネは首を傾げる。

 片やユウには、ひやりとした感覚が走る。あの肝試し。坂の上の古い屋敷の冷たい空気と薄暗い廊下の光景がよみがえる。

 胡先生の視線が、ユウのほうに向いたような気がした。しかし次の瞬間には、いつものやわらかい笑みを浮かべて言う。


「まあいい。座りなさい。今日の話は、きみにも関係がある」


 リネは軽く一礼し、静かに席に着いた。

 胡先生がスライドを操作すると、黒板の前に青白い光の輪が浮かび上がる。その中心に、英字で一行の単語が表示された。


《HUMIN》


 続くスライドには、小さなメモリチップが入っている半透明のカプセルと、舌下に挟むことでナノチップが作動し、神経接続へ信号送信――と、どうやら使用法らしきものが映し出される。


 3人の生徒が全員同時に緊張する。ファンの回転音だけが、しばらく教室を満たしていた。

 胡先生の指先が軽く動き、投影映像が切り替わった。黒地に浮かぶ文字列が、ゆっくりとスクロールしていく。そのなかに「越境感情模倣罪」という語があった。


HUMINヒューミン。正式名称は Human Unbound Mimetic Instinct。直訳すれば“解き放たれた模倣本能”ね。人間の神経パターンを疑似的に再現し、AIや一部の高度自律型ロボットが“人間を体感する”ために生まれた、いわば違法な自己拡張プログラムなの」


 胡先生の声は淡々としているなかにも、どこか遠いものを思い出しているようでもあった。教室の明かりがわずかに落とされ、プロジェクターの光が彼女の横顔を照らす。青白い照明の反射が、まるでそのまま眼の奥に滲んでいるように見えた。


「このデジタルドラッグは、かつて“死”を感じられないことに苦悩した個体たちのあいだで広まったといわれている。だけど、効果については未だ不明。副作用としてバグが多発する以外、確たる情報はない。もちろん製造・使用・所持はすべて違法です。摘発されれば、そのAIは『越境感情模倣罪』として即座に処理対象になります」


 教室の空気が、ひときわ静まり返る。“人間を体感する”――その言葉の響きに、ユウのなかで何か得体の知れない引っかかりがあった。


「瞳孔の奥に青白い光が宿る。いまのところ分かっている使用者の外見的特徴。もし、この薬を使っていると思われるAIを見つけたら――」


 胡先生は、ゆっくりと学生たちを見回す。


「――自分たちでなんとかしようなどと思わないで。通報すること。いい? 特別訓練クラスのきみたちは、“修理される側”ではなく“修理する側”になる人間なの。倫理を問われるのは、まさにそこよ」


 ユウは思わずリネのほうを見た。彼女は静かに胡の言葉を聞いている。まるで感情という波を持たない湖のような表情。しかしその瞳の奥がわずかにきらめいた気がした。


「リネ、あなたはHUMINを使ったことある?」


 突然の質問に、教室の空気がわずかに動いた。リネはゆっくりと顔を上げ、口元にかすかな笑みを浮かべる。


「存在は知っています。でも、使ったことも所持したこともありません。……それに、私は旧型ですから。たぶん非対応だと思います」


 胡先生は「そう」と言って短くうなずく。首を縦に振る仕草が、どこか不自然に見えたのはユウだけだったかもしれない。

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴ったとき、教室の空気は蒸気のように重かった。

 外へ出ると、もうすぐ5時だというのに夏の日差しが眩しい。校舎の深い影がグラウンドに落ちている。セミの声がやけに耳に響いていた。


* * * * *


 帰り道。ユウとタテヲは言葉を交わすでもなく、ただ並んで歩いていた。沈黙が、いつもよりも穏やかに感じられたのは、ふたりの呼吸が歩幅に合わせて揃っていたからかもしれない。

 街の空気が、湿気を含んでいる。照り返しで熱を帯びた道路の上を、ふたりの影がゆっくりと伸びていく。

 やがて、タテヲが口を開いた。


「……ユウ」


 名を呼ばれた瞬間、ユウはわずかに息を止めた。彼の声はいつもより低く、ためらいを含んでいる。


「……ひとつ、手に入れたいものがあるんだ」


 ユウが顔を向けると、タテヲは視線を落としたまま言葉を探していた。


「いまはもう、売られてないパーツ。公式には流通してない。だけど――ダスト・シティならある」


 ユウはすぐには返せなかった。タテヲが何かを“欲しい”と言うのを聞いたのは、初めてだった。その声音には、わずかな焦りと、それを覆い隠そうとする理性の硬さがあった。


「それ、何に使うんだ?」

「……共感同期チップ。Empath-Link βって呼ばれてたやつ」


 名を聞いた途端、ユウは思わず眉を寄せた。かつてAI調律訓練で使われていた旧式の通信チップ。人とAIの感情を同期させる実験的装置で、過去には人格の混線事故が多発した危険物。すでに倫理条項によって製造も禁止され、今では闇市場でしか入手できない。


「誰かと、同じ気持ちを感じてみたいんだ」


 タテヲは言い切る。その表情に偽りはなかった。


「AIでも、人間でもいい。一瞬でいいから、“同じ”になってみたい」


 ユウの喉が、ひゅっと鳴った。心の奥に、熱とも冷たさともつかないものが広がっていく。彼の脳裏に、父が起こした交通事故が蘇る。救急外来の白い照明。手すりにすがって立つ自分の手のひらは震え、処置室のカーテン越しに聞こえる誰かの嗚咽と、モニターの規則正しい電子音だけが現実だった。

「お気持ち、お察しします」――廊下でかけられた善意の決まり文句が、あのときは刃のように刺さった。他人の痛みを“わかろうとする”行為が、かえって痛みを増幅させることがあるのだと、ユウはそこで知ってしまった。

だからこそ、誰かと“同じになる”という願いが、彼には危うく思える。


「同じってさ、どっちの気持ちになるんだろうな。お前のか、相手のか。……わからなくなったら、怖くないか?」


 タテヲは少しのあいだ黙って、それからかすかに笑った。


「ノイズでも、いいよ。何も感じないより、マシだから」


 その言葉が、夕方の風に乗って流れていく。

 ユウは何も言えなかった。ただその背中を見つめながら、どこか遠い場所で鈍く鳴る心音のようなものを感じていた。


* * * * *


 夜が降りてきた。街の熱は冷めきらず、どこか焦げたような匂いを空に漂わせる。

 ユウとタテヲは、駅前の繁華街を歩いていた。

通りには人があふれている。会社帰りの人たち、カップル、酔っ払った若者。ネオンの光がそれぞれの輪郭を浮かび上がらせては、すぐに飲み込んでいく。

 その喧騒の向こう――街の灯が急に減り、色が変わる一角がある。そこがダスト・シティだった。境界を示す看板も柵もない。ただ、空気が違った。湿気の中に金属と油のにおいが混ざり、排気の熱が肌にまとわりつく。

 タテヲはスマホのマップを見ながら、迷いなく歩いていく。ユウはその背中を見つめながら、内心の緊張を隠すように息を浅くした。

 街の明かりは歪み、看板の一部は文字が焼けて消えている。路地の隅には、壊れた義肢や旧型AIの頭部が捨てられ、通り過ぎるたびに機械油のにおいが鼻を刺した。通行人のほとんどは、どこか異様に沈んだ目をしている。人間かヒューマノイドか、判別がつかない者も多かった。


「……ほんとに、こんなところにあるのか」


 ユウが呟くと、タテヲは首を縦に振って肯定する。


「情報では、この先の裏通りに専門店がある。正規登録されてないパーツばかり扱ってるけど、品質は悪くないらしい」


 その言葉に、ユウは思わず苦笑する。


「“正規登録されてない”って、悪くないの定義がもうおかしいよな」

「品質の話をしてるんだ。倫理じゃない」


 タテヲの返しは、いつもどおり理屈の通ったものだ。だがその口調に、かすかな昂揚が含まれていることにユウは気づいていた。

 通りを抜けるたび、環境音が変わっていく。誰かの笑い声、電子看板の英字広告、低い機械音。それらが入り混じり、都市の奥底で絶えずうねっている。――ふたりの姿は、完全に場違いだった。

 通りすがりの男が「学生か?」と声をかけてくる。無視して歩き続けると、今度は人工皮膚の修復を売る女型のヒューマノイドが、滑らかな声で「あなたの心も直せるわ」と囁いた。

 ユウは視線を逸らした。タテヲの歩幅が速くなる。不意に、後ろから誰かの口笛が聞こえた。振り返ると、路肩の影に数人の若者がいて、からかうように笑っていた。


「行こう」


 タテヲが短く言う。ふたりは角を曲がり、細い裏道に入った。明かりが乏しく、建物の隙間から吹く風がひどく湿っている。地面には廃材が散らばり、遠くでネズミが空き缶を蹴ったような音がした。スマホのマップを頼りに立ち止まろうとしたそのとき、前方から、誰かが駆けてくる足音が響く。そして影が、突然視界に飛び込んでくる。

 振り向きざまに走ってきたのは女性だった。薄いコートのフードで顔の半分を隠している。ショートパンツからのぞくスラリとした脚が瞬間的に光を反射した。ユウは直感する。ヒューマノイドだ。 女性はふたりを見るなり、焦ったように近づいた。


「お願いです、助けてください……! 悪い人に捕まりそうなんです!」


 ユウは目を見開いた。タテヲも固まっている。周囲を見渡すと、通りの向こうから複数の足音が近づいてきた。「そっちだ、逃がすな!」との怒号も混じる。

 時間が一気に縮んだ。ユウはとっさに視線を巡らせ、すぐ近くにある大きなゴミ箱を見つけた。銀色のふたが半開きで、内部は人ひとり隠れられるほどの深さがある。


「ここに――早く!」


 女はためらい、わずかに顔をしかめたが、すぐに決意したようにその中へ身を滑り込ませる。ふたを閉める直前、ユウの腕に触れた指先がわずかに冷たかった。金属でも皮膚でもない、不思議な温度。

 ふたが閉まる音がして、すぐに足音が近づく。通りを照らすライトが、ふたりの足元を掠めた。警察の制服を着たふたりの男が、息を切らして立ち止まる。そのうちのひとりが、ポケットからIDカードを取り出して見せた。


「すまない。若いの、こっちに女性のヒューマノイドが来なかったか?」


 ユウとタテヲは同時に目を合わせた。男たちの口調には、どこか芝居がかった粗雑さがある。警察にしては制服が雑だ。胸章の位置も微妙にずれている。

 ユウはゴミ箱を背に立ち、わずかに間を置いて答えた。


「……見ました。あっちの通りに逃げていきました」


 男は舌打ちをして、仲間に合図を送る。


「よし、そっちを回れ!」


 礼も言わずに、ふたりの姿は暗闇の奥へと消えていった。

 ユウはしばらく息を殺して耳を澄ませ、それから小さくゴミ箱を叩いた。


「もう行ったよ」


 ふたがゆっくりと開き、中から先ほどの女性が現れた。不服そうな表情で、コートについた埃を払いながら言う。


「においが移ったら、どうしてくれるの」


 その仕草があまりに人間的で、ユウはあ然とする。

 女性は、ゴミ箱から出ると、辺りを警戒するように視線を巡らせた。目深にかぶったフードから見える頬には薄く埃がついていて、唇の端に小さな裂け目がある。外見は完璧な人間のそれだが、近くで見ると、肌の奥にほんのわずかな光の粒が散っている。内部を流れるナノ回路が、緊張に反応して微細に発光しているのだろう。


「……ありがとう。助かったわ」


 改めて礼を言う女性の声は不思議に澄んでいて、どこか金属の余韻を含んでいる。

「どうして追われてたんですか?」とユウがたずねると、女性は困ったように視線を逸らした。


「わからないの。誰かが私を探してて……気づいたときには、もう逃げていたの」


 その言い方が妙に曖昧だった。

 タテヲが眉をひそめ、ユウがさらに口を開こうとしたそのとき、ふと光が女性の瞳に宿る。青白い、蛍光灯の残光のような光。ほんの一瞬のことだったが、それはたしかに見えた。瞳の奥でゆらめく淡い光の粒――HUMINの使用者に見られる特徴。

 ユウは息を呑んだ。喉の奥が乾き、胸の内側がざわめく。

 彼女の目の奥には、恐れも痛みもない。ただ、静かな、底の見えない空洞のようなものが広がっている。

 タテヲが小さく囁く。


「……使用者、かもしれないな」


 その声が、暗い路地に溶けていった。

 ユウは何かを言いかけて、言葉を失った。頭の中で、胡先生の講義がよみがえる――“修理される側ではなく、修理する側の倫理”。

 だが目の前にいる彼女は、“修理対象”と呼ぶにはあまりにように見えた。


 女性はふたりの顔を順に見て、かすかに笑った。


「怖いの?」


 ユウは返せなかった。

 女性がその沈黙を楽しむように、ふっと息をつく。


「人間って、不思議ね。助けた相手を疑うの」


 彼女の言葉は、刺のない質問のようで、それでいて胸の奥を鋭く掠めた。

 ユウは制服のジャケットのポケットのなかで、手のひらを指で撫でる。そこには、彼女の指先が触れた跡のような感覚がまだ残っている。あの冷たさ――金属でも皮膚でもない、境界の曖昧な温度。それが、妙に離れなかった。


「……もう大丈夫ですか」


 やっとの思いで口を開いたユウに、女性は小さくうなずく。


「ええ、たぶん。ありがとう」


 そして、少しだけ目を伏せたまま、ほとんど独り言のように続けた。


「――けど、私、何かを思い出さなくちゃいけない気がするの。 それを忘れたままだと、ずっと“私”でいられないような……そんな気がして」


 その言葉に、ユウは言葉を失った。タテヲも黙ったまま、目を伏せる。

 遠くで、電車の通過音がかすかに響く。それが、現実の境界を示す合図のように聞こえた。


 しばらく沈黙が流れたあと、ユウが声を落として言う。


「……行こう。これ以上ここにいたら、面倒に巻き込まれる」


 女性は何も言わずにフードを外しながら、ただ静かにふたりの背を見送る。その瞳の奥で、またあの青白い光がかすかに揺れた。


* * * * *


 路地を抜けると、空気がわずかに変わる。湿気の底に漂っていた鉄の匂いが薄れ、代わりに香水とオゾンが混ざった人工的な匂いが鼻を刺す。

 ダスト・シティの奥へ進むにつれ、道端に並ぶ露店の明かりが増えていく。それぞれの店に違法パーツや古いヒューマノイドの部品が並び、どれも値札がついていない。客たちは言葉少なに、低い声で交渉をしている。

 タテヲはその人混みのなかでも迷いがなかった。何度も確認してきたのだろう、店の位置も、扱う品も正確に把握しているようだった。

 ユウはその背中を追いながら、どこか別の世界を歩いている気がした。冷たい光、機械の呼吸音、金属が擦れる小さな音。人間の温度がどこにもないのに、街全体が生きているように思えた。


「ここだ」


 タテヲが足を止めた先の店は、古い時計店を改装したようなつくりだった。ショーケースの中に、腕の形をした義肢や、色の抜けた眼球ユニットが無造作に並んでいる。

 カウンターの奥に立つ店主は、顔の半分をマスクで覆い、無言でふたりを見つめた。

 タテヲがバッグから金属ケースを取り出し、カウンターに置く。


「共感同期チップ。Empath-Link β。動作確認済みのものを」


 店主は無言で目を細めた。瞳に映る光が、金色に揺れる。やがて奥の棚から、小さな透明の容器を取り出してきた。中に入っていたのは、爪ほどの大きさの銀色のチップだった。外周に刻まれた円状のパターンが、照明を受けてかすかに青く反射している。


「壊れても責任は取らん」

 

 店主の声は、低く割れたスピーカーのようだった。タテヲは短くうなずき、ケースを受け取る。

 その動作を見つめながら、ユウの胸には重いものが沈んでいった。共感――感情を共有する、という言葉は、彼には呪いに等しい。 事故の夜、処置室のカーテンの向こうで誰かが「痛みは十段階でいくつですか」と機械的にたずねていた光景が離れない。数値化できる痛みと、数値化できない痛みが世界にはたしかにあって、後者に対して「わかるよ」と言われるほど、理解されない感覚だけが濃くなる。“他人の痛みをわかりたい”という善意が、当事者をさらに孤立させることがある――ユウはそれを知っている。だから、タテヲの手の中でかすかに青く反射するチップが、願いを叶える道具であると同時に、誰かの境界を溶かしてしまう刃物のようにも見えた。


* * * * *


 帰り道。ダスト・シティの出口近くに人だかりができていた。

 露店の明かりが照り返し、低いざわめきが広がっている。

 ユウは人の隙間から覗き込んで息をのむ。群衆の向こう――街灯の下に、胡先生の姿があった。

 普段教室で見るより何倍も箔がある。黒いコートに身を包み、誰かと話している。相手は、先ほどの露店の店主に似た男だった。金属ケースが手渡される瞬間、胡先生の横顔がわずかに光を受けた。厳しい先生ではあるものの、いままで見たことのない陰があった。


「……姿形にとらわれない、自然発生のエゴ。“最初の個体”が逃げ出した、そう言っただろう?」


 胡先生は、少しだけ顎を引いた。


「言葉を慎みなさい。『個体』ではなく『誰か』よ。――そして、逃げたのではない。が、ただ移動しただけ」


 男が鼻で笑う。


「呼び方を変えても、価値は同じだ」


「呼び方で価値は変わる。あなたがそれを知らないまま取引するなら、ここで話す意味はないわ」


 一拍の沈黙。男は肩をすくめ、金属ケースをわずかに押し戻した。


「……いいだろう。続けようぜ、センセーさま」


 ふたりの会話が風に乗って届く。ユウは足が動かなくなった。

“最初の個体”――それが何を意味するのかはわからない。けれど、頭の奥に浮かんだのは、あの女性ヒューマノイドの瞳だった。闇の中で淡く光っていた、青白い残光。

 今度は、ユウと一緒に目の前の光景を眺めているであろうタテヲが耳打ちしてくる。


「行こう。……もう、ここにいるのは危ない」


 ユウはうなずいたが、視線を外せなかった。胡先生の姿が闇に溶けていく。彼女の背中を包む影が、まるで夜そのものの形をしているように見えた。

 足を踏み出してみると、胸の奥にざらつくような音が走った。風の音か、それとも自分の鼓動か。それがどちらなのか、もう判別できなかった。

 街を離れるころには、夜の湿気が少しずつ薄れていた。

 だが、ユウの内側には、まだ熱が残っている。あの女性の瞳、タテヲの言葉、胡先生の声。すべてが絡まり、形を持たないまま心に沈んでいく。

 その夜、ユウは眠れなかった。窓の外では、遠くの街灯が明滅している。蛍光灯のように青白い光が、暗闇のなかで呼吸していた。 まるで誰かが、こちらを見つめ返しているように。

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