君と夏をサマーリプレイ
水樽子うどん
1章
1章-1 満員電車、淀んだ景色
――ふわり、と風が吹いた。
白い世界の中、柔らかな光が差し込んでいる。
遠くで誰かが笑っている声。
制服の袖、木漏れ日、夏の匂い。
懐かしい風景が、雪のように目の前へ降ってくる。
(……エミリ? ケイタ……)
ユイは友人に手を伸ばす。
だけど、その指先は誰にも触れられない。
目の前で、弓道場の屋根がゆっくりと解けていくように、思い出は淡く崩れていった。
やがて、音が止む。
――そして、黒い世界。
ぽつんと、誰かの背中が見えた。
「……リョウ……くん……?」
呼んだ声は届かない。
彼は振り返らず、ただ遠ざかっていく。
闇に溶けるように、静かに、冷たく。
(どうして……どうして、行っちゃうの……?)
足が動かない。声も出ない。
ユイは、そこから一歩も進めなかった。
そして。
次の瞬間、赤が世界を塗りつぶす。
「やめてっ! それ以上……来ないで……!」
誰かの悲鳴が響いた。自分の声か、誰かの声か。
視界の中で、ナイフがきらめく。
自分の手が、誰かに向かって振り下ろされる。
血が飛ぶ。
誰かが倒れる。
叫び声――
「……リョウくん……!!」
倒れ込む彼の姿。その胸元が、赤く染まっていた。
(ちがう……ちがう……!そんなはずじゃ――)
そのとき、世界が砕けた。
⸻
「はっ……!」
ユイは、喉を詰まらせるように目を覚ました。
視界が滲む。身体が熱い。
手のひらに、何かが残っている気がして……反射的にベッド脇のスマホを掴む。
「……7時半……」
(会社……行かなきゃ……)
呟いた声は、かすれていた。
――けれど、夢の中の“感触”だけが、なぜか妙にリアルに残っていた。
⸻
夜の電車は、湿った空気を運ぶ。
梅雨が明けきらない空の下、満員電車に揺られながら、
ガラスに映る自分の顔は、今日も感情が抜け落ちたようだった。
無表情。けれど、別に悲しいわけじゃない。ただ、何かを忘れているような気がする。
「……はぁ」
小さく息が漏れる。ため息が、吐いた瞬間すぐに電車の空気に溶けた。
電車が駅に着き、人が押し寄せる。背中を押されながら、ユイはつり革を握り直した。
視界の端で、スーツの袖に擦れる自分の手。
爪は短く整えられ、ネイルも何もしていない。
「……昔はもっと、笑えてたのに」
口に出した瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
でもすぐに、また何も感じないふりをした。
会社では、ミスのないように、波風を立てないように。
事務仕事を淡々とこなし、指示通りに、予定通りに動く日々。
「そろそろ降ります」
反射的に口にして、人の波に身をまかせるようにして降りる。
吐き出された夜の駅のホームは、ひどくまぶしくて、少しだけ息苦しかった。
改札を抜け、イヤフォンもつけずに歩く帰り道。
ふと、自販機の明かりに照らされたガラスに映る自分を見て、もう一度ため息がこぼれる。
「……なんか疲れた顔してるな」
誰に聞かせるでもない、ぽつりと落ちた声。
でも、その声が一番、自分自身に突き刺さる。
それでも、誰に頼まれたわけでもない毎日は、また明日もやってくる。
だからユイは、今日もきっと――無表情なまま、家に帰るのだ。
――あと少しだけ、我慢すれば、明日は休み。
でも、心が休まる場所なんて、どこにもない。
▽
カシャン、と鍵が鳴る音が、やけに大きく響いた。
ドアを閉めても、静けさは消えない。むしろ、音がしないことが、耳に残る。
部屋の電気をつけると、薄い明かりがワンルームを照らす。
一人暮らしの、狭くも整った空間。壁際の本棚、観葉植物、小さなキッチン。
でも、そこに人のぬくもりのようなものはなかった。
鞄を置いて、エアコンのリモコンを手に取る。
つけっぱなしだったLINEの通知が、スマホの画面に浮かぶ。
「〇〇ちゃん、結婚するんだって」
「えーすごい!式呼ばれた?」
「高校のときから付き合ってた人でしょ?」
クラスのグループトーク。懐かしい名前と、懐かしい顔。
でも、画面越しのやりとりには、もう“今のユイ”の居場所はなかった。
「……そっか、みんな結婚する時期か」
小さく呟いた声が、部屋の空気に沈んでいく。
知らないうちに、みんなは“ちゃんと進んで”いる。
置いていかれたわけじゃないと頭では分かっていても、心が追いつかない。
視線がふと、机の隅に置かれた白い小箱に向かう。
久しく開けていなかった、小さな記憶の棺。
そっと蓋を開けると、中から現れたのは
――ハートのアローモチーフペンダント。
細いチェーンに繋がれた、弓矢の先端のような繊細なトップ。
光も当たっていないのに、どこか淡く、きらめいて見えた。
「……まだ、持ってたんだ」
まるで昨日も手に取っていたかのように、自然に指が触れる。
そして、ごく自然に、首元へと掛けた。
ペンダントが胸元で冷たく光る。
でもその冷たさが、今の自分にちょうどよかった。
「……もう、前に進まなきゃいけないのに。何やってんだか」
ソファに崩れるように腰を下ろし、ペンダントの矢先を見つめる。
あの日の笑顔、あのときの声、手の温度――
すべて、あの夏に置いてきてしまったもの。
気づけば、心臓の奥がじわりと熱くなる。
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