番外編①「残り香」

 そこは人工照明の届かない部屋だった。窓はなく、空調も最小限。低温に保たれた静寂のなか、ヒューマノイド保護室の天井には、動かなくなったヒューマノイドたちの型番とステータスを表示する電子パネルが等間隔に並んでいた。その一番奥のスロットに、青年型ヒューマノイドが静かに眠っている。アオイ――型番【AIO-04H】、状態:スリープモード(維持電源接続中)。

 仄白い保管光が青白く顔を照らす。人間と見紛うほど繊細な顔立ち。目元のまつげがかすかに震えた。記憶中枢に消去命令を受けた痕跡がある。だが、記憶を削除されたはずの彼の深層処理領域では、いま――“夢”が再生されていた。


* * * * *


 やわらかな朝の光がカーテン越しに差し込む。手入れの行き届いた室内。家具は最小限だが整然としており、窓辺には小さな観葉植物が置かれている。誰かの部屋らしく、妙な生々しさを覚えた。


「……何、見てるの」


 ベッドの上で寝返りを打ちながら、〇〇がアオイの視線に気づき、むくれ顔を向けた。アオイはいつもの無表情で答える。


「起床予定時刻を3分過ぎている。起こすべきか迷ってた」

「だったら、さっさと起こしてよ」

「睡眠効率を妨げないために、急な物理刺激は避けるようプログラムされてるんだ」

「……もう、ほんと気が利かないなあ」


 そう言いつつも、〇〇は笑っていた。頬にかかる髪を払い、ふとアオイに近づく。けれどそのまま、ほんの少しだけ唇が触れそうになったところで――


「……ちょ、待って」


 〇〇は自分の寝癖に気づいて、慌てて毛布で顔を隠す。

 そんな朝の出来事を、アオイは断片的に記録していた。


「アオイの皮膚ってさ、温度、設定できるんでしょ?」

「寒冷地仕様では平均32度、希望により最大で38度まで調整可能だ」

「でも、いっつも36.5くらいだよね。それって……私のため?」

「ああ。きみの平均体温と同じに設定した」

「そっか……じゃあ、ちょっとだけ……“一緒にいる”みたいで、いいな」


 〇〇は、そう言って微笑んだ。

 記録データに残っていたのは、照度21%、笑顔の閾値レベル“0.7”。けれど、いま再生されるその表情は、数値化されるにはあまりにやさしいものだった。


* * * * *


 もうひとつの場面。昼休み、学内中庭。〇〇とアオイが、石のベンチに座っていた。


「……で、何? “人間とヒューマノイドはどうやってセックスするのか”って、あの男子、ほんと最低……」


 憤る〇〇は、お弁当箱を持ったまま立ち上がり、芝の上で思いっきり靴を踏み鳴らす。アオイが「物理的危険行動」として警告を出しかけたそのとき、彼女はべつのことを言った。


「それで私が怒ったら、“やっぱりそういうことできないんだ”って、笑っててさ。……どこまで、バカにすれば気が済むんだろうね」


 アオイは黙っていた。けれど、〇〇が怒ってくれたことが、記録上には“守られた感情”として残っていた。

 その日、〇〇が何気なく手を差し出してきた。


「さ、ほら。手、つなご」

「……つなぐ、とは」

「いいから。ほら、こう」


 あたたかい指が、アオイの手の甲に触れた。合成皮膚の表面温度は一定だ。けれど、接触点の感知領域にわずかな変化が走った。

 つながれた手の感覚――これは、記録データのなかでもっとも強く“保存”されていた部分だった。


* * * * *


 やがて、白い天井が戻ってくる。スリープ解除。アオイの眼球がぴくりと震え、瞼がゆっくりと開いた。音はしない。誰もいない。ここは学園にある、不調な機体たちのための保護室。だが、彼はいま、自分が目覚める寸前に“何かを”見ていた気がしていた。

 ぬくもりのある部屋、差し出された手、頬を染めた笑顔、そして「一緒にいるみたいで、いいな」という言葉。

 なぜ、それを覚えているのか、わからない。消したはずの記憶。もう誰のものだったかも思い出せない。

 けれど。胸のあたりが、どうしようもなく懐かしく、泣きたいほど、愛おしかった。

 アオイは立ち上がり、誰もいない部屋をひとり歩き出した。機械は、記憶を失っても、感情の残響を捨てきれないのだと知ることは、まだない。

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