第9話 かつてあったはずの「物語」
魔王の城の中に入ると、冷たい空気が漂った。牢屋にいたときと同じ雰囲気だ。でも、以外にも魔王の城は生活感に溢れていた。白い炎の灯った燭台。客人を迎えるような紫色の絨毯。黒い外壁さえ気にしなければ、中世の貴族が住んでいそうな城だ。牢屋と違って、警備をしている兵士もいない。それでも油断はできないな。僕は唾を飲み込んで、被っているマリンキャップを整える。
「元の世界に戻るには、魔王を見つければいいんだな」
クリスが拳を握り締めて、階段の先にある黒い扉を睨み付ける。その瞳はカレンとセオドリックさんを喪った怒りで燃えていた。意外な反応だったよ。僕が謝ったときに、クリスも謝ってきたのは。正直言って、もう一緒に冒険できないと思っていた。魔法で狂ったようにカレンとセオドリックさんを痛めつけていたときまではね。でも、クリスもやっぱり根は良い奴だったんだ。そうじゃなかったらとどめを刺すのをためらったりしなかったよ。僕も、カレンとセオドリックさんが武器を構えたときは、すごくショックだった。だけど、カレンと牢屋を脱出して、カレンがそんなことをするような子じゃないことは分かっていた。だからこそ、二人の気持ちを無駄にはできないよ。
「どうしてだろう……? 私は……ここに来たことがある……?」
コーラが城のステンドグラスを見て呟く。ステンドグラスは紺色に白いガラスが散りばめられていて、まるで星空をそっくりそのまま持ってきたようだ。片田舎のグリーンウッドでも、こんなに綺麗な星空は見えないよ。コーラはすっかり城のステンドグラスに目を奪われていた。
「何言ってんだ? コーラはここに来たことがねぇんじゃなかったのか?」
クリスが不思議そうにコーラを見る。コーラの目には、星空が広がっていた。まるでコーラを違う世界に引きずり込むように、ステンドグラスの星は瞬いている。
――寒くないかい? 僕のコートを貸すよ――
体を震わせる私に、オズワルドは自分のコートを着せてくれた。オズワルドのぬくもりが残っているコートを着ると、胸の痛みも少し和らいだような気がする。暗くてお互いの顔はよく見えないけど、時々星明かりに照らされた彼の瞳が見えた。
――ありがとう、オズワルド――
私はコートに体を預ける。もうオズワルドと会ってからどれぐらい経っただろう。オズワルドのコートはひどく大きく感じた。彼は相変わらず青白い顔をしていたけど、目は以前より光を帯びている。
――君の髪飾り、星の光に当たるとキラキラ光るね。とても素敵だよ――
――うん、お母さんがくれたの――
暗闇でもはっきり見える私の髪飾りを見て、オズボーンは言葉を投げかける。この髪飾りは誕生日の時お母さんからもらった物だ。星の形をしていて、光が当たると虹色に光る。オズワルドとこの丘で星を見るときに、絶対に付けていこうと思ったの。
――ねぇ、オズワルド。いつかこの丘で結婚式を開きましょう――
――ええっ!? ぼ、僕と!? ――
私が手を取ると、オズワルドはのぼせ上がったような口調でどもる。冷たいはずの青白い手が、汗ばんでいた。私が空いている方の手を添えると、オズワルドのどもりはますます酷くなる。
――い、いいの? こんな本ばっかり書いている僕なんかで……。君にはもっとふさわしい人がいるだろう? ――
いつもと変わらず、自信なさげな口調のオズワルド。私は彼の肩に寄り添った。華奢だけど、私を支えてくれるのはこの肩しかないわ。
――あなたじゃなきゃ駄目なのよ。あなたあっての私なの――
私は手探りで彼の頬を探し、優しく口づけした。彼の頬は冷たかったけど、私の唇が触れた途端に火照る。暗くて、お互いの顔が見えなくて良かった。だって、こんな顔恥ずかしくてオズワルドには見せられないもの。このまま夜が明けないで欲しい。そうずっと願っていた。このまま二人の顔が見えないまま、この状態のままでいたいと思った。
やっぱり変だよ。最近のコーラは。ふとした拍子に、ああやって上の空になる。何かを思い出すと、取り憑かれたように頭を押さえるんだ。
「そうだわ……あの人も星を見ていた……。彼と一緒に……」
クリスも怪訝な顔をする。また変な夢でも見たのかな。コーラは起きているはずなのに。
「でも、どうしてそれを私が知っているの? 私はあの人達を知らないのに……。私は……一体誰なの?」
体を震わせて、酷く動揺するコーラ。まるで悪夢にうなされているようだ。クリスはコーラの体を軽く小突く。
「おい! お前はコーラだろ!」
クリスに小突かれて、コーラは我に返る。虹色の顔が青くなっていた。クリスは真剣な顔つきでコーラを見ている。あんな表情のクリスは初めて見たよ。セオドリックさんとの旅で、何かあったのかな。コーラは小刻みに呼吸をしている。まだ動揺が抜けきっていないみたいだ。
「どうしたの? コーラ。また悪い夢でも見たの?」
「……いいえ、ちょっと目眩がしただけよ。心配しないで」
平常心を取り戻そうと、冷静なふりをするコーラ。心配しないなんて無理な相談だよ。夢にしては酷い動揺ぶりなんだから。
「お前、何処か良くねぇんじゃねぇのか?」
「私は平気よ」
僕とクリスに問い詰められて、冷たい口調で突き放すコーラ。口調に反して、顔色は悪いままだ。ヒスイ色の瞳が少し曇っている。
「無理は禁物だぜ、お嬢さん。流れ星ははかなく散るって言うからな」
突然響く声に、僕らは辺りを見回す。城の階段にも、通路にも誰もいない。でも、声の主は分かっている。あの飄々とした声色。僕はゆっくり息を吸って後ろを振り向いた。
「おっと、ちびっ子にはバレバレだったか」
声の主は見破られてもいつもの態度を崩さない。余裕げに牙を覗かせていた。クリスは声の主を見た瞬間、嫌悪感をあらわにする。
「テメェはっ!」
「無駄な抵抗は止めときな、じゃじゃ馬ガール。騙したのは悪いと思っているからさ」
声の主、ルシアンはクリスが振り上げた花を降ろさせる。言葉とは裏腹に、なんとも思っていなさそうだ。どこまで面の皮が厚いんだ。でも、意外なことにクリスはそれ以上ルシアンを攻撃しようとはしなかった。ただ悔しげに、唇を噛んでいる。
「それにしても、お前さん方とうとうここまで来ちまうなんてな。運が良いんだか悪いんだか」
皮肉めいた笑いを浮かべるルシアン。でも、琥珀色の瞳は笑っていなかった。僕はそれを見て、不穏な気配を感じ取った。また何かを企んでいるのか?
「……ルシアン、あなたは一体何者なんだ?」
「ククク、言ったはずだろ? オレはちょっと芸達者な遊び人。いや、遊び人になることを仕向けられた男さ」
ルシアンは不敵に笑って、燭台の火を吹き消す。遊び人になることを仕向けられた? 一体どういうことなんだ? 僕も木の枝を取り出す。だけどルシアンに取り上げられた。
「ははっ、チビ助のくせに勇敢な奴だな。前にもそうやってオレに向かってきた奴を見たぜ」
僕が持っていた木の枝を見て、ルシアンは物思いにふけるような顔をする。その横顔は何処か哀愁を感じた。
「一体、何の事?」
「……本当に忘れちまったんだな。まあいいさ。また全部忘れちまうんだからな」
コーラを見て、寂しげに呟くルシアン。コーラはその視線を受けて、困惑していた。忘れた? 一体どういうことなんだろう。ルシアンは、コーラと何か関係があったのかな。ルシアンは視線を落として、僕らに向かって手をかざす。まるで僕らに顔を見られたくないように。
「諦めな。どうせどうあがいても、お前さんらはもう、元の世界に戻れやしない」
「おい……。どういうことだよ!?」
ルシアンの言葉に、僕の全身には電流が走ったようなショックが伝う。いつもとは打って変わって、突き刺すような冷たい口調だ。なによりも、髪の隙間から覗く鋭い琥珀色の瞳が、本気であることを物語っていた。クリスも動揺している。信じたくはなかったけど、あの瞳がそれを許してくれなかった。僕達は元の世界に帰れない……。
「お前さんらもあの本を読んでここに来たんだろ? 世界を救う事を頼まれてさ。そこの星明かりちゃんと一緒にここまで来たんだろ?」
そう言って、ルシアンはコーラを指さす。えっ……? どうしてそれを知っているんだ? ルシアンはこの世界の人のはず。そこまで知っているなんて、普通じゃないよ。まさか……。
「あなたも、僕達と同じ世界の人なのか?」
「…………大当たりだぜ。景品はお前さんらの敗北しかプレゼントできねぇけどな」
ルシアンは大きくため息をつく。嫌な予感が当たった。確かに、僕らに魔法を教えたり、服装もボロボロのジャケットを除けば僕らと変わらなかったし。本の住人らしくない。
「でも、どうしてそれなら僕らを騙したりしたんだ? どうして僕らにアドバイスしてくれたんだ」
「それは先人としてのオレなりの手助けさ。どう頑張っても、この世界から出られないっていう事を教えるためにな」
突っぱねるような口調で答えるルシアン。でも、何かを隠しているようにも見えた。本当にそれだけなのか?
「そんなはずはないわ! リアムとクリスは必ず私が元の世界に送ってみせる!」
声を張り上げるコーラ。コーラは僕とクリスを守るように光の帯を広げた。それを見て、ルシアンは哀れむような顔になる。まるで小さい星に何ができるのかと嘲笑するように。
「……ハハハ。全くお前さんは変わらないな。相変わらず勇者ごっこをしてやがる。オレの時にも同じ事を言っていたぜ。星明かりちゃん……いや、コーラ」
名前を呼ばれて、コーラは顔をしかめる。まるで長いことその名前で呼んでいなかったような口調だ。
「どうして……その名前を……?」
「この世界にはな、今まで世界を救うべき奴なんざ何人も連れてこられたんだよ。そいつに呼ばれてな。そして……誰一人として元の世界に帰れなかった」
ルシアンは悲しげに語る。ルシアンも僕らと同じ世界の住人だったなんて。ということは、ルシアンも元の世界に帰れなかった一人なのか?
「教えてやるよ。この世界の仕組みってやつをな」
ルシアンはニット帽を目深に被る。ニット帽に浮かぶ炎が、寂しげに揺らいでいた。
オレだって、昔はただのガキだった。あの本を手に取って、星の妖精に導かれてこの世界に来た。お気に入りの紫色のニット帽に、紺色のパーカー。実にガキっぽい格好だったよ。性格もガキみたいで、星の妖精に自分が世界を救う勇者だって言われたときは、調子に乗ってその気になっていた。持っていたヨーヨーで魔法を撃ち出して、あの妖精と一緒に世界を救おうとした。暗い洞窟、枯れ葉の落ちた森。デカい湖にも行ったな。立ち塞がる門番をなぎ倒して、オレはついに魔王の城に着いた。
だけど、勇者にはピンチがつきものだ。それを魔王との戦いで思い知った。オレは全力を尽くして魔王と戦った。だけど、魔王は傷一つ付かない。オレが一方的にボロボロになるだけだった。息も絶え絶えになってもなお、オレは魔王に攻撃していた。
――これで分かったであろう? 若者よ。お前は私に勝てない。お前はここで果てるしかないのだ――
――ふざけんな! オレは絶対にお前を倒してやる!――
体の疲労を振り切って、オレは無謀にも魔王に啖呵を切った。目の前に魔王の持つ大剣が迫っていたのに。魔王の持つ剣には既にオレの血が数滴こびりついていた。オレは魔法を撃ち出すが、魔王は降りかかる火の粉を振り払うように弾く。オレの視界が、だんだん霞んできた。魔王の重々しい足音だけが、耳鳴りのように響いてくる。
――無駄なことを。せめて苦しみを味わうことなく、お前の旅を終わらせてやる――
――やめて!!――
オレ以外の何かが、切り裂かれる音が聞こえた。虹色の光が、オレの視界に入ってくる。そんな……コーラ……。体を真一文字に切られて、血を流すことなく倒れるコーラの姿が鮮明に見えた。コーラの体は消えかかっている。だけど、オレにはコーラの体を抱えることしかできなかった。
――コーラ!! お願いだ! 死なないでくれ!!――
――ルシアン……。逃げて……――
オレは何度もコーラに呼びかけた。剣を振り上げる魔王に目もくれず。コーラの体は光に包まれて、花が散るように消えた。手の中にあったコーラの感触がなくなって、オレは愕然とする。それと同時に、胸の奥から魔王に対する怒りがふつふつとわき上がった。
――流れ星のように儚き導き手よ。お前の役目は終わった。安らかに眠るがいい――
――お前……よくも……よくもコーラをっ!!――
怒りにまかせて、オレは魔王に殴りかかった。その後どうなるか知っていたはずなのにな。魔王の剣が迫って、オレの視界は真っ暗になった。暗くなって、何も分からなくなっていく。その時にやっと気づいた。オレはあまりにも無謀だったって事をな。オレは勇者なんかじゃなかった。途切れる意識の中で、オレは何度もコーラの名前を呼んでいた。
気がついたときには、オレは魔王の城の前に立っていた。頭の中が真っ白だ。オレは一体何をしていたんだ。何も思い出せないでいた。……あの三人に会うまでは。城の門に、黄土色の髪のおっさんと、赤毛のポニーテールの嬢ちゃんが来た。そしてそいつらと一緒にいた星の妖精を見て、思い出しちまったんだ。そいつがコーラだって。だけど、コーラはオレを初めて見るような目をしていた。まるでオレとの旅をぜんぶ忘れちまったようにな。そして、気づいたんだ。今のオレは勇者じゃなかった。オレは魔王の手下っていう役割を与えられちまったんだ。オレは手を突き出して、魔法を撃ち出した。……今でも覚えているさ。オレの魔法に立ち向かおうと斧を振りかざす赤毛の嬢ちゃんに、それを守ろうと杖を振るおっさん。勇者ごっこをしていたオレにそっくりだったよ。だけど、オレは三人とも倒すしかなかった。ヒーロー劇の悪役のように、台本に従うしかなかった。炎の中で悲鳴を上げるアイツらを見ても、どうって事ないふりをするしかオレにはもうできない。もうオレは完全に勇者を倒す悪役になっちまったからな。
「……次に来たのは眼帯をした兄ちゃんだったな。頭が固くて、どんなに痛めつけても俺がコーラを守るとしか言ってなかったぜ。……まあ、結局オレにやられちまったけどな」
思い出すように呟くルシアン。僕らだけが世界を救うために呼ばれたわけじゃなかったんだ。コーラも心当たりがあるのか、苦しげに胸(に当たる部分)を押さえる。
「これで分かっただろ? この先に行っても魔王に殺されて手下にされるだけだ。諦めな」
突き放すように告げるルシアン。ルシアンも勇者だったなんて。にわかに信じがたいけど、もう嘘はついていなさそうだ。
「ふざけんなよ! ここで諦めたらアイツらは……ムウムウとカレンは何のためにアタシ達を通したんだ!」
クリスが拳を握り締めてルシアンを怒鳴りつける。だけど、ルシアンは何食わぬ表情だ。まるで本当に悪役になっちゃったみたいに。
「どうせお前さんらは負けて、コーラはまた記憶を失って振り出しに戻されるんだ。また新しい勇者を導くために。……また一つの物語を始めるために」
「そんなことないわ! 今度こそは導いてみせる!」
コーラも声を荒げる。こんなに必死になっているコーラは初めてだ。今まで、コーラは何回この表情になったんだろう。僕らみたいな人間がここに来る度に、コーラはこんな思いをしてきたのかな。ルシアンも聞き飽きたようにため息をつく。
「諦めろよ。オレだってもう諦めた。お前さん方はこの世界で自分の役割を全うしてりゃあ良いんだよ。開く度に内容が変わる本なんてないだろ?」
ルシアンは鋭い目で僕らを威圧する。だけど、僕も“はいそうですか”って引き下がるつもりはなかった。なおさら先に進むしかないよ。開く度に内容が変わる本がないなら、登場人物が増える本もないはずだ。僕は大きく息を吸い込んで、ルシアンの前に進み出た。
「だったら僕はなおさら先に進む! こんなことは間違っているよ!」
僕は堂々と答える。僕はヒーローなんかじゃないけど、臆病者でもない。木の枝の代わりに拳を握り締めた。それを見てルシアンは少し驚いたけど、すぐに僕を嘲笑う。
「…………ハハハ、笑っちまうぜ。すぐに尻尾を巻いて逃げ出しちまえば良いのに。お前さん、大馬鹿だぜ」
肩をふるわせて笑うルシアン。その姿は滑稽だったけど、何処か悲しげだった。
「誰が逃げるか! アイツらのためにも、お前をぶっ飛ばしてでも先に進むぞ!」
クリスも花を杖に変えてルシアンに突きつける。この場にいる誰一人として、城の外に出なかった。その場から動かない僕らを見て、ルシアンはタバコの煙を吐くようにため息をつく。
そして、僕から取り上げた木の枝を床に投げた。
「……へッ、お前さんらも今まで挑んできた連中と変わらねぇぜ。……来な。オレがその勇気をへし折ってやるよ」
ルシアンがポケットからヨーヨーを取り出す。だいぶ使い込んだのか、ひび割れたヨーヨーだ。ルシアンは本気だ。悪役然とした態度で、僕を真っ直ぐ見ている。鋭い光を帯びた目が、これまでの門番とは違うことを物語っていた。僕は唾を飲み込んで、木の枝を手に取る。それを確認すると、ルシアンは腕を振り上げて、青白い火の玉を飛ばす。僕は木の枝を盾に変えて、火の玉を防ごうとする。火の玉は盾とぶつかって、空中に弾けた。すごい衝撃だ。気を抜くと火の玉に押し返される。僕は盾を剣に変えて、ルシアンと距離を取った。
「へぇ……少しは魔法が上達したじゃねぇか。嬉しいぜ……」
ルシアンは口角を上げて、城の床に勢いよく手を突く。すると、城の床から何本も火柱が飛び出してきた。青白い火柱が、僕の足下をすくい取る。足下をすくい取られて、僕は地面に叩き付けられた。すさまじい熱気が地面を伝ってくる。胸が打ち付けられて、鈍い痛みが広がった。痛みのあまり、僕は地面に這いつくばって呻く。
「どうした、その程度か? 勇者様よぉ」
ルシアンは嘲るような視線を僕に向けて、手に炎を灯らせる。その時、コーラがルシアンに向かって体当たりをした。だけど、ルシアンはものともせず、空いている方の手でコーラを掴む。ルシアンの手の中で、コーラは激しくもがく。
「リアムを殺させはしないわ! 殺すなら私から殺して!」
「……お前さんも可哀想なやつだ。そうやって何度も自分を犠牲にしてきたんだからな」
冷たく言い放つルシアン。でも、その手は少し震えていた。ルシアンは炎を纏った拳を、そのままコーラに振り下ろす。だけど、その拳はコーラに触れる直前、何かに弾かれた。僕には何が起こったか分からなかったけど、ルシアンは自分の拳を弾いた人物を射撃の的を狙うように捕らえている。
「おい、アタシの仲間に手を出すんじゃねぇ!」
クリスが杖をルシアンに向けていた。杖の先からは煙がたなびいている。ルシアンはにやりと笑って、さっと腕を振り上げた。クリスの体が見えない何かに縛り上げられる。よく見るとワイヤーみたいなものが、クリスの周りにまとわりついていた。ルシアンが指を鳴らすと、ワイヤーに炎がほとばしる。炎は情け容赦なく、クリスに向かって這っていった。
「足下注意だぜ、仲間想いの嬢ちゃん」
クリスはもがくけど、火との距離は縮まっていくばかりだ。あのワイヤーを切らないと、クリスが焼かれてしまう! でも、ルシアンに捕まったコーラも危ない。タバコの残り火を消すように、ルシアンは僕のお腹を踏んづけた。胃が圧迫されて、僕は声になら無い声を上げる。今までの魔物とは大違いだ。ルシアンは手加減する気がない。魔王の脅威になるものは、残さず消すつもりだ。
「さあ、どうする? ちびっ子。なけなしの勇気を振り絞らねぇと仲間と一緒にお陀仏だぜ」
ルシアンのブーツがずしんと重くなる。クラッカーみたいに僕の骨を折るつもりだ。クリスはサーカスで火の輪くぐりを迫られたライオンみたいに膠着している。僕はクリスにまとわりつくワイヤーに向かって、剣を投げた。ワイヤーは剣の軌道に沿って切れていく。体の自由が戻って、クリスは地面に着地する。剣はそのまま城の壁に突き刺さった。クリスは杖を振って、紫色の衝撃波を撃ち出した。衝撃波がルシアンの腹に直撃して、ルシアンはコーラを離して少しよろける。そのすきに僕も、ルシアンの足から逃れた。ルシアンはすかさずヨーヨーを振って、クリスを宙につるし上げる。
「駄目だぜ、そんなちんけな魔法じゃあ。オレを倒したいなら殺す勢いで掛かってきな」
ルシアンは宙に吊したクリスを、床に叩き付ける。床に叩き付けられて、クリスは鼻血を出した。よろよろしながら、クリスは杖を持つ。ルシアンはクリスの周りをヨーヨーで囲む。ヨーヨーの軌道は、たちまち青い炎に包まれた。熱気にさらされて、クリスは汗を垂らす。
「もう逃げられないぜ。諦めて運命を受け入れな」
「ふざけんな! お前なんかに運命を決められてたまるか!」
鼻血を拭き取って、クリスはルシアンを睨む。クリスは無防備だ。僕が守らないと。その時、部屋の奥から声がした。コーラだ。コーラが僕の剣を光の帯で包んで持ってきている。
「リアム、受け取って!」
「ありがとう、コーラ」
剣を受け取って、僕はルシアンに斬りかかった。一瞬ルシアンの反応が遅れて、ルシアンの肩を僕の剣がかする。でも、ルシアンはすぐさまヨーヨーを僕目掛けて振り回した。ワイヤーの鋭い線が、僕の露わになっている腕を引き裂く。痛みのあまり、僕は剣を落としそうになった。
「動かねぇ方が良いぜ。うまく首が刎ねられねぇからな」
ヨーヨーを手元に戻して、ルシアンは僕に歩み寄る。僕は痛む腕を押さえながら、剣をルシアンに向けた。手に血がにじんできている。紫色のカーペットは、僕の血で点々と黒く染まっていた。
「……ったく。素直に牢屋の中に入ってりゃあ、ここで死なずに済んだのにな」
ルシアンは炎を纏ったヨーヨーを、僕に向かって投げる。僕は剣を盾に変えて、ヨーヨーを防いだ。ひび割れているはずなのに、ヨーヨーは車が迫ってくるような勢いで、僕の盾を砕こうとする。盾を押さえる僕の足が、だんだん後ずさりしていく。盾が悲鳴を上げるようにピシッと嫌な音を立てる。そんな、負けちゃうのか? 僕は。一瞬の僕の戸惑いに反応して、盾は粉々に砕け散った。粉々になった盾は、ただの木の枝に戻る。僕は盾が壊れた衝撃で、後ろに倒れ込んだ。
「へへ……。もうお前さんを守る盾はねぇぜ」
ルシアンはヨーヨーを得意げに回す。炎を纏ったヨーヨーを回すその姿は、まるで曲芸師みたいだった。だけど、タネも仕掛けもなさそうだ。僕は体勢を立て直して木の枝を取りに行こうとする。ルシアンは火炎車と化したヨーヨーを僕に向かって振り下ろす。うなりを上げて迫る火炎。僕にはそれを防ぐ術がない。その時、何かが僕を空中へ連れ去った。ルシアンはすぐに、空中にいる僕らを絡め取ろうとヨーヨーを振る。僕を掴んでいる何かは、身を翻してヨーヨーを躱す。
「私が守ってみせるわ!」
「ほう、それは頼もしいぜ」
ルシアンはニヤリと笑って、僕を掴んでいるコーラに向かって炎のヨーヨーを鞭の様にしならせる。コーラのもう一つの帯に捕まっていたクリスが、衝撃波でヨーヨーを弾いた。青い炎が、紫色の衝撃波と共に舞い散る。
「お前の小細工は弾き飛ばせばこっちのもんだ!」
「ヘッ、その威勢の良さもすぐに諦めに変わるさ」
ルシアンの手が青く光って、無数の炎が放たれる。コーラは再び炎を避けようとしたけど、一つの炎がコーラの背中に当たった。煙を上げて、コーラは墜落する飛行機のように城の階段に落下する。僕とクリスも階段の側に落ちた。黒くくすんだ背中をさすって、コーラは小さく呻く。その命を摘み取ろうと、ルシアンは階段を一歩ずつ進んでいった。
「そんなに二人を守ろうと頑張っちゃってさ。今回の君の役目も終わらせてあげるよ」
ルシアンがコーラに手をかざそうとすると、階段に向かって紫色の衝撃波が撃たれた。ルシアンは一歩下がって、炎でクリスの杖を弾く。そのすきに僕は床に落ちている木の枝を拾って、ルシアンに向かっていった。でも、ルシアンはうるさいハエを振り払うように、生まれたての子鹿みたいな足どりの僕を虎みたいに睨んだ。生きた心地がしなかったよ。まるで僕の体に手を突っ込んで、心臓を掴まれたみたいだ。木の枝を持つ手がだんだん緩んできた。
「おいおい、そんな棒きれで何をしようっていうんだ? ちびっ子」
ルシアンは話にならないと言わんばかりに笑って、火の玉を僕に当てた。火の玉が足に直撃して、僕は悲鳴を上げて階段から転げ落ちる。足ですぐに振り払ったから良かったけど、火の玉は僕の靴下を焦がした。白い靴下が火の玉の軌道に沿って黒く焼け焦げて、足首が赤く燻っている。階段下に落ちて、僕は頭を打った。涙目になって、僕は頭を押さえる。火傷と頭痛で変になりそうだ。攻撃の手を緩める気もなく、ルシアンは両手に炎を浮かび上がらせた。ルシアンの目の前に、ボロボロになったクリスとコーラが躍り出る。二人とも肩で荒い呼吸をしていて、気力だけで体を支えているみたいだった。
「お前さん達も諦めが悪いな。さっさとくたばっちまったらどうだ?」
ルシアンは呆れるようにため息をつく。でも、二人はその場を動かない。まるで誰かを守るように。
「この程度の傷で、くたばるわけがないだろ」
「例えこの身が滅んでも、この子達はあなたなんかに殺させやしない」
口答えをする二人を見て、ルシアンは深くため息をつく。そして、ためらいもなく二人に両手の火の玉を浴びせた。僕は二人を助けようとしたけど、頭がぐらぐらしてうまく立ち上がれない。二人の体は吹き飛んで、ステンドグラスに激突する。ステンドグラスの夜景が、一瞬にして血の海に変わった。粉雪のように飛び散るガラスと一緒に、二人の体は地面に崩れ落ちる。それでも、クリスはまだ杖を握り締めていた。コーラの光の帯は消えていなかった。ルシアンは二人を焼き尽くそうと、大きな火の球を作り出す。この城のどこに行っても、逃がしはしないような炎だ。二人は立ち上がれないでいる。その姿は意識がもうろうとしている僕にも見えた。頭から血を流しながらも、赤茶色の瞳でルシアンを睨み付けるクリス。虹色の体が黒くくすんでも、目の光は消えないコーラ。……僕のせいだ。僕のせいで二人があんな目に遭ったんだ。激しい後悔と悔しさが身を包む。僕の手に握り締められている棒きれ。どうか、どうかまた剣に変わってくれ! 僕は二人に守られた。今度は僕が二人を守るんだ。傷だらけになった腕をだらりとぶら下げながら、僕はゆっくりと立ち上がった。……お兄ちゃんだからじゃない。伝説の勇者だからじゃない。ただ、仲間のピンチを助ける。当たり前だろう? 何を怖がる必要があるんだ。戦え、リアム! 体中の震えを圧し殺して、僕は自分を鼓舞する。棒きれを振りかざしながら、僕はルシアンに向かって駆けていく。僕が棒きれを振ると、棒きれは剣に変わってルシアンの肩を斬りつけた。ルシアンは突然の痛みに反応して、身を翻す。その弾みで僕は地面に転げた。僕の剣には、ルシアンの血が付いている。赤黒い血が付いた銀色の刃を見て、僕の背中には悪寒が走った。ルシアンのコートが破けて、肩から血が出ている。僕がやったんだ。二人を守るためとはいえ、いい気がしない。それを知って知らずか、ルシアンは肩から流れている血を指で拭って、それを舐めて不敵な笑みを浮かべた。
「その意気だ、ちびっ子。殺す気でかかってきな」
唇を血で濡らして、ルシアンは犬歯を覗かせる。青白い顔に血がべったり付いてて、本当に吸血鬼みたいだよ。僕は肩の痛みを圧し殺して、両手で剣を握る。ルシアンは本当に僕を殺す気だ。僕もルシアンを倒す気で行かないと、殺られる。だけど……。僕が迷っている隙を突いて、ルシアンは火の玉を飛ばした。僕は慌てて伏せて、火の玉を躱す。
「よお、お前さんはどうして諦めようとしないんだ? どうせこの先で魔王にやられて死んじまうのによ」
「僕は元の世界に戻りたいんだ! クリスと一緒に!」
ルシアンの目元が少し痙攣する。ルシアンの手が一瞬止まったけど、すぐに次の火の玉を撃ち出した。僕は盾を作って、火の玉を弾く。そうだ、僕がクリスとコーラを守るんだ。元の世界に帰るんだ。
「決められた役割を演じるのも悪くはないぜ。……何も考える必要がなくなるしな」
なおも続けるルシアン。少し視線を落として、くぐもった声で呟いた。ルシアンはヨーヨーを振って、僕とルシアンの周りに青い炎の円を作り出す。炎の中で、僕とルシアンは向き合っていた。僕を絡め取るように、炎が揺らめく。
「さあ、これ以上抵抗しても苦しむだけだ。火に焼かれるだけだぜ」
ルシアンは目を合わせようともせず、手のひらに火の玉を作り出す。周りの大気を取り込んで、火の玉はどんどん大きくなる。僕も剣を構えて、一歩ずつ進んだ。諦めるもんか。ここで諦めたら、元の世界に帰れなくなる。剣を握る拳が熱くなった。
「なあ……早く諦めてくれよ。その方がオレも仕事が楽になるからさ」
ルシアンは自分の顔より大きくなった火の玉を、震える手で撃ち出せないでいる。僕もその様子を見て、ルシアンに剣を向けられないでいた。ルシアンも迷っているのか? 撃とうと思えば、僕に向かって火の玉を撃てば終わりなのに。しばらくの沈黙の後、ルシアンは覚悟を決めたように炎を纏った拳を振り上げた。琥珀色の瞳が僅かに震える。
「頼むよ……。もう武器を降ろしてくたばってくれよ……」
ルシアンの声も震えていた。炎を纏った拳を、ルシアンはためらうことなく僕に向かって振り下ろす。僕も意を決して、剣をルシアン見向かって振り下ろした。炎が煙をまき散らして、僕らはお互いが見えなくなる。白い煙に覆われて、僕は煙の中に閉じ込められた。煙の中に、ルシアンの影が僅かに見える。僕はそれに目掛けて剣を振った。
「オレだって……。オレだって……お前さんを殺したくないんだ」
煙が止んで、僕とルシアンの姿が露わになる。僕はルシアンの喉元に当たるか当たらないかの距離で、剣を止めていた。ルシアンが驚いた顔をしている。炎の周りに駆けつけたクリスとコーラも、膠着して僕らを見ていた。僕は剣を元の木の枝に戻して、手を下ろす。ルシアンの拳も、殴る相手がいなくなって、力なく崩れ落ちた。
「……どういうつもりだ? ちびっ子。死にたいのか?」
「これ以上戦うのは無意味だよ。僕は戦う気がない人とは戦いたくない」
僕は無防備な状態でルシアンの前に立つ。もう分かったんだ。これ以上の戦いが無益なことを。ルシアンが、僕らと戦う気がなかったことを。じゃなかったら最後の一撃をあんなにためらわないよ。その時、炎の中にクリスとコーラが飛び込んでくる。ボロボロになった体で、僕を守るように二人はルシアンを睨み付けた。
「これ以上戦うなら、アタシが相手になってやる」
「リアムをこれ以上傷付けさせはしないわ」
突然躍りかかった二人の姿を交互に見るルシアン。でも、やがてククッって笑って拳に纏った炎を消した。それと同時に、僕らを包囲していた青い炎も消え去る。
「……全く、お前さん達はどうしてそこまで役割に従わないんだ。……これじゃあ、オレも逆らいたくなっちまうだろうが」
ルシアンは視線を落としたまま、両手を僕らに掲げる。すると、僕らの傷は光に包まれて、どんどん塞がってきた。ルシアンの手から出ているとは思えない、優しい光だ。ルシアンは僕らに道を空けるように端に避けた。
「行きな。お前さん達の勝ちだ……」
ルシアンはヨーヨーを地面に落とす。ヨーヨーは役目を終えたみたいに砕け散った。クリスは腑に落ちないように怪訝な顔をする。
「お前を倒さないと、この先にいけないんじゃないのか?」
「……いいさ、たまには命令に背くのも悪かねぇ。お前さん達がどこまで行けるのか興味が湧いてきたんだ」
そう言うと、ルシアンは僕に何かを投げ渡す。僕はそれをキャッチして、手のひらを覗く。バッジ……? 青く光る炎が描かれたバッジだ。バッジを渡すと、ルシアンの足下が淡い光を帯び始めた。
「そいつで嬢ちゃんを守ってやれ。ちびっ子」
ルシアンは僕に笑顔を向ける。まるでその顔は、昔冒険していた頃のルシアンを見ているみたいだった。僕は頷いて、バッジを胸元に付ける。
「なあ、魔王の命令に背いたら、やっぱりお前は消えちまうのか?」
「…………そうだな。だけど、お前さん達が運命を変えてくれるなら、オレは喜んで命令を無視するぜ」
ルシアンは視線を上げて、少し寂しげに呟く。そして、僕の肩を軽く押した。
「行ってくれ。これ以上負け犬を気にかけても何も出ねぇぜ」
「……ありがとう、ルシアン」
僕が頷くと、ルシアンは満足そうな笑みを浮かべる。まるで吸血鬼から人間に戻ったように。ルシアンを包む光が強くなって、僕らはルシアンに背を向けて、階段を重い足取りで上っていく。胸元のバッジが熱くなる。ルシアンが消える姿なんか見たくなかった。体が振り向くのを拒否していたんだ。涙をこらえて、僕は階段を上り続けた。光が収まると、僕らの背中を押すように、煙がたなびく。それに合わせて、気のせいか僕の耳にはルシアンの言葉が聞こえた。
「お前は諦めるなよ、リアム」
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