第35話 帝国の動きと地下街の大浴場

 中央大陸の北半部を治めるネブラス帝国。その心臓部たる帝都。そのまた中心にそびえるのは、黒曜のごとき巨城──天へと鋭く突き立ち、時に雷雲を纏うその姿は、帝国の威信そのものであり、恐怖の象徴であった。


 石造りの重厚な扉が音もなく閉ざされたのち、重い沈黙を破るように、怒声が部屋に響き渡った。


 部屋の中に居たのは、鼻梁の通った金髪碧眼の美大夫と頭の禿げあがった中年の男。


 金髪の美丈夫は仕立ての良い、如何にも高級な衣服に身を包んでいる。一方、中年の男は闇に溶け込むような黒いローブを着ていた。


「三年だぞ? 今回の侵攻は準備に三年もかけたのだ! それなのに失敗? しかも、兵の多くを失っただと?」

「ヴァルドリウス様。どうか落ち着いてください……。失った兵の多くは金で雇った傭兵です。ヴァルドリウス様の兵の多くは生き延びて帝国側に戻っております……」


 黒いローブの男は、ヴァルドリウスを落ち着けようと額に汗を搔きながら続ける。


「邪徒を一人失いましたが、それも元は傭兵団の頭領です。また、奴隷や二級市民を邪神に捧げて作れば問題ありません」


 ヴァルドリウスは無言で銀製の茶器を手に取り、黒茶を一息に飲み干すと、深く息を吐いて執務机の椅子に沈み込んだ。


「……今回の作戦は俺が皇位を継ぐための第一歩だった。俺の失敗を知り、兄イシュガルは大笑いしているだろう。『皇位はもらった』と……」

「イシュガル様は確かに喜んでおられるでしょう。しかし、それだけです。何もしておりません。たとえ失敗したとしても、次の帝位にふさわしいのはヴァルドリウス様です。行動こそが、道を拓くのです」


 黒いローブの男は執務机の前に立ち、熱弁を続ける。


「陛下は『力を示せ』とイシュガル様とヴァルドリウス様に仰いました。我々の邪徒は配信魔法を通じ、その武威を王国全土に知らしめたのです。あの黒豹騎士団のレオパルドすら討ち取りました。これは力を示したことに違いありません」

「ふむ」


 やっと落ち着いてきたのか、ヴァルドリウスの表情に冷静さが戻っていた。


「それで、邪徒を討った男の詳細は掴めたのか?」

「帰還した兵の証言をつなぎ合わせた結果、いくつかの事実が浮かんできました」

「ほう……」


 黒いローブの男が執務机に近付き、声を潜める。


「我々の邪魔をした男は、灰色の髪に灰色の瞳をしていたそうです。そして、恐るべき身体能力を有し、ほぼ体術だけで邪徒を打ち負かしたと……」

「……灰色……。まさか、最北の戦士?」

「その可能性があります」


 ヴァルドリウスは双眸に鋭い光が宿る。


「戦士の血は根絶やしにしたはずだぞ? 今、あの地に残っているのは、ただ灰色の髪をした腑抜けだけだ!」

「私もそれは存じておりますが、兵士の証言を聞く限り、そうとしか思えません。ネブラス帝国に牙を向いたエルゲンの血を引くものが、残っているのです……」

「もし本当であれば、絶対にその男を討つ!」


 硬く拳を握って、ヴァルドリウスは宣言した。


「承知いたしました。さらに情報を集めます」

「頼んだぞ」


 黒いローブの男は軽く礼をして、静かに扉の影へと身を消していった。残された部屋には、重苦しい沈黙と、帝位への野心だけがなおも漂っていた。




#



 意外なことに、地下街にも浴場はある。それも地上に負けないぐらいに立派な施設で、いつも地下ギルドのメンバーで賑わっている。


 もともとは地下ダンジョンの水攻めトラップ部屋――入ると扉が開かなくなり、壁の穴から水がダバダバ出てくる――だったらしいのだが、有志が魔改造して浴場にしてしまったらしい。


 地下ギルドメンバーの謎の行動力に脱帽である。


 俺は浴場の扉を開き、カウンターのオッサンに金を渡す。


「よう、ロジェ! こんな時間に湯浴みとは、配信でもあるのか?」

「あぁ。このあと白蘭魔法団が訓練配信をやるんだ。身体を清める必要がある」

「へえ~」


 カウンターのオッサンは興味なさそうな返事をよこす。一度、観ればその魅力に気が付く筈だが、哀れな男である。


 俺はオッサンから脱衣所のロッカーの鍵を受け取り、さくっと支度をして浴場へと入る。


 むわっとした湯気の向こうに、幾つもの男の姿が見えた。地下ギルドのメンバーはヤバイ奴等ばかり。どいつもこいつも、その身体には刺青が入っている。


 俺もそのうち、エルルちゃんの刺青を入れる予定である。


 壁際の椅子に座り、俺は身体を清め始めた。


 まず、石鹸を泡立て髪を洗う。


 薬屋のババアにもらった髪染めの薬は相当強力だったらしく、洗っても伸びても色は黒いままだ。ババアさまさまである。


 目を閉じて丁寧に髪を洗っていると、すぐ側に人の気配がした。


「あら、ロジェじゃない。身体洗ってあげましょうか?」


 この声は……最悪だ。浴場で最も会いたくない男、ブーマーである。俺は慌てて髪を湯で流し、立ち上がって拳を握る。


「ちょっと! なんで構えるのよ!」


 全裸のブーマーが手をふるふる振って、敵意がないことを示した。股間がブラブラ揺れて不愉快だ。


「まってよ! なんで殺意が増してるの! 魔力で身体強化するのやめて!」


 ブーマーは大袈裟に手を振る。更に股間が揺れる。


「股間を揺らすのをやめろ」

「そこ!? そこに殺意を抱いたの!?」


 そう言いながら、ブーマーは脚と脚をクロスさせて股間の揺れを収めた。


「全く……何でスイッチが入るかわからないわね……。ロジェは……」


 俺の隣に座ったブーマーは身体を洗い始める。今回は自分の石鹸を忘れずに持ってきたらしい。


 俺も座りなおし、身体を清める。


「そういえば、ロジェ。あなたの偽者が現れたらしいわよ」


 身体を泡塗れにしながら、ブーマーが面白いことを言った。


「俺の偽者? 一体どういうことだ?」

「えっ、そのまんまよ。灰色の髪に灰色の瞳をした男が王都に現れ、冒険者になったの。しかもいきなりA級登録。『謎の仮面の男』と同一人物として、討伐隊の件が評価されたそうよ」


 灰色の髪に灰色の瞳……。まさか、俺と同じ最北の民?


「その男は……強いのか?」

「私が直接みたわけじゃないけど、かなりのやり手って噂よ。なんでも、南部で暴れていた地龍を単独で討伐したらしいわ」


 ブーマーは身体を洗う手を止め、真剣な表情を俺に向けていた。


「地龍を……?」

「ええ」


 もしそれが本当だとすれば、A級以上の実力は間違いなくある。しかし、最北の戦士の家系の血はもう残っていない筈……。もしかして、俺と同じように帝国の手を逃れていた者がいたのか……。


「興味ありって顔ね」

「……そうだな」


 俺の泡を流すと、大きな浴槽に身体を沈めた。そして、あらゆる可能性について考え始めた。

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